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第29話 神殿の門前

 三日目の朝、濃密な霧が立ち込める中を進んでいた。


 白く、冷たく、湿った霧が全てを覆っている。視界は数メートル先までしか見えない。足元の道も定かではない。


 一歩ごとに地面を確かめながら進む。つまずけば奈落へ落ちるかもしれない。


 霧が肌に触れる。冷たく、べたつく。息を吸うと肺に霧が入り込む。咳き込みそうになる。


「もうすぐだ」


 ロレンツォが立ち止まり、前方を指差す。その指の先を見つめる。霧が薄くなり、何かの影が見える。巨大な影、人工物の影。


 霧の向こうに、巨大な石造りの建造物が浮かび上がった。


 神殿だ。


 高さ二十メートルはあろうかという石柱が整然と並んでいる。それぞれに複雑な文様が刻まれ、古代の文字が連なっている。その奥に、重厚な扉が見える。


 千年の時を経ているはずなのに、まるで昨日建てられたかのように損傷がない。石は白く輝き、文様は鮮明で、扉は堂々と立っている。時間の影響を受けていない、まるで時間の外に存在しているかのよう。


「すごい……」


 リナが息を呑む。その声は小さく、畏怖に満ちている。


 でも俺は別のことに気づいていた。


 神殿に近づくにつれ、体の奥で何かが共鳴している。心臓の奥から、骨の髄から、魂の深淵から、何かが呼応している。


 振動が広がり、全身を駆け巡る。痛みに近い感覚。逆再生の力が勝手に反応し始めているのだ。封じられているはずの力が目覚めようとしている、暴れようとしている。制御できない、抑えられない。


「ユウ、顔色が」


 リナが心配そうに俺を見る。


「大丈夫だ」


 嘘だった。頭痛が始まっている。脳が締め付けられるような痛み。視界の端がちらつき始めている。光が歪み、世界が揺れる。膝が震える。立っているのがやっとだ。でも倒れるわけにはいかない。


 ◇


 神殿の門前に立つと、扉に奇妙な紋章が刻まれているのが見えた。


 三つの円が重なり合っている。大きな円、中くらいの円、小さな円。それぞれが交差し、複雑な模様を作っている。そしてその中心に、瞳のような模様。


 その瞳がこちらを見ている気がする。見透かされている、全てを知られている。過去も、現在も、未来も。


「観測者の印だ」


 ロレンツォが説明する。その声は抑えられているが、興奮が滲んでいる。


「この扉は、資格を持つ者にしか開かない」


「資格……?」


 俺は聞き返した。声が掠れる。喉が渇き、言葉が出にくい。


 ロレンツォは、俺を見た。その目には期待と野心が燃えている。まるで宝を前にした者のような目。


「君だよ、ユウ。手を置いてみるといい」


 警戒しながら、俺は扉に手を触れた。


 冷たい石。でも次の瞬間、激痛が走った。


「うあっ!」


 叫び声が自分の口から漏れる。手が扉に吸い付き、離れない。まるで磁石のように強力に引っ張られている。力を込めて引こうとするが、びくともしない。


 体中から何かが吸い取られていく感覚。魔力が、生命力が、魂が、全てが扉に流れ込んでいく。


 体が軽くなる。意識が遠のく。まるで力を試されているような。


「ユウ!」


 リナが俺を引き離そうとする。両手で俺の腕を掴み、全力で引っ張る。でもびくともしない。扉の力があまりにも強い。


「離して! お願い、離して!」


 彼女の声が遠くに聞こえる。だんだん小さくなっていく。意識が沈んでいく。


 頭の中に、声が響いた。あの夢で聞いた、最初の観測者の声。低く、重く、疲れた声。


『資格はある』


 その声は俺を認めている。


『だが、覚悟はあるか?』


『覚悟……?』


 俺は心の中で問い返す。声が出ない、でも思考が伝わる。


『真実を知る覚悟。そして、それでも前に進む覚悟』


 真実。なぜ俺が転生したのか。なぜこの世界に来たのか。なぜこの力を持っているのか。その答えがこの先にある。


 でもそれを知ったら、真実を知ったら、きっと後戻りはできない。人生が変わる。世界が変わる。全てが覆される。


『……ある』


 俺は答えた。心の底から、確かに。どんな真実でも受け入れる。どんな運命でも立ち向かう。


 心の中で答えた瞬間、手が解放された。吸引力が消え、手が自由になる。


 よろめいて後ろに倒れそうになる。リナが支えてくれて、何とか立ち直る。


 そして、重い音を立てて扉が開き始めた。


 地響きのような音。石が軋む。埃が舞い落ちる。千年間閉ざされていた扉が今、開かれる。


 神殿の内部から冷たい風が吹き出してくる。氷のような風、生命を拒絶する風。その風に触れると肌が痛む。


 その奥は真っ暗で、底が見えない。光さえ吸い込まれるような絶対的な闇。


「さあ、行こう」


 ロレンツォが先に歩き出す。迷いなく、ためらいなく。まるでずっとこの時を待っていたかのように。


 だが俺は、彼の表情に一瞬浮かんだものを見逃さなかった。


 満足そうな、まるで計画通りといった笑み。薄く、冷たく、勝利を確信した笑み。


 (やはりこいつは何か企んでいる)


 全てが罠だ。最初から全てが計画されていた。俺たちは踊らされている。


 でももう後戻りはできない。扉は開いた。真実は目の前だ。進むしかない。


 ◇


 リナの手を握り、俺たちは神殿の闇へと足を踏み入れた。


 その手は震えている。冷たく、小さく。でも確かに俺を握り返している。


 一歩。また一歩。


 光が遠ざかり、闇が近づく。冷気が体を包み、恐怖が心を侵す。


 背後で、扉が重く閉じた。


 その音が響き渡る。運命の音のように聞こえた。


 もう戻れない。


* * *


神殿の扉が開いた。覚悟を問われ、答えた。

もう後戻りはできない。真実がこの先にある。


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