第36話 限界の選択
第36話 限界の選択
魔物の群れが、騎士たちを飲み込もうとしていた。
剣が閃き、盾が魔物を弾く。でも、足りない。圧倒的に数が足りない。一人で五体、十体。無理だ。
紫の霧を纏った魔物たちが次々と襲いかかってくる。一体倒してもまた一体、切っても切っても湧いてくる。終わりがない、波のように押し寄せる。
夜の闇が、さらに濃くなる。
焚き火の明かりだけが唯一の光源だ。薪が弾け、炎が揺れる。その光が作る影が地面で踊る。長く歪んだ影、まるで魔物そのもののような。人間と魔物の影が混ざり合い、区別がつかない。
「くそっ! きりがない!」
セリア隊長が大剣を振るいながら叫ぶ。その声には焦りが滲んでいる。いつもの冷静さが失われている。汗が額を伝い、息が荒い。疲労が、蓄積している。
アリシア王女も、細剣で応戦している。青のドレスが血で汚れ、金色の髪が乱れている。でも、その瞳には諦めがない。鋭く、強く、王としての意志が宿る。民を守る者として、国を守る者として。
だが、数が多すぎる。徐々に徐々に追い詰められていく。円陣が小さくなり、背中が触れ合うほどに近づく。呼吸が聞こえ、仲間の恐怖が伝わる。
騎士の一人が悲鳴を上げた。
魔物の爪が鎧を裂き、血が飛び散る。地面に倒れ、動かなくなる。名前を叫ぶ声、悲しみの叫び。
そして、魔物の爪が王女の背後から迫った。
紫の霧を纏い、鋭く輝く爪。殺意がそこにある、死が迫っている。王女の命を狙って。
「殿下!」
俺の体が、勝手に動こうとする。立ち上がろうとする、走り出そうとする。でも、できない。足が動かない、力が入らない、体が言うことを聞かない。
立ち上がることすらできない。膝が震え、腕が震え、全身が悲鳴を上げる。骨が軋み、筋肉が痙攣する。
この体では、間に合わない。守れない。何もできない。
その時――
意外な人物が飛び出した。
リナだった。
小さな体が炎の光を背に受けて影を作る。その影が地面に長く伸びる。細く、小さな少女の影だ。だが、そこに迷いはない。
理解より先に、驚愕が胸を貫いた。あの動き、ゴブリンの洞窟で見た、猫のような身のこなし。あれは普通の人間には不可能な動きだった。精霊の加護があったのだ。
「私だって……戦える!」
彼女は震えながらも両手を前に突き出した。剣を握るのではない、純粋な精霊の力で立ち向かう。十歳の少女が、命を賭けて。
「精霊たちよ、力を貸して!」
リナの声が響くと、周囲の精霊たちが応えた。
金色の光が彼女の手の中に集まっていく。形を成し、輝きを増し、やがて、槍のような形を作り出した。光の粒子が渦を巻き、固まり、武器となる。
それは光の武器だ。精霊との深い絆が生んだ新しい戦い方だった。誰も見たことのない、精霊使いの真の力。
魔物に向かっていく。その動きは戦士のそれではない。だが、驚異的な反射神経と身軽さで魔物の攻撃を紙一重でかわす。爪が空を切り、牙が虚空を噛む。精霊の導き、風の囁き、木の葉のような軽やかさ。
そして、光の槍を放った。
それはまるで、精霊が舞うような、危険で美しい舞踏だった。光と影が交錯する。精霊の光が空を裂き、魔物の咆哮が響き、少女の叫びが混ざり合う。混沌とした戦い、生と死の境界。
「リナ!?」
王女が驚きの声を上げる。その瞳が見開かれ、口が開く。信じられないという顔だ。十歳の少女が、こんな力を。
リナの声は、震えていた。恐怖に満ちていた。でも、その中に確かな決意がある。諦めない意志がある、ユウを守るという、揺るがない決意が。
リナの周りには、無数の精霊の光が渦巻いている。金色の光、銀色の光、翠の光、赤の光。全ての色が混ざり合い、虹のような輝きを作る。美しい、神々しい。
その光の槍が、魔物の瘴気を貫いた。
紫の霧が晴れ、魔物が悲鳴を上げる。光が闇を押し返す。浄化の力、精霊の祝福、生命の輝き。
「皆、あの子を援護しろ!」
セリア隊長が即座に指示を出す。その声は再び冷静さを取り戻している。戦いの中で判断を下す、希望を見出す。
「彼女の光が瘴気を浄化している!」
騎士たちがリナを中心に円陣を組む。盾を構え、剣を抜き、彼女を守る壁となる。その動きは訓練された完璧な連携だ。王国騎士の誇り。
リナは震えながらも、精霊に導かれるように光の槍を構え続けた。
その顔は青白く、汗が流れ、息が荒い。でも、槍を下ろさない、光を消さない、諦めない。ユウのために、みんなのために。
◇
俺は、拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、血が滲む。でも、痛みは感じない。
十歳の少女が、その特異な才能を必死に開花させながら戦っている。精霊の力を、まだ制御できない力を。それでも、使おうとしている。命を賭けて。
なのに俺は、ただ見ているだけだ。何もできない、何もしていない。守られるだけ、無力なだけ。
