第30話 封印の間
神殿の内部は、外見からは想像できないほど広大だった。
魔法の灯りが自動的に点る。連鎖するように一つまた一つと、光が生まれていく。
長い回廊が照らし出される。その長さは果てが見えないほど。壁には古代文字がびっしりと刻まれ、一文字一文字が光を放ち、脈動している。まるで生きているかのように。
床には複雑な魔法陣が描かれている。その線が淡く発光し、幾何学模様が重なり合う。見ているだけで目が痛くなる。
「これは……」
リナが壁の文字を見つめる。その目が文字を追っている、読もうとしている。
「読める?」
俺は尋ねた。
「一部だけ」
ロレンツォが答えた。その声は低く、慎重だ。
「警告文のようだ」
彼は壁に手を触れ、文字をなぞる。
「『進む者は覚悟せよ。戻る道はない』と」
理解より先に、恐怖が体を貫いた。冷たい予感が、皮膚を這い上がる。
実際に振り返ると、入ってきた扉は跡形もなく消えていた。石の壁があるだけ、継ぎ目さえない。まるで最初から扉などなかったかのように。
「罠か……?」
俺は警戒して言った。拳を握りしめ、いつでも動けるように構える。
「いや、これが神殿の仕組みだ」
ロレンツォは落ち着いていた。その顔に恐れはなく、むしろ期待が宿っている。
「最後まで進むしか、出る方法はない」
◇
回廊を進む。足音が反響し、天井に跳ね返る。乾いた音が何重にも重なり、まるで無数の足音のように聞こえる。
やがて、道が途切れた。
巨大な奈落が口を開けていた。底が見えない、暗闇が広がり、光さえ届かない深淵。覗き込むと吸い込まれそうになる。足がすくみ、体が震える。
向こう岸まで一本の古びた石橋がかかっているだけだ。細く脆そうな橋、所々欠けていて、ひびが入っている。本当にこれで渡れるのか。
「渡るしかないようだな」
ロレンツォが先に足を踏み出す。橋が軋む。音を立てて石が崩れ落ちる。その破片が奈落へ消えていく。
音さえ聞こえない。どれほど深いのか、想像もできない。
俺とリナも続いた。一歩ごとに橋が揺れる。バランスを取りながら慎重に進む。下を見てはいけない、前だけを見る。呼吸を整える。
橋の中ほどまで来たとき、突然足元が崩れ始めた。
石が崩落する。一つ、また一つと。連鎖的に、加速度的に。
「きゃっ!」
リナがバランスを崩す。俺は咄嗟に彼女の手を掴んだ。細い手首、冷たい肌。力を込めて引き寄せる。
でも橋の崩壊は止まらない。足元が消えていく、立つ場所がなくなっていく。
「ちっ」
ロレンツォが忌々しげに舌打ちする。
「この神殿も、放置されて久しいか」
その横顔に一瞬、深い憎しみの色が浮かんだ。怒りが、悲しみが、憎悪が。複雑な感情が顔を歪める。
「この世界は、大事なものを……あまりに長く放置しすぎる」
一拍。
「俺の妹も、そうやって死んだ」
「え……?」
リナが驚いて彼を見る。
ロレンツォの目には、涙が滲んでいた。でもそれは悲しみの涙ではない。怒りの涙、憎悪の涙。世界への復讐心が燃えている。
「本来なら」
その声は悲痛だ。絞り出すような、喉を裂くような声。
「魔法や科学が……少しでも進歩していれば、助かるはずの病だった」
「だがこの停滞した世界では……誰も……彼女を救えなかった……!」
彼の絶叫と同時に、橋が大きく傾いた。
世界が斜めになる。体が滑り落ちそうになる。俺たちは必死に石にしがみつく。爪を立て、指が血を流しても離さない。
這うように進む。転がるように。
なんとか向こう岸にたどり着いた。地面に倒れ込む。息が荒い。胸が痛むほど鼓動が速い。
◇
その先で、巨大な広間が俺たちを待っていた。
天井は高く聳え立ち、柱が整然と並んでいる。巨大な空間、神々しい空間。
そして中央には、石の祭壇がある。
その上に、水晶のような球体が浮いている。宙に浮き、ゆっくりと回転している。その表面には複雑な文様が刻まれ、内側で光が脈動している。生きている、鼓動している、呼吸している。
球体からは、紫色の光が放たれ、部屋全体を不気味に照らしていた。影が長く伸び、壁に映る。その影が、まるで生き物のように動いているように見える。
