第40話 闇の中の決断
「取引なんて、絶対にダメ!」
リナの声が、王宮の広間に響き渡った。
その声は怒りに満ちていた。だが、それ以上に、恐怖が滲んでいた。震えていた。それでも、強い意志が込められている。俺を守ろうとする、必死の叫びだった。リナの決意、守るという覚悟。
と、誰かが鼻で笑う音がした。
ロレンツォだ。
俺には姿が見えない。だが、気配で分かる、声の響きで分かる、空気の震えで分かる。彼は、嘲笑っている。俺たちの無力さを、愚かさを、心から嘲笑っている。優越感に浸っている。
「感動的な友情だな」
その声は、氷のように冷たかった。嘲りがある、残酷さがある。
「だが、現実を見ろ」
一拍の間。
「盲目の少年に、何ができる?」
その言葉が、胸に突き刺さった。
事実だから、反論できないから。余計に、痛かった。真実の痛み、無力の痛み。
「次の戦いでは、お前は足手まといになるだけだ。守られる側に成り下がる。戦力ではなく、重荷になる」
俺は、白い虚無の中で、ロレンツォの声がする方向へ顔を向けた。
何も見えない。ただ、白い虚無だけが広がっている。だが、声だけは、はっきりと聞こえる。憎悪の声、悪意の声。
「それでも……」
俺は、震える声で答えた。
「封印を渡すよりは、マシだ」
「強がりも大概にしろ」
ロレンツォの声が、近づいてきた。
足音は聞こえない。だが、空気が動いた。冷たい気配が、俺の目の前まで迫ってくる。悪意が、まるで実体を持っているかのように、肌に纏わりつく。死の予感、絶望の気配。
そして、耳元で、囁かれた。
「お前の力は、残り一回だ」
その声は、あまりにも近かった。吐息が、頬に触れそうなほど。囁き、悪魔の囁き。
「使えば、確実に死ぬ。魂が砕け散る。存在ごと、消える」
理解より先に、恐怖が全身を支配した。心臓が、激しく跳ね上がった。
事実だ。否定できない。恐怖が、全身を支配する。死が迫っている、終わりが見えている。
「そして盲目のままでは、リナを守ることもできない」
その言葉が、胸を貫いた。
鋭い痛み、心臓を、直接抉られたような痛み。
事実だ。このままでは、俺は何もできない。リナを守れない、誰も守れない。ただの、お荷物だ。無価値な存在。
「三日だけ、時間をやろう」
ロレンツォが、言い放った。
その声は、命令だった。宣告だった。逃れることのできない、絶対的な宣告。審判の声。
「それまでに決めろ」
空気が、震えた。彼の魔力が、室内を満たしている。圧倒的な力、絶望的な差。
「封印の欠片と引き換えに視力を取り戻すか」
沈黙。
重い、重い沈黙。
「それとも、このまま、盲目のまま朽ちていくか」
その言葉が、鉛のように重く、俺の肩に圧し掛かった。選択、究極の選択。
足音が、遠ざかっていく。
今度は聞こえた。革靴が石の床を叩く音、規則正しく、冷徹に。まるでメトロノームのように。その音が、徐々に小さくなり、やがて、完全に消えた。静寂が戻る。
同時に、気配も消えた。
あの圧倒的な悪意が去り、空気が少しだけ軽くなる。だが、重い何かが、絶望が、まだこの場に残っている。呪いが残っている。
重い沈黙が、広間を支配した。
誰も何も言わない、誰も動かない。ただ、誰かの荒い呼吸だけが、静寂の中に響いている。恐怖の音、絶望の音。
「ユウ……」
リナが、俺の手を強く握った。
その手は、氷のように冷たかった。小刻みに震えている、汗でびっしょりと濡れている。恐怖が伝わる、苦しみが伝わる。
「きっと……他の方法があるはずだよ……!」
その声は、必死だった。藁にもすがる思いが、痛いほど伝わってくる。
「バーネット先生なら、何か……!」
「……無理だ」
医師の声が、冷たく響いた。
感情のない、ただ事実だけを告げる声。だが、それが余計に残酷だった。希望を、完全に断ち切る声だった。
「これは通常の失明ではない」
バーネット医師の声が、静かに続く。
「時間の理、世界の法則そのものに逆らった代償だ」
沈黙。
「医術では、治せん。魔法でも、薬でも、どんな治療でも、不可能だ」
その言葉が、まるで死刑宣告のように響いた。
絶望が、広がっていく。
波のように、伝染病のように。広間全体を、暗い霧のように満たしていく。希望が、消える。光が、消える。全てが、闇に、いや、白い虚無に沈んでいく。
だが、その時だった。
「一つだけ……可能性があります」
静かな、しかし確かな声が響いた。
アリシア王女だ。
その声には、わずかな希望が込められていた。絶望に沈んだ広間に、一筋の光を差し込むような声だった。奇跡への道。
「殿下……?」
セリアが、驚いたように問い返した。
「王家に伝わる、古い伝承があるのです」
王女の声が、静かに続く。
「精霊王と契約を結べば、失われたものを取り戻すことができると」
誰かが、唾を飲み込む音が聞こえた。
