第39話 限界の代償
俺の手が、リナの手を強く握りしめた。
その手は、驚くほど冷たかった。氷のように冷たく、小刻みに震えている。汗でびっしょりと濡れている。まるで、死の淵に立っているかのように。生命力が尽きかけている、魂が削られている。
だが、俺は離さなかった。離せなかった。この手だけが、今の俺を現実に繋ぎ止めている。
目の前では、巨大な紫の触手が、アリシア王女とセリア隊長を締め上げ続けている。
骨が軋む音が、恐ろしいほど生々しく響く。セリアの鎧が悲鳴を上げ、金属が歪み、ついに亀裂が走る。王女の顔は完全に青ざめ、口は開いたまま声も出ない。ただ、目だけが恐怖で見開かれている。瞳孔が開いている、意識が遠のいている。
呼吸が、止まりかけている。
あと数秒、いや、数瞬で、二人とも死ぬ。
「ユウ……どうするの……?」
リナの声が、震えながら俺に問いかけた。
その声は恐怖に満ちていた。だが、それ以上に、俺に決断を委ねてくれている。俺を信じてくれている。その信頼が、余計に胸を苦しくさせた。重荷が、肩に圧し掛かる。
触手が、さらに締め付けを強める。
鎧が悲鳴を上げる。
セリアが、ついに小さく呻き声を漏らした。意識が途切れかけている。王女の瞳孔が開き、白目が見え始める。
このままでは、本当に死ぬ。
使うしかない。四回目の力を。
だが。
脳裏に、バーネット医師の冷たい声が蘇った。
『五回目で致命的な何かを失う』
あの診察室、白い壁、無機質な光。そして、感情のない、ただ事実だけを告げるあの声。
四回目だ。まだ四回目。あと一回は使える、そう思おうとした。
だが。
理解より先に、恐怖が思考を支配した。本当にそうか? 四回目は、本当に安全なのか?
前世の物理学者としての思考が、冷徹に計算を始めた。
一回目、魂の消耗度15%。体への負担は軽度。二回目、追加で20%消耗。累計35%。一回目の数倍の激痛、鼻血、耳鳴り、全身の痙攣。三回目、さらに25%消耗。累計60〜70%。視界の歪み、激烈な頭痛。
ならば、四回目は?
医師の予測では30%、だが体感はそれ以上だ。数式が頭の中で展開される。等比級数、指数関数的な増加。グラフの曲線が、急激に上昇していく様が目に浮かぶ。
累計で60%を超える、いや、実際には70%近いかもしれない。限界は、思ったより近い。
だが、選択肢はない。
王女が死ぬ。セリアが死ぬ。そして、次は俺たちだ。リナも、俺も、ここにいる全員が、死ぬ。
「使う、四回目だ!」
俺は叫んだ。
その声は、自分でも驚くほど震えていた。
「待って、ユウ……!」
リナが俺の腕を掴む。その手が、必死に引き留めようとする。
「他に方法がない!」
俺は叫び返した。
「今やらなければ、全員死ぬ!」
リナの手を振り払い、俺は全神経を集中させた。
観測者の力を、最大限に引き出す。
時間を、巻き戻す。触手が王女たちを捕らえる、その瞬間まで。一呼吸分、いや、半呼吸分だけでいい。それだけあれば、避けられる。
深く息を吸い込む。
そして。
「……巻き戻れッ!」
俺は叫んだ。
その瞬間。
世界が、爆発した。
「ぎゃああああああああああああッ!!」
喉が裂けるような悲鳴が、自分の口から漏れた。
これは、痛みではない。
痛みという言葉では、到底表現できない。
魂が、引き裂かれている。
存在そのものが、巨大な手に掴まれて、無理やり引きちぎられていく感覚。肉体ではない、もっと深い、根源的な何かが、削り取られていく。魂の深部、存在の核。全てが、剥がされていく。
二回目の十倍、いや、百倍か? もはや比較する余裕もない。
鼻から、熱い液体が噴き出した。
止まらない。滝のように血が溢れ、顎を伝い、服を赤く染めていく。耳からも同じように。液体が首筋を這う。血の海、生命が流れ出る。
口の中が、鉄の味で満たされた。
生臭い、気持ち悪い、吐きそうだ。だが、それどころではない。
なぜなら。
視界が、おかしい。
色が、消えていく。
最初に消えたのは、赤だった。触手の紫色が、セリアの鎧の銀色が、全て灰色に変わる。次に青が消え、緑が消え、あらゆる色彩が世界から奪われていく。世界がモノクロになる、色という概念が消える。
そして、形が溶け始めた。
輪郭が曖昧になる。人の顔が、壁が、柱が、全ての境界線が滲んで混ざり合っていく。まるで水彩画に水をぶちまけたかのように。現実が溶ける、存在が混ざる。
光そのものが、消えていく。
明るさと暗さの区別が消える。陰影が消える。全てが均一な、ただ真っ白な、何もない虚無に変わっていく。存在しない世界、何もない空間。
「目が……目が見えない……!」
俺は叫んだ。
恐怖が、全身を貫いた。何も見えない、何も。ただ、白い、いや、白ですらない、何もない虚無だけが、世界を覆い尽くしている。視覚が死んだ、世界が消えた。
四回目で、これか。代償、四回目の代償。光を、奪われた。
魂の消耗度、体感で70%は超えている。いや、もっとか。残りが、恐ろしいほど少ない。
あと二回? 三回?
