第33話 暴走と脱出
俺の手が水晶に触れた瞬間、制御を失った力が爆発的に広がった。
体内から溢れ出す力。止められない。抑えられない。時間を巻き戻す力が暴走し、暴れ狂い、全てを飲み込もうとする。血管を駆け巡る熱。皮膚が裂けそうな圧力。魂が引き裂かれる感覚。
時間の逆流が、神殿の一部を飲み込み始める。
床が、壁が、柱が。全てが時間を遡り始める。
石が砂に戻り、砂が消え、何もなかった状態へと戻っていく。建造される前へ。存在しなかった時へ。空気が歪み、現実が揺らぐ。
「何をする気だ!」
ロレンツォが叫ぶ。その声は恐怖に満ちている。体が震え、顔が青ざめている。いつもの余裕が消えた。計算外の事態に、二十年の経験すら意味をなさない。
俺には分かっていた。完全に暴走させれば、全員が時の渦に飲まれる。神殿が、ロレンツォが、リナが、そして俺自身が、全て消える。存在が砕け、消えていく。過去に溶け、無に還る。
だが――
この暴走を「誘導」できれば。
方向を定め、狙いを絞り、一点に集中させることができれば。賭けだ。成功するか、全員が消えるか。二つに一つ。
「リナ! 柱の後ろに隠れろ!」
俺は叫んだ。喉が裂ける。血の味が口に広がる。鉄の味。生臭さ。吐き気がする。
「でも、ユウが」
「信じてくれ!」
リナの瞳を見る。その目には恐怖と、でも信頼も宿っている。涙が滲み、震えながら、それでも俺を信じている。唇を噛み、拳を握り、決意を固める。
彼女は頷いた。
そして、柱の陰に身を隠す。小さな体が、太い石柱の後ろに消える。良かった。これで、少しは。
◇
俺は意識を集中させた。暴走する力を、神殿の出口へ向ける。
扉があった場所。今は石の壁で塞がれている場所。その壁を、建設前の状態まで巻き戻す。力をそこに集中させる。一点に。全てを。千年の時を、逆行させる。
石壁が崩れ始めた。
いや、崩れるのではない。
時間が巻き戻っている。石が砂になり、砂が消えていく。建設される前の状態へ。何もなかった時へ。千年前、この壁が存在しなかった時へ。過去への逆行。歴史の巻き戻し。現実の改変。
「ぐああああ!」
叫び声が喉から漏れる。三回目の使用。今までとは、比較にならない激痛が全身を貫く。
骨が砕ける。
肉が引き裂かれる。
魂が削られる。
全身の細胞が一つ一つ悲鳴を上げている。耳鳴りが響き、幻聴が聞こえる。誰かの叫び声。自分の声。それとも、過去に消えた誰かの。
鼻血が止まらない。床を濡らし、石を染める。視界が赤く染まる。世界が血の色に変わる。痛い。熱い。息ができない。
「やめろ! 神殿の封印構造が崩れる!」
ロレンツォが慌てて黒い石を収める。その顔は青ざめ、手が震えている。彼も予想外の事態に対応できずにいた。計算が狂った。全てが想定外。二十年の計画が、今、崩壊していく。
◇
壁が完全に消えた。
光が差し込む。
風が吹き込む。
外への道が開いた。自由が、そこにある。空が見える。青い空。白い雲。生きている世界。
同時に、俺は膝から崩れ落ちた。
力が抜ける。体が動かない。意識が遠のく。立っていられない。呼吸が苦しい。視界が揺れる。
「ユウ!」
リナが駆け寄る。その声が遠い。だんだん小さくなる。エコーのように響く。水中にいるかのような感覚。音が歪む。
「逃げるぞ……早く……」
俺は声を絞り出す。喉が痛い。息ができない。でも、伝えなければ。リナを、逃がさなければ。
神殿全体が震え始めていた。
地鳴りのような音。床が揺れ、壁が軋み、天井から石が落ちる。封印の一部を破壊した影響で建物自体が崩壊し始めている。支えを失った神殿が千年の時を経て、今、崩れ去ろうとしている。砕ける柱。割れる床。崩れる天井。全てが瓦礫へ。
「くそっ! まだ完全じゃないが……」