リナの手が、俺の手を握る力を強めた。その手が、激しく震えている。期待と恐怖が混ざっている。
「精霊王……」
リナが、震える声で呟いた。
「でも……そんなの、伝説じゃ……」
「ええ、伝説です」
アリシアが認めた。
「北の山脈の奥深く、精霊王が眠る泉があると言われています。そこへ辿り着き、契約を結べば、どんな願いも叶うと」
「しかし」
王女の声が、急に沈んだ。
重く、暗く、何か恐ろしいことを言わなければならない、そんな響きになった。死の予告、絶望の宣告。
「辿り着くまでに、多くの試練があります。魔物、罠、そして、精霊王自身の試練」
沈黙。
そして。
「……記録によれば、生きて帰った者は、一人もいません」
その言葉が、広間の空気を、完全に凍らせた。
死の宣告だ。それは、死への旅路だ。生還率ゼロ、絶対的な死地。
「行く」
俺は、即答していた。
一瞬の迷いもなく、躊躇もなく。決意だけがあった。
「ユウ、無茶だよ!」
リナが叫んだ。その声は、恐怖と絶望に満ちていた。
「目が見えないのに、どうやって! 魔物と戦えるわけないでしょ!」
「だからこそ、行くんだ」
俺は言い切った。
「このままじゃ、本当に何もできない。君を守ることも、誰かを救うことも、何もできないまま、ただ朽ちていくだけだ」
事実だから、このままでは、終わりだから。無価値な存在になる。
リナが、泣きながら言った。
「なら……私も一緒に行く!」
その声は、震えながらも決意に満ちていた。共に行くという覚悟、死地への同行。
「絶対にダメだ」
俺は即座に否定した。
「どうして!?」
リナが食い下がる。その手が、俺の腕を強く掴む。離さない、行かせない。
「二人でって、約束したでしょ! ずっと一緒だって!」
その声が、胸を突き刺した。
約束、そうだ。約束した。二人で、どんな困難も乗り越えると。
俺は、彼女の手を、両手で包み込んだ。
小さな手、震える手、氷のように冷たい手。命を繋ぐ手。
「今の俺は、足手まといだ」
認めたくない事実を、口にした。
「君まで、危険に巻き込むわけにはいかない」
「そんなの関係ないっ!」
リナが叫んだ。涙声だった。声が枯れている、絶望している。
「ユウが死んだら、私も……!」
「リナ」
俺は、白い虚無の中で、彼女がいるであろう方向へ顔を向けた。
何も見えない。だが、彼女の温もりは感じる。震えも、涙も、全て。心が繋がっている、魂が繋がっている。
「王都を守ってくれ」
俺は、静かに頼んだ。
「俺が戻るまで、ここを、みんなを」
嘘だった。
戻れる保証なんて、ない。
生きて帰った者はいない。アリシアはそう言った。つまり、これは死への片道切符だ。生還率ゼロ。
でも、彼女を巻き込むよりは、遥かにマシだ。
彼女は生きる。ここで、安全な王都で。俺が消えても、彼女は生き続ける。笑顔を取り戻す。
「……わかった」
長い沈黙の後、リナの声が、震えながら答えた。
涙が、滲んでいる。分かっているのだろう。俺が嘘をついていることを、戻ってこれないことを。最後の別れだと。
「でも……絶対に、戻ってきて」
その声は、懇願だった。祈りだった。
「約束……して……」
「……約束する」
また、嘘をついた。
だが、この嘘が彼女を守るなら、それでいい。
彼女が生きるなら、いつか、また笑顔を見せてくれるなら。
俺が消えても、それでいい。存在が消えても、記憶から消えても。
◇
翌朝。
まだ夜明け前の、薄暗い時間。
俺は一人で、静かに王宮を出た。
誰にも見送られないように、誰も泣かせないように。音を立てずに、石畳の廊下を歩く。忍び足、最後の逃亡。
杖が石を叩く音だけが、静寂の中に響く。
白い世界の中を、俺は歩く。
一歩ずつ、慎重に。石畳の感触を、杖で確かめながら。手探りの前進、盲目の旅路。
見えない世界への、命がけの旅が、今、始まる。
生きて帰れるかは、分からない。
いや、帰れない。それが現実だ。生還率ゼロ、死への片道。
でも、行くしかない。
光を取り戻すために、リナを、みんなを守るために。
そして、自分自身が、ただの足手まといで終わらないために。存在価値を証明するために。
冷たい風が、頬を撫でた。
北風だ。冷たく、鋭い風。これから向かう先、死地を、教えてくれる風。警告の風、絶望の風。
だが、俺は立ち止まらなかった。
白い世界の中を、見えない道を。ただ、前へ。進むしかない。
一歩、また一歩。
死の淵へと続く道を、俺は歩き続けた。光を求めて、希望を求めて。
……本当にこれでいいのか? 死ぬかもしれないぞ? 生還率ゼロだ。
怖い。だけど――行くしかない。
行かなければ、もっと怖い未来が待っている。
これは、俺が選んだ道だ。
誰にも強制されず、誰にも頼らず。
自分の足で、闇の中を歩く。光を信じて。




