第35話 王都への帰還
馬車の揺れで目を覚ました。
規則的な振動。木の軋む音。車輪が石を踏む音。それが意識を引き戻す。体が揺さぶられ、痛みが全身を駆け巡る。
もう夕暮れだった。窓から差し込む光が橙色に染まっている。長い影が馬車の床に伸びる。一日が終わろうとしている。空が赤く燃えている。
体中が鉛のように重い。少し動くだけで激痛が走る。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。呼吸すら苦しい。喉が渇き、唇が割れ、全身が悲鳴を上げている。
「気がついた?」
リナが心配そうに覗き込んでいた。その顔は疲れている。目の下に影があり、頬が痩せている。ずっと付き添っていてくれたらしい。眠らずに。休まずに。俺を見守り続けて。
「ここは……」
俺は掠れた声で尋ねる。喉が渇いている。唇が割れている。水を、欲しい。
「王都まで、あと半日」
リナが答える。その声は優しいが、疲れが滲んでいる。心配と安堵が混じっている。
「ユウ、丸一日、眠ってた」
一日。それだけの時間、意識を失っていたのか。神殿から逃げて、救出されて、それから。記憶が曖昧だ。断片的にしか覚えていない。暗闇の中を漂っていた。深い、冷たい闇の中を。
窓の外を見ると、セリア隊長が馬に乗って並走している。
黒い鎧が夕日を反射し鈍く光る。
その表情は相変わらず厳しい。眉が寄り、目が鋭い。まるで監視しているかのように。脅威を見張るように。いつでも討てるように。
「リナ……」
俺は小声で尋ねる。誰にも聞かれないように。囁くように。
「俺、疑われてる?」
リナは、少し迷った。
目を伏せ、唇を噛む。答えたくない。でも、嘘はつけない。嘘をつくのは、もっと辛い。
そして、正直に答えた。
「うん」
その声は小さく、悲しそうだ。申し訳なさそうだ。
「でも、私は信じてる」
顔を上げ、俺を見つめる。その瞳には確かな信頼がある。揺るがない何かがある。
「ユウは悪くない」
その言葉が嬉しかった。胸が温かくなる。救われる気がする。少なくとも一人は信じてくれている。たった一人でも、それは大きな支えだ。
でも同時に、不安も募る。王女は。セリアは。他の騎士たちは。みんな、俺をどう見ているのか。危険な存在。排除すべき脅威。そう見ているのか。
ロレンツォが持ち去った封印の欠片。それで何をするつもりなのか。また魔物を呼ぶのか。世界を壊すのか。災厄を解放するのか。
そして、王都で俺を待っているのは。裁きか。拘束か。処刑か。それとも――
◇
夜になり、一行は野営することになった。
平らな場所を見つけ、馬を下ろし、荷を降ろす。騎士たちがテントを張り、焚き火を起こす。薪が組まれ、火打ち石が打たれ、火花が散る。やがて炎が生まれる。
薪が弾け、炎が揺れる。
俺は、まだ自力で歩けない。騎士に支えられて、ようやく馬車から降りた。足が震え、膝が笑う。情けない。こんなに弱っているなんて。子供の体が、さらに脆くなっている。
焚き火を囲んで、アリシア王女が口を開いた。
炎の光が顔を照らし、影を作る。その表情は真剣で、瞳が鋭い。王としての顔。決断を下す者の顔。
「ユウ、改めて聞きます」
その声は王としての声だ。容赦のない、真実を求める声。
「神殿で何が起きたのか、詳しく」
俺は、順を追って説明した。ロレンツォの裏切り。封印の暴走。祭壇での選択。そして脱出のために力を使ったこと。言葉を選びながら、ゆっくりと。途中で咳き込み、水を飲み、また続ける。喉が痛い。声が掠れる。
「三回目の使用……」
王女が眉をひそめる。その顔に心配と恐れが混じる。炎の光が、その表情をより深刻に見せる。
「医術師の話では、十回が限界でしたね」
「はい」
俺は頷く。
「残り、二、三回です」
俺は正直に答えた。
