第34話 救援と疑惑
馬の蹄の音が近づいてくる。
規則的な音。大地を叩く音。それがだんだん大きくなる。近い。すぐそこだ。地面が震え、空気が振動する。助けが、来た。
俺は朦朧とする意識の中でリナにしがみついていた。その体は小さく、冷たい。でも、確かにそこにある。鼓動が伝わる。温もりがある。唯一の支え。唯一の現実。
「ユウ! リナ!」
聞き覚えのある声。力強く、明確な声。希望の声。
顔を上げると、セリア隊長が馬から飛び降りるのが見えた。
黒い鎧が陽光を反射し輝く。
大剣を背負い、力強い足取りで駆けてくる。
その姿が救いのように見える。漆黒の守護者。王国最強の騎士。彼女が来てくれた。
後ろには、数名の騎士と、アリシア王女の姿もある。金色の髪が風に揺れ、青のドレスが翻る。その顔には心配と安堵が混じっている。唇を噛み、眉を寄せ、必死に俺たちを探している。
「無事か!」
セリアが駆け寄り俺の状態を確認する。その手が俺の肩に触れる。冷たく、硬い金属の手袋。脈を測り、呼吸を確かめ、瞳孔を見る。熟練した動き。戦場で何度も繰り返してきた所作。
その表情が、険しくなった。
眉が寄り、目が細まる。唇が引き結ばれる。それは良くない兆候。診断結果が、深刻だという証。
「これは……ひどい消耗だ」
その声は低く、深刻だ。見たことのないほどの重症。魂が削られている。生命力が枯渇している。
「すぐに手当てを」
騎士たちが動き出す。荷物から包帯を取り出し、薬を準備し、水筒を持ってくる。革の匂い。薬草の匂い。金属の音。慌ただしい動き。
「ロレンツォは?」
アリシア王女が周囲を見渡す。崩れた神殿。瓦礫の山。土煙が晴れ始め、惨状が明らかになっていく。その中にあの男の姿はない。千年の歴史を持つ神殿が、跡形もなく崩れ去っている。石の山。破壊の跡。空虚な沈黙。
「逃げました」
リナが答える。その声は悔しそうで、唇を噛んでいる。拳が震え、涙が滲んでいる。悔しさと怒りと無力感が、その小さな体を支配している。
「神殿を崩壊させて、水晶の欠片を持って」
王女の顔が青ざめた。
血の気が引き、唇が震える。その瞳に恐怖が宿る。予言が、現実になりつつある。封印が綻び、災厄が目覚めつつある。
「封印の一部を……まさか」
その声は信じたくないという響きだ。震え、掠れ、絶望に近い。王女の仮面が剥がれ、一人の少女の恐怖が露わになる。
騎士の一人が俺を馬に乗せようとした時、激痛が走った。
「うっ……!」
全身に電流が走るような痛み。骨が軋み、筋肉が痙攣する。体が拒絶している。もう動けない。限界を超えている。
「無理に動かすな」
セリアが鋭く止める。その手が騎士の腕を掴む。鋼のような握力。命令の響き。
「ここで応急処置をする。薬草を」
◇
騎士が薬草を持ってくる。緑色の葉。苦い匂い。それを潰し、傷口に当てる。冷たく、ヒリヒリと染みる。痛みが少しだけ和らぐ。
手当てを受けながら、俺は事情を説明しようとした。口を開く。言葉を紡ごうとする。でも、喉が痛い。声が掠れる。血の味が邪魔をする。
だが、アリシア王女の表情は複雑だった。心配と疑念と恐れが混じっている。その瞳が俺を見つめる。冷たく、鋭く。審問するような目。裁くような目。
「ユウ、正直に答えて」
アリシア王女が冷徹とも言えるほど静かな眼差しで問いかける。その声には王としての威厳がある。友好的な少女ではなく、王国を統べる者としての顔。民を守る責任を背負う者の、容赦ない問い。
「あなたは、ロレンツォの計画に、どこまで関与していたの?」
その言葉が、胸を突き刺す。
関与。共犯。裏切り。そんな意味が込められている。信じていたのに。助けてくれると思っていたのに。疑われている。敵とみなされている。
「どういう意味です!」
リナが俺を庇うように前に出る。その声は怒りに満ちている。体が震え、拳が握られている。涙が目に溜まり、唇が歪んでいる。必死に、俺を守ろうとしている。