ロレンツォは水晶の欠片を掴んだ。祭壇から崩れた水晶の破片を。光を放つ紫色の欠片を。その手が震え、顔が歪む。悔しさと諦めと、それでも残る野望。二十年の計画は失敗した。だが、まだ可能性は残っている。この欠片が、次の手段へと。
そして、別の出口から姿を消した。
ローブが翻り、闇に溶ける。足音が遠ざかり、気配が消える。逃げた。計画は失敗したが、まだ諦めていない。水晶の欠片を持って。
◇
俺は、リナに肩を借りて、なんとか立ち上がる。
足が震える。膝が笑う。立っているだけで精一杯。でも、動かなければ。逃げなければ。崩れる神殿から、一刻も早く。
出口へ向かって走る。
いや、走れない。這うように進む。一歩、また一歩。リナが支え、引っ張り、必死に前へ。小さな体で、全力で俺を運ぶ。息が荒い。汗が滴る。それでも諦めない。
背後で、巨大な崩落音が響く。
轟音。大地が揺れ、空気が震える。千年の歴史を持つ神殿が瓦礫の山と化していく。
柱が倒れ、壁が砕け、天井が落ちる。全てが崩れ、全てが壊れ、全てが塵に還る。石の悲鳴。木材の割れる音。歴史が崩壊する音。
外に出た瞬間、神殿は完全に崩れ去った。
最後の石が落ち、最後の音が響き――
そして、静寂。
土煙が舞い上がり辺りを白く染める。何も見えない。何も聞こえない。ただ、白い霧の中。粉塵の匂い。石の匂い。崩壊の匂い。
「はあ……はあ……」
呼吸が荒い。肺が痛い。心臓が限界を訴えている。全身が痙攣し、筋肉が悲鳴を上げている。
でも。
生きている。なんとか、生き延びた。
だが、代償は重かった。体中から力が抜け、立っていることさえできない。地面に倒れ込み、動けない。指先一つ動かせない。冷たい地面。石の感触。崩れた神殿の破片が頬に刺さる。
「ユウ、血が……」
リナが震え声で言う。その声は恐怖に満ちている。泣いている。必死に俺を呼んでいる。
耳からも血が流れていた。温かい液体が首筋を伝う。鼻からも、口からも、目からも。全身から血が溢れている。体が壊れている。魂が漏れている。生命が、流れ出している。
三回目の使用。残りは、二回から三回。
だが、このペースでは三回も使えないかもしれない。次に使えば一回か二回。その次でゼロ。そして――
もう、限界が見えている。視界が霞む。意識が薄れる。世界が遠ざかっていく。
「ロレンツォは……」
俺は掠れた声で聞く。喉が痛い。声が出ない。
「逃げたみたい」
リナが答える。その声は悔しそうだ。唇を噛み、拳を握っている。
「でも、水晶の欠片を……」
封印の一部を、持ち去られた。それが何を意味するのか。今は分からない。でも、良いことではない。きっと、また何かを企む。次の計画を。次の災厄を。
遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
規則的な音。複数の馬。武装した騎士たち。王都からの追手だろうか。それとも。誰が来るのか。敵か、味方か。
「ユウ、しっかりして」
リナが必死に俺を支える。冷たい手。震える体。でも、離さない。絶対に、離さない。温かい涙が、俺の頬に落ちる。
意識が遠のいていく。暗闇が迫る。音が消える。感覚が失われる。世界が、静かに、遠くなる。
その中で、俺は思った。
これで、良かったのか。もっと良い選択はなかったのか。力を使わない方法は。リナを危険に晒さない方法は。後悔が、胸を締め付ける。
でも。
少なくとも、リナは無事だ。彼女は生きている。傷ついてはいるが、命はある。笑顔を、また見ることができる。声を、聞くことができる。温もりを、感じることができる。
それだけで、今は十分だった。
意識が、完全に途切れた。
暗闇が、全てを飲み込んだ。冷たい闇。深い闇。静かな闇。そして――
* * *
神殿は崩れ、封印の欠片は奪われた。
三度目の力は暴走し、魂を深く削った。
限界が見えている。でもリナは生きている。
それだけで、今は十分だった。