理解より先に、自己嫌悪が胸を締め付けた。情けない。俺は何をしている。力があるのに、使えない。リナを危険に晒している。
でも、今力を使えば、本当に次はない。二回、いや下手したら一回で限界かもしれない。次に使えば死ぬかもしれない、消えるかもしれない。視力を失うか、記憶を失うか、感情を失うか。
セリアの言葉が頭の中で響く。「次は命に関わる」。医師の診断も同じことを言っていた。残り使用回数、実質2〜3回。
リナの精霊の光と、騎士たちの連携で、魔物の数は徐々に減っていく。一体、また一体と。光が闇を押し返し、剣が魔物を切り裂く。希望が、見えてきた。
悲鳴が響き、紫の霧が晴れていく。地面に魔物の死骸が転がり、動かなくなる。瘴気が消え、空気が清められる。
そして、最後の一体が倒れた。
重い音が響き、地面が揺れ、土埃が舞う。
リナは、光の槍を消して膝をついた。精霊たちの輝きが薄れ、闇が戻ってくる。力を使い果たした彼女の体が、ゆっくりと傾く。倒れそうになる。
「リナ!」
俺は、這うようにして彼女に近づく。地面に手をつき、引きずるように前へ。膝が痛く、手が痛い。でも、進まなければ。彼女のそばに。
「へへ……やった、よ」
彼女は、青白い顔で、それでも笑っていた。唇が震え、顔に汗が流れる。でも、その笑顔は本物だ。安堵と誇りが混じっている、勝利の笑み。
「ユウが、力を使わなくて……よかった」
その声は、優しかった。俺を気遣う声だ。自分の限界を超えたのに、まだ俺を心配している。
胸が、締め付けられる。
痛い、苦しい、呼吸ができない。罪悪感が押し寄せる。
だが、この痛みは俺自身のものだけではない気がした。リナの疲労が、彼女の痛みが、まるで自分の体に流れ込んでくるような感覚。俺の罪悪感が彼女に伝わっているような感覚。心が繋がっている。
また、あの感覚。二人の心が何かで繋がっている、そんな不思議な予感。運命の絆、精霊と観測者の。
彼女は俺を守るために、限界を超えて戦ったのだ。十歳の少女が、まだ力を制御できない少女が。それでも、俺のために。命を賭けて。
アリシア王女が、近づいてきた。その足音は疲れている。引きずるような音だ。でも、確かに近づいてくる、歩み寄ってくる。
その表情は、先ほどまでの疑いとは違っていた。冷たさが消え、柔らかさが戻っている。瞳に温かさが宿る、理解と感謝が。
「ユウ、リナ。あなたたちは」
言いかけた、その時――
また異変が起きた。
倒したはずの魔物の死骸が、紫の煙となって集まり始める。
不気味な音が響き、地面から煙が立ち上り、空中で渦を巻く。集まり、凝縮し、形を成す。
「なんだ!?」
セリアが警戒の声を上げる。騎士たちが剣を構え、盾を構える。その顔に疲労と恐怖が浮かぶ。まだ終わっていない。
煙は渦を巻き、そして人の形を作った。
輪郭が浮かび上がり、顔が形成され、ローブが揺れる。紫の霧で作られた透けた姿、幻影。
そこに現れたのは、ロレンツォの幻影だった。
でも、その顔は鮮明だ。笑っている、嘲っている。勝利を確信したような笑み、狂気の笑み。
『やあ、皆さん。楽しんでいただけたかな?』
嘲るような声が、響く。空気を震わせ、耳の奥に届く。不快な声、憎悪を呼び起こす声。吐き気がする。
『これは封印の欠片の、ほんの一部の力だ』
その声は誇らしげだ、自慢げだ。
『もうすぐ、もっと面白いことが起きる。楽しみに待っていてくれ』
その声に、狂気が混じる。喜びと憎悪と破壊への渇望、全てが混ざり合った歪んだ声。人間性を失った声。
そして、幻影は消えた。
煙が霧散し、風に流され、闇に溶ける。音もなく、跡形もなく。残るのは、不安だけ。
重い沈黙が、落ちた。
誰も何も言わない、誰も動かない。
炎の音だけが響く。風が吹き、星が輝く。
ロレンツォは確実に、何かを企んでいる。封印の欠片を使って、世界を壊すために。また人々を危険に晒すために、次の災厄を。
そして俺たちは、それを止める力がほとんど残っていない。疲弊した騎士たち、傷ついた仲間たち、限界を超えたリナ。そして、ほとんど使えない俺の力。絶望的な状況。
夜風が吹き、焚き火の炎が揺れた。
影が動き、闇が迫る。冷たい風が頬を撫でる。秋の終わりの、冷たさ。
遠くで、何かの鳴き声が聞こえた。獣の声、それとも魔物の声。遠く、遠く、森の奥から。不吉な予兆。
これは、まだ、始まりに過ぎないのかもしれない。本当の戦いは、これから始まるのかもしれない。序章が終わり、本編が始まる。
俺は空を見上げた。
星が見える。無数の星、冷たく輝く遠い光。美しく、遠く、無関心な光。
その光の下で、俺は何ができるのか。何を、すべきなのか。リナを守るために、世界を守るために。
答えは、まだ、見えなかった。霧の中を歩くように、暗闇を手探りで進むように。でも、進まなければならない。
……って、進む? どこへ? リナは限界だ。俺も、あと一回か二回。
わからない。怖い。でも、諦めるわけにはいかない。
たぶん、まだ道はある。
いや——必ずある。




