第37話 王都の異変
王都の城門が見えてきた。
馬車の窓からその姿が現れる。高い塔、堅固な壁、いつも見た安心できる光景。
だが、何かが違う。
門は固く閉ざされ、城壁の上には兵士がびっしりと並んでいる。槍を持ち、弓を構え、鎧が太陽の光を反射する。その数は普段の何倍もある。異常だ。
まるで、戦時体制のようだった。包囲されている、攻められている。そんな緊迫した空気、死の匂い、恐怖の匂い。
「何があったんだ……」
セリア隊長が眉をひそめる。その声には不安が滲んでいる。窓から外を見つめ、唇を噛む。嫌な予感、最悪の予感。
門前で、馬車が止められた。
兵士たちが近づいてくる。槍を構え、警戒した様子で。その目は鋭く、信頼がない。疑いの目、敵を見る目。
「身分を証明せよ!」
その声は厳しい。
セリアが顔を出し、兵士たちの表情が変わった。
「セリア隊長! ご無事でしたか」
その声には安堵が混じる。長く息を吐き出し、緊張が解け、構えていた槍がゆっくりと下ろされる。
「何があった?」
セリアが問う。その声は命令の響きだ。
兵士は顔を歪めた。恐怖がそこにある、語りたくない。でも、報告しなければ。
「三日前から、王都の各所で異変が起きています」
その声は震えていた。
「井戸の水が紫に染まり、夜になると不気味な声が聞こえ、そして」
兵士は、声を潜めた。落ち着きなく周囲を見回し、誰かに聞かれていないか確認する。その動きが余計に不気味さを増す。
「王宮の地下から、何かが這い出してくるんです」
理解より先に、戦慄が全員を貫いた。その言葉が空気を凍らせる。重い沈黙、誰も何も言えない。
ロレンツォの仕業か。封印の欠片がもう影響を及ぼしているのか。
城門をくぐり、王都に入る。
重い扉が音を立てて開く。錆びた蝶番、軋む音。まるで悲鳴のような、死の門、絶望の門。
街の雰囲気は、以前とはまったく違っていた。人々は家に閉じこもり、通りは閑散としている。店は閉まり、露店は出ていない。活気が消えている、生命が消えている。
時折、窓から不安げな視線が向けられる。
カーテンの隙間から、戸の隙間から。怯えた目、疑いの目、助けを求める目。全てが俺たちを見ている。
風が吹き、ゴミが転がる。
乾いた音が響く。誰も拾わない、誰も掃除しない。街が死んでいく、希望が消えていく。
王宮に到着すると、すぐに謁見の間に通された。早足で廊下を進み、足音が冷たい石の床に響く。誰ともすれ違わない、静寂が不気味だ。
そこには、王と重臣たちが集まっていた。玉座に座る王、その周りに立つ豪華な服を着た者たち。皆、顔が険しい。眉が寄り、口が引き結ばれている。
「アリシア、無事だったか」
王が安堵の表情を見せる。その声は優しく、顔に笑みが浮かぶ。父親としての顔、娘を心配する普通の親の顔。
「はい、父上。しかし」
王女は、事の経緯を報告した。神殿の崩壊、ロレンツォの裏切り、封印の欠片が奪われたこと。一つ一つ順を追って、言葉を選びながら、でも隠さずに。
王の顔が、みるみる青ざめていく。血の気が引き、唇が震える。その手が玉座の肘掛けを強く握りしめる。
「封印が、破られたというのか」
その声は恐怖に満ちている。
「完全ではありません」
王女が答える。
「しかし、欠片だけでも、これだけの異変が」
その声が途切れる。言いたくない、認めたくない。
その時、重臣の一人が勢いよく立ち上がった。太った男、豪華な服。宝石で飾られた指輪が鈍く光る。その顔は怒りに満ちている。
「陛下、やはりこの子供たちが原因です!」
その指が鋭く俺とリナを指す。
「彼らを排除すべきです!」
その声は断罪だ。
「何を言う!」
アリシア王女が激しく反論する。勢いよく立ち上がり、重臣を鋭く睨みつける。その瞳に怒りが宿る。