いや、次使ったら、本当に死ぬ。
消える。存在ごと、何も残らず。
「ユウ! ユウッ!!」
リナの悲鳴が、聞こえる。
だが、姿が見えない。
声だけが、遠くから届く。まるで深い霧の向こうから呼ばれているかのように。白い虚無の中に、音だけが漂っている。世界が音だけになった。
恐怖が、全身を支配した。
理解より先に、パニックが襲う。呼吸が乱れる、手が震える、現実が崩壊していく。
これが、四回目の代償。
世界の色彩を、光そのものを、奪われた。
見えない。何も見えない。
闇ではない。闇なら、まだ光を求められる。だが、これは、何もない。白い、虚無。存在しないという感覚、絶対的な喪失。
「今だ! 触手の動きが止まっている!」
セリアの声が響いた。
兵士たちが一斉に動く音。鎧が鳴り、剣が風を切り、槍が空気を裂く。怒号が飛び交い、触手に斬りかかる音が聞こえる。戦いの音、希望の音。
だが、俺には何も見えない。
音だけの世界。真っ白な虚無の中で、ただ音だけが存在している。
その時、何かが俺の手に触れた。
小さな、柔らかな手。
リナだ。
その手を、俺は反射的に強く握りしめた。この手だけが、この白い虚無と現実を繋ぐ、唯一の錨だ。唯一の希望、唯一の光。
そして、その瞬間。
理解より先に、リナの感情が津波のように流れ込んできた。
悲しみ、恐怖、絶望。そして、俺を失いたくないという、激しい願い。
それが、まるで自分の感情のように、魂に直接刻み込まれる。境界が消える、二人が一つになる。
同時に、俺の絶望が、彼女へと流れ込んでいくのを感じた。
見えない恐怖、失われた光、消えゆく存在への恐れ。
これは、あの時と同じ。森の中で、初めて手を繋いだ時と同じ感覚。リナと出会って間もない頃、彼女の恐怖と孤独が、手を通じて流れ込んできたあの日。
二人の魂が、確かに繋がっている。見えない糸で、結ばれている。それが、今ははっきりと感じられた。運命の絆、精霊使いと観測者の。
「ユウ……ユウ……!」
リナが、泣きながら俺を抱きしめた。
その温もり、柔らかさ、涙の湿り気、震える体。全てが、現実だと教えてくれる。俺はまだ生きている、まだ、ここにいる。消えていない。
巨大な何かが倒れる音が響いた。地面が激しく震え、衝撃波が空気を揺らす。破壊の音、勝利の音。
触手が、倒れたのだ。
歓声が上がる。兵士たちの安堵の声。戦いが、終わった。
だが。
俺の世界は、白一色のままだった。
何も変わらない。何も見えない。ただ、虚無だけがある。
その時だった。
誰かが、拍手をする音が聞こえた。
ゆっくりと、まるで劇場で芝居を見ているかのように。その拍手は、不気味なほど規則正しく響く。冷たい音、嘲りの音。
「なるほど、四回目で、その代償か」
聞き覚えのある声。
冷たく、感情のない、ロレンツォだ。
その声は、まるで興味深い実験結果を観察する科学者のように、無機質で分析的だった。人間性のかけらもない、狂気だけがある。
「魂の摩耗が、ついに視覚情報を処理する機能を破壊したか。興味深い。実に、興味深いデータだ」
その声に、好奇心が滲んでいる。俺の苦しみを、まるで研究対象として楽しんでいるかのように。実験動物を見る目、観察対象への冷徹さ。
「貴様ァァッ!」
