第27話 神殿への道
夜明け前の王都は、静寂に包まれていた。
深い、深い静けさ。眠りについた街。誰もいない通り。
まだ星が瞬いている。無数の星が、黒い空に散らばっている。冷たく、遠く、美しく。
東の空がわずかに白み始め、夜と朝の、境界にある時間。闇が薄れ始め、青みが差す。世界が目覚める前。最後の静寂。
冷たい空気が肌を刺す。秋の終わりの風。骨まで染み込むような冷たさ。頬が痛い。手がかじかむ。
吐く息が白く、霧になる。一歩ごとに白い息が出て、すぐに消える。空気が冷たすぎる。
遠くで犬が吠えた。低く、長く、寂しげな声。
その声だけが静寂を破っている。木霊して、消えていく。また、静寂が戻る。
約束の場所、北門の外れに着くと、ロレンツォがすでに待っていた。
灰色のローブに旅装束、背には大きな荷物袋を背負い、腰には黒くくすんだ石を下げている。不吉な気配を放つ、あの石だ。その姿は暗闇に溶け込み、まるで影か幽霊のように人間離れした静けさで立っている。
俺たちの足音に気づき、顔を上げる。近づくと、あの冷たい笑みが見える。薄暗闇の中で、白い歯だけが光っている。
「時間通りだね」
彼は、いつもの掴みどころのない笑みを浮かべた。感情が読めない笑み。嘲笑か、歓迎か、それとも別の何か。
まるで全てを予測していたかのような、余裕のある表情。計算通りだと言わんばかりの、余裕。
「準備は、いいかい?」
「ああ」
俺は短く答えた。声が冷たい。それ以上言葉を交わしたくない。信用はしていない。この男の全てが疑わしい。その笑みも、態度も、言葉も。だが、今は協力するしかない。選択肢はない。後戻りもできない。
リナは不安そうにロレンツォを見つめていた。唾を飲み込む音が聞こえる。その目には恐れが宿り、体が小さく震えている。俺の袖を、ぎゅっと掴んでいる。でも、小さく頷いた。覚悟を決めた顔。震えながらも、前を向く。
「では、行こう」
ロレンツォが歩き出す。その足音は静かで、まるで地面を滑るよう。音が小さすぎる。不自然なほど。
「神殿までは三日の道のりだ」
その声が、朝の空気に響く。冷たく、確信に満ちた声。
◇
歩き始めて数時間。
太陽が昇り、空が青く染まっていく。暗闇が消え、世界に色が戻る。王都の城壁はとうに見えなくなり、街道は山道へと変わっていた。平坦な道が消え、傾斜が始まる。足元の石が転がり、音を立てる。木の根が道を覆い、つまずきそうになる。登りが続き、息が上がる。肩で息をする。
朝日が山の稜線から顔を出し、森に朝露が光る。輝く無数の水滴。木々の葉が輝き、緑が鮮やかに見える。蜘蛛の巣に露が宝石のように連なる。真珠のネックレスのように。鳥たちが目覚め、さえずりが森に響く。美しい朝。平和な風景。でも、心は重い。胸の奥に、不安が巣食っている。
「ねえ、ロレンツォさん」
リナが口を開いた。その声は沈黙を破るように響く。
「神殿って……どんな場所なんですか?」
「千年前に建てられた、封印の要となる場所だ」
ロレンツォは振り返らず、ただ前を向いたまま歩きながら答える。その背中が何かを隠しているように見える。
「そこで最初の観測者が、強大な力を封じたと言われている」
「最初の……観測者?」
俺は声を震わせながら聞き返した。その言葉が、また胸を疼かせる。心臓が大きく打ち、何かが胸の奥で共鳴する。
「ああ」
ロレンツォが少し振り返った。足を止めずに、顔だけをこちらに向ける。その目に奇妙な光が宿っている。まるで炎のような、まるで氷のような、矛盾した光だ。興味と野心と、そして何か別の感情。嫉妬か、憧れか、憎しみか。
「君と同じような力を持っていた者さ」
彼の横顔には何か別の感情が浮かんでいるように見えた。影が落ち、表情が読めない。羨望か、憎しみか、それとも憧憬か。複雑に入り混じった感情が、判別できない。でも確かに何かを秘めている。深い、深い感情を。二十年分の想いを。
「時間を操り、世界の理を、歪める力」
その声は、低く、重い。まるで呪文のような響き。
「だが彼は」
一呼吸。深く、長い呼吸。ロレンツォの肩が上下する。
「その力を、封印することを、選んだ」
風が吹く。木々が揺れる。葉が舞い落ちる。
「なぜ?」
リナが純粋な疑問を込めて問う。
「力が強大すぎたからだ」
ロレンツォは立ち止まり、そして俺を見つめた。その目は鋭く、まるで心の奥まで見透かすようだ。
「使い続ければ、世界そのものが崩壊する」
重い沈黙。
重い話だった。俺の力も、いずれそうなるのだろうか。時間を巻き戻すたびに何かが壊れていき、世界が歪んでいく。そして最後には、全てが崩れ去る。
胸が冷たくなり、呼吸が浅くなる。