重い沈黙が、落ちた。誰も何も言わない。ただその数字の意味を噛みしめる。
二回。三回。それで終わり。それで俺は消える。
「いや、それも楽観的すぎる」
セリア隊長が口を挟む。その声は冷徹で容赦ない。事実を突きつける声。感情を排した、計算の声。
「今の状態を見る限り、次は命に関わる」
その目が俺を見る。診断するような目。余命を宣告するような目。
「実質、あと一、二回が限度でしょう」
重い事実だった。
空気が凍りつく。誰も何も言えない。言葉が、出ない。
炎の音だけが響く。風が木々を揺らす。遠くで夜鳥が鳴く。
リナの顔が青ざめた。唇が震え、目が見開かれる。拳が握られ、涙が滲む。
「そんな……」
その声は絶望に染まっている。信じたくない。認めたくない。でも、現実がそこにある。
「それよりも問題は」
王女が続ける。炎を見つめ、その先を見つめるように。未来を、見通そうとするように。
「ロレンツォが、封印の欠片で何をするか、です」
その声は低く、不安に満ちている。恐怖が滲んでいる。
「最悪の場合」
その時――
見張りの騎士が叫んだ。
「敵襲! 紫の魔物です!」
全員が立ち上がる。
剣を抜き、盾を構え、警戒態勢を取る。炎の周りに円陣を作り、背中を守り合う。金属が擦れる音。緊張した呼吸。
暗闇の中、無数の赤い目が光っていた。
一つ、二つ、三つ、数え切れない。森の中から、草の陰から、木の影から。全方位を囲んでいる。獲物を狙う目。殺意に満ちた目。
「まさか、封印の欠片の影響で……」
王女が息を呑む。その声は恐怖に震えている。予想が、最悪の形で的中した。
魔物たちが一斉に襲いかかってきた。
咆哮が響き、大地が震える。紫の霧が広がり、赤い目が迫る。爪が煌めき、牙が剥かれ、瘴気が充満する。死の匂い。腐敗の匂い。
騎士たちが応戦する。
剣が閃き、盾が魔物を弾く。でも、数が多い。多すぎる。一体倒してもまた一体。切っても切っても湧いてくる。波のように押し寄せる。終わりがない。
「ユウは動くな!」
セリアが叫ぶ。大剣を振るい、魔物を薙ぎ払いながら。黒い鎧が紫の霧の中で揺れる。炎の光を反射し、戦場を駆ける。
でも、このままじゃ。騎士たちが次々と傷つく。鎧が裂かれ、血が流れる。悲鳴が上がる。倒れる者が出る。円陣が崩れ始める。
リナが精霊の力を使おうとする。
手を前に出し、呪文を唱える。でも、光は弱々しい。金色の輝きがすぐに消えそうになる。精霊たちの声が聞こえない。
神殿での消耗がまだ残っている。力が戻っていない。光は魔物を押し返せない。効果がない。瘴気に飲み込まれてしまう。
騎士の一人が倒れた。
魔物に飛びかかられ、地面に叩きつけられる。悲鳴が上がり、血が飛び散る。動かなくなる。仲間が名前を叫ぶ。
魔物が、アリシア王女に迫る。紫の霧を纏い、牙を剥き、爪を立てて。殺意がそこにある。明確な、王女を狙った動き。
(使うしかないのか……? でも、もう……)
残り、二、三回。いや、実質一、二回。
ここで使えば、本当に次はない。次に使ったら死ぬかもしれない。消えるかもしれない。存在がなくなるかもしれない。視力を失うか。記憶を失うか。感情を失うか。何かを、取り返しのつかないものを失う。
でも、使わなければ、王女が死ぬ。騎士が死ぬ。リナが死ぬ。
選択の時が、また迫っていた。生きるか、死ぬか。力を使うか、諦めるか。自分を犠牲にするか、他人を見捨てるか。
俺は、拳を握りしめた。
震える手で。血が滲む手で。骨が軋む手で。
決断の時だ。また、同じ選択を迫られている。リナを救った時と同じ。仲間を守るために、自分を削る。それしか、道がない。
* * *
また、選択の時が来た。生きるか、死ぬか。
魔物の群れが迫り、仲間が倒れる。
残る力は、あと一度か二度。次に使えば、もう戻れない。