「封印の核だ」
ロレンツォの声に興奮が滲む。その瞳が輝く。呼吸が早くなる。手が震える。唇が歪む。欲望、渇望、飢え。長年待ち望んだものを、ついに手にする者の顔。
「千年前、最初の観測者が己の力を封じた場所」
一拍。その声が震えている。
近づこうとした瞬間、俺の体が勝手に動いた。いや、動かされた。
足が意志に反して前に進む。止められない、抵抗できない。見えない力が俺を引っ張っている。祭壇へと引き寄せられていく。
「ユウ!」
リナが俺の腕を掴む。両手で全力で。でも止められない。俺の体はまるで鉄が磁石に引かれるように、祭壇へ向かう。
祭壇の前に立つと、水晶が激しく脈動し始めた。光が強まる。音が響く。低い振動音。空気が震える。床が揺れる。
そして、映像が頭に流れ込んできた。
◇
千年前の光景。
俺と同じような姿をした人物が、この祭壇の前に立っている。その周りには、無数の死体が転がっている。兵士、民衆、子供、老人。誰もが血を流し、動かず、目を見開いたまま。
大地が裂け、亀裂が走る。炎が天を焦がす。空は赤く染まり、雷が世界を引き裂く。
世界の終わり。終末の光景。
『これが、観測者の末路だ』
彼の声が響く。疲れ果てた声、絶望に満ちた声、後悔に歪んだ声。
『力を使いすぎた私は、世界を壊しかけた』
その声は震えている。
『だから封印を選んだ。自らの力を、この水晶に封じた』
人物が祭壇に手を置く。その瞬間、光が爆発した。世界が白く染まる。
『だが封印は完全ではない』
声が続く。警告するように、宣告するように。
『千年ごとに新たな観測者が生まれる。力は受け継がれ、運命は繰り返される』
映像が切り替わる。今度は、俺自身の姿が映し出された。
力を使い果たし、灰になっていく俺の姿が。体が崩れる。粉となり、風に散っていく。
「ユウッ!」
リナが叫ぶ。手を伸ばす。でも届かない。俺は消えていく。存在が消えていく。
『これが君の未来だ』
声が宣告する。
『ただし』
映像が途切れた。
ただし、何だ。何が言いたかった。答えを知りたい。でも、映像は消えた。
◇
気がつくと、俺は祭壇の前に膝をついていた。
全身が汗でびっしょりだ。息ができない。心臓が痛い。頭が割れそうだ。
「ユウ! 大丈夫?」
リナが必死に支えてくれている。その顔は、涙で濡れている。恐怖に歪んでいる。
その瞬間、不思議な感覚が走った。リナの恐怖が、まるで自分のもののように胸に流れ込んでくる。彼女の心臓の鼓動が、俺の鼓動と重なる。
(これは……?)
一瞬だけ、二人の境界が曖昧になった気がした。でも、すぐにその感覚は消える。
「見たのか?」
ロレンツォが近づいてくる。その足音が不気味に響く。
「真実を」
「……ああ」
俺は答えた。声が掠れる。見た。知った。理解した。俺の運命を、俺の未来を。そして俺の死を。
立ち上がろうとした時、祭壇が震え始めた。水晶の光がさらに強まる。
部屋全体が振動する。柱が軋む。床が割れる。天井から石が落ちる。
「まさか……封印が解けようとしている?」
リナが恐怖の声を上げる。
ロレンツォの口元に、笑みが浮かんだ。
「その通りだ」
彼は微笑んだ。穏やかに、優しく。まるで友人に語りかけるように。でもその笑みの奥には、瞳の深淵には、氷のような狂気があった。静かな、冷たい、絶対的な狂気。
「君たちを連れてきた本当の目的は」
一拍。その声はあまりに穏やかだった。
「これだったんだよ」
その瞬間、全てが繋がった。最初から罠だった。全てが計画されていた。俺たちは利用されたのだ。
「嘘……」
リナの声が震える。その体が小刻みに震え始めた。
「そんな……ロレンツォさん、あなた……」
瞳から涙が溢れる。でもそれは悲しみの涙ではない。裏切られた怒りと絶望の涙。
「私たち……信じていたのに……!」
その声が悲鳴に変わる。
ロレンツォは、ただ微笑むだけだった。まるで子供の泣き言を聞くかのように。優しく、穏やかに、残酷に。
* * *
封印の核を前に、真実を見た。俺の未来は、死。
そしてロレンツォの裏切り。全てが罠だった。