昼過ぎ、山道はさらに険しくなっていた。
岩がむき出しになり、道は細くなる。足を滑らせれば谷底へ。風が強くなり、木々が激しく揺れる。
葉が舞い落ち、枝が軋む。
リナが疲れた様子を見せ始めた。顔が青ざめ、呼吸が荒い。足取りがふらつき、時々立ち止まる。額に汗が浮き、唇が乾いている。
「休憩しよう」
ロレンツォが岩陰を指差した。大きな岩が風を遮り、日陰を作っている。
水を飲み、持参した食料を口にする。乾燥した肉と硬いパン。味がしない。喉を通らない。でも食べなければ、体が持たない。
その時、ロレンツォが奇妙な地図を広げた。
古い羊皮紙が広げられる。黄ばんで所々破れており、複雑な線が引かれ、見たこともない記号や判読できない言語が書き込まれている。
「これは……?」
俺は尋ねた。
「神殿への正確な道筋さ」
地図には通常の道以外に、赤い線で別のルートが記されていた。それは明らかに一般的な道ではない。山の奥深く、人が立ち入らない場所。獣さえ避ける道だ。赤い線が、まるで血のように見える。
理解より先に、危険が皮膚を這う。
「まさか……獣道を?」
「その通り」
ロレンツォは頷き、その顔に暗い笑みが浮かぶ。
「通常の道では神殿には辿り着けない。封印が道を隠しているからね」
沈黙。
嫌な予感が全身を支配した。この道は危険だ。何かが――待っている。
だが今更、引き返すこともできない。ここまで来てしまった。王都は遠い。選択肢はない。進むしかない。
◇
夕方。
森の奥深くに入っていった。道が消え、獣道すら見えなくなる。
木々が密集し、枝が絡み合う。頭上で枝が編み込まれたように絡まり、天井を作っている。
陽光も、ほとんど届かない。わずかな光が、隙間から差し込むだけ。緑の光。病的な色。
薄暗い。湿気が高く、息苦しい。空気が重い。肺に入ってこない。
呼吸が浅くなる。胸が苦しい。圧迫されているような感覚。
木の幹には苔が生え、緑色、黒色、灰色の苔が木を覆っている。まるで病気のように。地面は、腐葉土に覆われている。ふかふかで、でも不快な感触。腐った匂いが鼻をつく。
一歩ごとに、ぬかるんだ土が靴に絡みつく。引っ張られるような感覚。足が重い。抜けない。不快な音。
不気味な静寂が、辺りを支配している。耳が痛くなるような静けさ。
何も聞こえない。
風の音さえしない。鳥の声も、虫の音も、何も。
木々が揺れず、葉が動かない。まるで造り物のように。まるで絵のように。
まるで時が止まったかのような静けさ。死んだような静けさ。
「何か……変だ」
リナが小さく震えた声で呟いた。か細く、不安に満ちている。
「動物の気配が全くない」
その通りだった。彼女の言葉が恐怖を明確にする。鳥の声も虫の音も聞こえない。何一つ。小動物の足音も風に揺れる草の音もない。完全な沈黙だ。
生命の気配がまるでない。死の匂いだけが漂っている。まるで生命が避けているかのような場所。本能が逃げろと叫んでいる場所。死の森。呪われた土地。封印された大地。
「ここから先は」
ロレンツォがゆっくりと振り返る。まるで儀式のように。その顔は暗闇の中でぼんやりと浮かび上がり、輪郭が曖昧で影が濃い。
目だけが異様に光る。まるで獣のよう、まるで魔物のよう、人間ではない何かのようだ。
笑みが不気味に歪んでいる。白い歯が闇の中で浮かび上がり、背筋が凍る。
「封印の影響圏だ」
その言葉が重く響き、空気がさらに重くなる。
「覚悟はいいね?」
その問いに答えはない。ただ沈黙だけ。
俺とリナは顔を見合わせた。彼女の目には恐怖と決意が混じっている。涙が滲んでいるが、諦めていない。
震える手を俺が握る。ぎゅっと、強く、離さないように。
冷たい手だ。氷のように冷たく、血の気が失せている。でも確かに生きている。脈が打ち、温もりがかすかに残っている。
そして、頷いた。同時に。同じ決意を込めて。二人で、一緒に、どんな運命が待っていても。
暗い森の奥へと俺たちは足を踏み入れた。後戻りできない場所へ、神殿へと続く呪われた道へと、封印の影響圏へと。
木々が頭上で絡み合い、空が見えなくなる。最後の光が消える。闇が深まり、視界が狭まる。五メートル先も見えない。三メートル先もぼんやりとしている。
足元が見えずつまずく。石か根か分からない。バランスを崩す。
何かが待っている。その予感が全身を支配していた。背中を冷たい汗が流れる。
ロレンツォの背中が闇に溶けていく。灰色のローブが影と一体化する。
その先に何が待っているのか。
答えはまだ、闇の中。
* * *
神殿への道、一日目。封印の影響圏へ。
生命が避ける死の森。引き返せない道。