「ユウは利用されただけです!」
「黙りなさい」
セリア隊長がリナを制した。その手がリナの肩を掴む。強く、容赦なく。
その瞳には、明確な敵意が宿っている。冷たく、鋭く、まるで敵を見るような目。信頼はない。友情もない。ただ、警戒だけがある。脅威を見る目。排除すべき対象を見る目。王都を守るため、容赦はしない。
「殿下、この少年は危険すぎます」
セリアの声は断固としている。迷いがない。確信に満ちている。
「その力が暴走すれば、今度こそ王都が危険に晒される」
その目が俺を睨む。敵意。警戒。恐怖。全てが混じった視線。かつて味方だった騎士が、今は俺を脅威とみなしている。
「即刻、拘束すべきです」
「それは早計よ、セリア」
王女はセリアを諌めた。その声は穏やかだが、権威がある。反論を許さない響き。王としての、最終決定権。
そして再び俺に視線を戻した。
「あなたの力が、ロレンツォを倒す唯一の切り札になるかもしれない」
その声は認めるような響き。可能性を見ている。希望を見出そうとしている。
「でも、その力は同時に、私たちを滅ぼす刃にもなる」
間が空く。
重い沈黙。風が吹き、土煙が舞い、瓦礫がきしむ。誰も言葉を発しない。
「……今のあなたを、私たちは信用できない」
その言葉が、心に突き刺さる。
信用できない。味方ではない。危険な存在。そう言われている。助けてくれた王女から。共に戦った仲間から。拒絶されている。
「ユウは利用されただけです!」
リナが必死に弁護する。涙が目に溜まり、声が震えている。セリアの手を振り払おうとするが、力で押さえつけられている。
「ロレンツォが全部仕組んだんです!」
「それは分かっている」
王女は静かに言った。その声は冷静で、でも残酷だ。事実を、容赦なく告げる。
「だが問題は、ユウの力そのものだ」
その瞳が俺を見る。審判の目。裁きの目。
「時間を操る力……それは本当に、制御できるものなのか?」
重い沈黙が落ちた。
誰も答えない。誰も動かない。風だけが吹いている。崩れた神殿の破片が、カラカラと転がる音。遠くで鳥が鳴く。平和な世界と、俺たちの絶望的な状況。対比が、痛い。
三回使って、このざまだ。全身から血を流し、立つこともできない。意識も朦朧としている。体が壊れ、魂が削られ、生命が流れ出している。
残り、二回。
だが、次はもっと重い代償を払うだろう。もっと苦しむ。もっと壊れる。視力を失うか。記憶を失うか。それとも――
制御できているとは、とても言えない。暴走した。神殿を崩壊させた。一歩間違えば、全員が消えていた。
「王都に戻りましょう」
王女が決断を下す。その声は命令だ。議論の余地はない。
「そこで今後の対応を決めます」
だが、その言葉には別の意味が含まれているように感じた。俺を保護するのか。それとも、拘束するのか。監視するのか。封印するのか。尋問するのか。処分するのか。
◇
馬車に乗せられながら、俺は不安を抱いていた。
荷台に横たわり、揺れに身を任せる。空が見える。青い空。雲が流れる。平和な光景。でも、心は騒がしい。恐怖と絶望が渦巻いている。
ロレンツォは逃げた。封印の欠片を持って。また何かを企むだろう。また人々を危険に晒すだろう。次の計画を。次の災厄を。
そして俺は、味方からも疑いの目で見られている。敵か味方か。信用できるのか。危険な存在なのか。排除すべきなのか。
これから、どうなるのか。
視界が暗くなる中、俺はリナの手だけを握りしめていた。
その手は冷たく、小さい。でも、確かにそこにある。脈が伝わる。温もりがある。生きている証。
唯一の、味方。
唯一の、希望。
その温もりだけが、俺を繋ぎ止めていた。闇に沈みそうな魂を、現実に引き留めている。リナがいる。だから、まだ諦めない。まだ、戦える。
* * *
味方からも疑われ、敵意の目で見られる。
残る力は二度だけ。次の代償は、想像を絶するだろう。
唯一の希望は、握りしめたリナの手の温もりだけ。