「彼らは被害者です! ロレンツォに利用されただけです!」
「しかし事実、この子らが現れてから異変が続いている」
別の重臣が口を挟む。
「観測者の力など、この世にあってはならないものだ」
「封印すべきです」
「いや、殺すべきだ」
議論が紛糾する。怒鳴り声、反論、罵倒。謁見の間が混乱に包まれる。
俺は、立ち上がった。まだ体がふらつく、膝が震える。でも、立たなければ。言わなければならない。
「俺の力は、確かに危険です」
その声が、謁見の間に響いた。全員の視線が俺に集まる。鋭い視線、疑いの視線、恐怖の視線。全てが俺を貫く。
「でも、ロレンツォを止められるのも、俺の力だけかもしれない」
その言葉に、誰も反論できなかった。事実だから、誰もがそれを知っているから。
「残り何回使える?」
王が尋ねる。その声は静かで、でも重い。王としての問い、決断を下すための情報収集。
「……二回、多くて三回です」
俺は正直に答えた。
重い沈黙が、落ちた。誰も何も言わない、ただその数字の意味を噛みしめる。
二回、三回、それで終わり。それで俺は消える。
リナが、俺の手を握った。冷たい手、小さな手。でも力強く握りしめる。離さない、守る。
「でも、私も戦えます」
その声は震えていた。
「精霊の力で」
その瞳に決意が宿る。
「十歳の子供に、何ができる」
重臣が鼻で笑う。その声は侮蔑に満ち、嘲りがある。
リナの手が、震えた。
その時――
地震のような振動が、王宮を襲った。
地鳴りのような音が響き、床が揺れ、壁が軋み、天井からシャンデリアが揺れる。ガラスが割れ、石が砕ける。
ガラスが鳴る音、誰かが悲鳴を上げる。パニックが広がる。
窓から外を見ると、王宮の庭園から紫の霧が噴き出していた。
噴水のように、滝のように。大量の霧が空へ向かって立ち上る。そして広がっていく。庭を覆い、木々を覆い、建物を覆う。侵食する、汚染する。
「地下だ! また何か出てくる!」
衛兵たちが慌てて駆けていく。鎧の音、剣を抜く音。全てが混ざり合い、混乱を作る。恐怖が伝染する。
だが――
その霧から現れたのは、魔物ではなかった。
人間だった。
ただし、紫の瘴気に侵され、目は虚ろで、ゾンビのように歩いている。よろめく足取り、だらりと垂れた腕、開いた口。血の気のない顔、死人のような顔。
それが、一人、また一人と霧の中から現れる。十人、二十人。数が増える。
「まさか……民衆が」
誰かが呟いた。信じられない、信じたくない。
恐怖が、広がる。
波のように、伝染病のように。謁見の間を満たしていく。理性が消え、本能だけが残る。
重臣たちが震え、衛兵たちが後ずさる。王さえも玉座で身を硬くする。誰も、動けない。
ロレンツォの真の狙いが、見え始めていた。
魔物を呼ぶのではない。人々を操るのだ。封印の欠片の力で、紫の瘴気で。意志を奪い、傀儡にする。そして、王都を内側から壊す。完璧な破壊、完璧な復讐。
窓の外で、操られた人々が増えていく。
十人、二十人、三十人。数え切れない。皆、同じように虚ろな目で同じ方向を向いている。統一された動き、意志のない人形。
王宮を、見つめている。
まるで命令を待っているかのように。次の指示を待っている。破壊せよと、殺せと。そう命じられるのを。
俺は、拳を握りしめた。
これを止めなければ。ロレンツォを止めなければ、人々を救わなければ。
でも、二回しかない。次に使えば一回、その次で終わり。俺が消える。
それで、足りるのか。この災厄を止められるのか。
答えは、まだ、分からなかった。霧の中、暗闇の中。手探りで進むしかない。
……って、どうする? 民衆を攻撃できない。ロレンツォはどこにいる?
わからない。でも、諦めるわけにはいかない。
たぶん、まだ方法がある。
たぶん。




