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第32話 逆再生の賭け

 ロレンツォの顔から、初めて余裕の表情が消えた。


「封印を、逆再生するだと……?」


 その声は信じられないという響きだ。目が見開かれ、口が開く。血の気が引いていく。


「馬鹿な! 千年の時を巻き戻すつもりか?」


 彼は一歩後ずさる。その手が震えている。顔に恐怖が浮かぶ。計算外だったのだ。想定していなかったのだ。


「そんなことをすれば、お前の魂が」


「俺が消滅する」


 俺は静かに答えた。


「分かってる」


 医師の診断では残りは三回。だが、千年という時間を巻き戻すなら一回で全てを使い果たすだろう。いや、一回では足りないかもしれない。魂が削られ、存在が消え、何も残らない。


 それでも。


「ユウ、だめ!」


 リナが必死に俺の袖を掴む。その手は震え、爪が服に食い込む。


「約束したでしょ! 無理しないって!」


 その声は涙に濡れている。顔が歪み、涙が頬を伝う。


 その時、水晶から声が響いた。


『愚かな選択だ、若き観測者よ』


 最初の観測者の声だった。低く、重く、そして悲しみに満ちている。


『封印を巻き戻しても、問題の先送りにすぎない』


 その声は諭すように続く。


『千年後、また同じことが起きる。また新たな観測者が生まれ、同じ運命を辿る』


「じゃあ、どうしろって言うんだ!」


 俺は叫んだ。その声が広間に反響する。天井に跳ね返り、壁に反射する。


『簡単だ』


 声は静かに答える。


『封印を受け入れろ』


 その言葉が胸を突き刺す。心臓が痛む。


『力を封印に返し、普通の人間として生きる』


 声が続く。淡々と、残酷に。


『それが最も確実な方法だ。観測者の力を手放せば、君は自由になれる』


「それじゃあ、ユウが……」


 リナの声が震える。その瞳が恐怖に染まる。


「ああ」


 俺は頷いた。喉が渇く。言葉が出にくい。


「観測者ではなくなる」


 力を失う。時間を操る力を全て失う。ただの人間に戻る。リナを守れなくなる。誰も守れなくなる。紫の魔物に襲われても、何もできない。


 ロレンツォが嘲笑した。


「だが、それでは俺の目的は果たせない」


 その瞳に狂気が戻る。野望が燃える。


「そんなことは、させん!」


 彼は黒い石を掲げた。


 石が輝いた。


 紫の光が放たれ、俺の体を貫く。体内の力が暴走し始める。制御できない。抑えられない。力が溢れ出し、暴れ狂う。


「ぐあああ!」


 叫び声が口から漏れる。


 全身が引き裂かれるような痛み。骨が軋み、血管が破裂しそうだ。頭の中で何かが爆発し、視界が真っ白になる。


 制御できない。逆再生の力が、勝手に発動しようとしている。


 周囲の時間が歪み始めた。


 床の亀裂が塞がっては開き、開いては塞がる。崩れた石が空中で静止し、逆再生して元に戻り、また崩れる。時間が狂っている。前に進んだり、後ろに戻ったり。世界が壊れていく。


「まずい!」


 ロレンツォさえも、青ざめた。


「このままじゃ、神殿が時空の歪みに飲まれる!」


 その声は恐怖に満ちている。計算外だったのだろう。予想を超える事態。二十年の計画が崩れていく。


 崩れ始める壁。逆流する瓦礫。時間が前に進んだり、後ろに戻ったりを繰り返している。石が空中で浮き、砕け、元に戻り、また砕ける。無限のループ。終わらない混沌。


「ユウ! しっかり!」


 リナが必死に俺を抱きしめる。


 その温もりだけが、現実をつなぎ止める錨のようだった。柔らかな体温。震える手。涙に濡れた頬。彼女の存在だけが、俺を現実に繋ぎ止めている。意識を保たせている。


 選択の時が来た。


 ロレンツォの言う通り、力を解放して世界を混沌に陥れるか。最初の観測者の言う通り、力を封印に返してただの無力な人間になるか。


 (どちらも違う……!)


 俺は心の中で叫ぶ。どちらも受け入れられない。世界を壊すことも、力を失うことも。


 物理学者だった頃の思考が、極限状態で回転を始める。前世の記憶。研究室。ホワイトボードに書かれた数式。議論した仲間たち。解けない問題に向き合った日々。諦めなかった姿勢。


 (ダメだ、選択肢がない……いや)


 思考が加速する。時間の感覚が変わる。一秒が何十秒にも感じられる。


 (あるはずだ! 必ず、第三の道が!)


 世界が歪む中で、俺は考える。必死に、死に物狂いで。


 (世界全体が、千年動き続けた巨大な時計だとすれば)


 イメージが浮かぶ。巨大な歯車。無数の部品。複雑な機構。精密な仕組み。


 (俺の力で全てを巻き戻すのは、不可能だ)


 そんなことをすれば、魂が砕け散る。存在が消える。


 (だが、今暴走しているのは、時計そのものじゃない)


 視界の中で水晶が脈動している。


 (たった一つの、狂った歯車、『封印』だ!)


 そうだ。封印だけが狂っている。封印だけが暴走している。世界全体ではなく、一つの部品だけが。


 (時計全体を戻すんじゃない)


 俺の思考が結論に至る。光が見えた気がした。


 (あの狂った歯車だけを、それが作られた瞬間の『定位置』にまで、強制的に逆回転させる)


 可能か。できるのか。そんなこと。


 (できないか?)


 それは、前世のどんな理論よりも大胆で、無謀な仮説だった。だが、他に道はない。これしかない。理論的な裏付けはない。ただの直感だ。でも、信じるしかない。


 リナを守る道。世界を救う道。俺が生き残る道。全てを叶える、唯一の方法。


「第三の選択肢を、選ぶ……!」


 俺は震える手を、暴走する封印の核、水晶に伸ばした。指先が震える。血が滲む。でも、止まらない。届け。届いてくれ。


 これは、俺の人生全てを賭けた、たった一度きりの実験だ。


 成功するか、失敗するか。生きるか、死ぬか。


 全ては、この一瞬に懸かっている。


 俺の手が水晶に触れた。


* * *


封印だけを巻き戻す。世界全体ではなく、一つの歯車だけを。

理論的裏付けなし。ただの直感。だが唯一の道。

人生全てを賭けた、たった一度きりの実験が始まる。


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