第28話 封印の影響圏
森の奥へ進むにつれ、空気が重くなっていった。
息をするのも苦しいような濃密な何かが漂っている。それは霧のように見えるが触れることはできない、透明だが確かに存在する何か。
肺に入り込み、体を内側から圧迫する。一歩ごとに足が重くなる。体が鉛のように沈んでいく。
頭が痛む。視界が歪む。世界が揺れる。
「これが……封印の、力……?」
リナが胸を押さえながら呟いた。その顔は青ざめ、唇が紫色になりかけている。呼吸が浅く、肩が上下する。苦しそうだ。
「その通り」
ロレンツォは平然としていた。いや、平然と見せていた。でもその額にも汗が滲んでいる。顎が強張り、歩みがわずかに乱れる。この男も苦しんでいる、ただそれを隠しているだけ。
「千年間、ここに溜まり続けた……瘴気と聖気が混ざり合っている」
その声はいつもより低く、かすれている。一呼吸。
「普通の人間なら、とうに倒れているだろうね」
俺たちが耐えられているのは「鍵」だからか。封印に選ばれた者、封印を解く存在。だから、この圧力に耐えられる。
皮肉なものだと思った。封印に近づけるのは封印を壊せる者だけ。守るために作られたものが、破壊者を招き寄せる。
◇
日が完全に沈み、森は漆黒の闇に包まれた。
月の光さえ届かない。星も見えない。木々が空を覆い、全てを遮断している。暗闇が濃密で、手を伸ばしても指先が見えない。完全な闇。
ロレンツォが呪文を唱えた。
手のひらから光が生まれる。青白い光、幽霊のような光。周囲を照らすが、それが逆に不気味さを増していた。木々が歪んで見える。影が不自然に伸び、まるで生き物のように動く。光が当たった場所だけが浮かび上がり、その先は深い闇。
「今夜はここで野営だ」
彼は比較的開けた場所を指差した。木のない空間、平らな地面。でも草一本生えていない。土が黒く、死んでいる。
焚き火を起こそうとした。薪を集め、石を組み、火打石を打つ。
火花が散った。でも薪に火がつかない。何度やっても同じ。火花は散る、でも炎は生まれない。
まるでこの場所が、火という生命の象徴を拒んでいるかのようだった。
「無駄だよ」
ロレンツォが言った。その声に諦めが混じっている。
「ここでは……通常の理が通用しない。物理法則さえ歪んでいる」
その言葉が重く落ちた。
「魔法の灯りだけが……頼りだ」
◇
冷たい夕食を済ませた。乾燥した肉、硬いパン、水。全てが味気ない。喉を通るが満たされない。体は食べているが、心は拒絶している。
俺たちは寄り添って座った。
リナが小刻みに震えている。その体が俺に寄りかかる。冷たい。体温が下がっている。寒さだけじゃない、この場所の異常さに本能が怯えているのだ。生き物として、ここにいてはいけないと感じている。
「大丈夫か?」
俺は彼女を抱き寄せた。少しでも温めようと。
「うん……ユウが、いるから」
その言葉に少し救われた。この地獄のような場所でも、彼女は俺を信じてくれている。その信頼が温かい。
◇
深夜、奇妙な夢を見た。
真っ白な空間。何もない。壁も、床も、天井も。ただ白い。無限に広がる白。
音もない。静寂、完璧な静寂。
その中に一人の人物が立っている。顔は見えない。光に包まれ、輪郭だけが分かる。でもその雰囲気、俺と同じような何かを纏っていた。時間の歪み、世界との違和感、観測者の気配。
『また一人、この道を歩む者が現れたか』
声が頭に直接響く。耳から入るのではない、脳に、魂に、直接語りかけてくる。その声は老いていて、疲れていて、深い悲しみを帯びている。
『私は、最初の観測者』
理解より先に、衝撃が胸を打つ。彼だ――この全ての始まり、封印を作った者。
『君に警告しよう』
『警告……?』
俺は聞き返した。声が出ない、でも思考が伝わる。
『力を使うな』
その声は強く、必死だ。
『神殿で真実を知っても、決して力を解放してはならない』
『なぜだ?』
『それは』
言いかけて、人物が苦しそうに身をよじった。光が揺らぎ、輪郭が歪む。何かが彼を引っ張っている、何かが彼を抑えつけている。
『封印が……呼んでいる……』
その声は苦痛に満ちている。
『もう……時間がない。君は選択を迫られる。だが……力を』
『待て! どういう』
白い空間が崩れた。ガラスのように砕け、闇に飲み込まれる。人物の姿が消え、声が途切れる。
◇
目が覚めた。
息が荒い。心臓が激しく打っている。冷や汗でびっしょりだった。全身が濡れ、手が震える。夢なのに体が反応している。恐怖がまだ残っている。
「ユウ? 大丈夫?」
リナが心配そうに覗き込んでいる。その顔が青白い光に照らされ、不安に歪んでいる。
「ああ……ただの夢だ」
俺は答えた。でも心の中では疑問が渦巻いている。あれは本当に夢だったのか。最初の観測者と名乗った人物、あまりにも鮮明だった、あまりにも現実的だった。
彼の警告は何を意味していたのか。
『力を使うな』
その声がまだ耳の奥に残っている。でも何故? 何が起こる? 何を恐れている?
ロレンツォを見ると、彼は起きていた。青白い光の中で、じっと俺を観察している。その目が光る。何かを読み取ろうとしている、まるで獲物を見るように。
「興味深い夢を見たようだね」
その声は知っているという響きだった。
「……聞こえていたのか」
「君は寝言を言っていた」
ロレンツォは立ち上がり、近づいてくる。その影が俺を覆う。
「『最初の観測者』と、何度も、何度も」
ロレンツォの目が光った。獣のような光、野心の光、飢えた者の目。
「やはり君は選ばれている」
その声は興奮を帯びている。抑えきれない高揚。
「神殿は君を呼んでいるんだ。封印は君を待っている」
不吉な言葉だった。呼ばれているのではなく、誘い込まれているような気がしてならなかった。
罠だ。これは罠だ。
でももう引き返せない。神殿はすぐそこだ。
* * *
夢の中で、最初の観測者が現れた。
「力を使うな」という警告。神殿が――待っている。