セリアが剣を抜く音が響いた。金属が鞘から引き抜かれる鋭い音。そして、空気が張り詰める。殺意が、室内を満たす。剣が唸る、怒りが渦巻く。
「また何をしに来た、ロレンツォッ!」
「落ち着きなさい、騎士殿」
ロレンツォの声は、驚くほど穏やかだった。
「今日は戦いに来たわけではない。見ての通り、私は丸腰だ」
足音が、近づいてくる。
いや、足音はない。まるで影のように、音もなく滑るように近づいてくる気配だけがある。幽霊のような存在感、非実体の悪意。
「むしろ、慈悲深い提案をしに来た」
「提案……だと?」
アリシア王女の声が、警戒を滲ませて問い返した。
「ああ」ロレンツォが答える。「その少年の視力、戻してやってもいい」
室内が、一瞬で静まり返った。
全員が、息を呑んだのが分かる。
理解より先に、希望と恐怖が同時に胸を貫いた。
戻る? 視力が? この白い虚無から、抜け出せる? 光が、戻る?
「……条件は?」
アリシアが、鋭く問うた。その声は、罠を疑っている。ロレンツォを信じていない、警戒している。
「簡単なことだ」
ロレンツォの声が、笑ったように聞こえた。嘲笑、狂気の笑み。
「王宮の地下に封印されている、あの『本体』を、私に引き渡してもらうだけだ」
「ふざけるなっ!」
リナが叫んだ。
その声は怒りに満ちていた。俺を抱きしめる腕が、力を込める。震えている。怒りと恐怖で、全身が震えている。拒絶している。
「そんなことしたら、世界が!」
「そうしなければ」
ロレンツォの声が、氷のように冷たくなった。脅迫、悪意、絶対的な残酷さ。
「彼は一生、光を失ったままだ。真っ白な虚無の中で、一生を過ごすことになる」
その言葉が、心臓に突き刺さった。
一生……?
この白い世界で、一生?
「そして次に力を使えば……」ロレンツォが続ける。「今度は魂そのものが砕け散るだろう。存在ごと、消滅する。慈悲深い提案だと思うがね」
沈黙が、重く、落ちた。
誰も何も言えない、誰も動けない。圧倒的な絶望が、室内を支配している。選択を迫られている。世界か、俺か。
俺は、震える手を伸ばし、リナの手を探した。
触れた瞬間、強く握りしめる。
この手だけが、希望だ。
「リナ」
俺は、かすれた声で呼んだ。
「……なに?」
その声は、涙に濡れていた。悲しみに満ちている、絶望している。
「目が見えなくても、俺は戦える」
俺は、必死に言い切った。
「だから、そんな取引、絶対にするな」
「でも……ユウ……」
リナの涙が、俺の手に落ちた。
温かい。悲しみの証、愛の証。
この選択が、今後の全てを決める。
封印を渡せば、世界が終わる。ロレンツォの野望が成就する。
渡さなければ、俺は一生、光を失ったまま。真っ白な虚無の中で、生きていくことになる。
どちらを選ぶのか。
答えは、まだ、出ていない。
ただ、沈黙だけが、重く、重く、その場を支配していた。絶望だけが、そこにあった。
……って、本当にこれでいいのか? 一生、光が見えない? リナの顔も、空も、見えない?
わからない。怖い。でも、世界を犠牲にはできない。
「渡さない」と、俺は声を振り絞った。「たとえ光を失っても、俺たちは戦う――必ず、取り戻す」
リナがその言葉を聞いて、小さく頷いた。二人の手が震えながらも、固く絡み合う。
王宮全体を包む沈黙の中、選択は確定した。行動が、すぐそこに迫っている。




