第26話 出発前夜
ロレンツォとの約束から二日が経った。
明日の夜明けと共に、俺たちは王都を発つことになっている。古の神殿へ。封印の場所へ。そして、恐らく、罠へ。帰ってこられるかどうかも、分からない。
王宮の客室で、俺は荷物の最終確認をしていた。
窓の外では夕日が沈みかけている。王都が赤く、赤く染まっていた。まるで血のように。まるで警告のように。終わりを告げるように。街並みが炎に包まれているような、不吉な光。
鐘の音が響く。一つ。二つ。三つ。低く、重く、遠くから響いてくる。その音が響くたびに、胸の奥で何かが終わっていく気がした。時が刻まれる。残された時間が減っていく。
さよならの音。別れの音。旅立ちの合図。最後かもしれない。そんな予感が空気に満ちている。部屋中に、重苦しい緊張が漂っている。
護身用の短剣。予備の衣類。乾燥した食料。水筒。包帯。薬草。火打ち石。
全てを確認し、何度も何度も数え直す。手が勝手に動く。不安が手を止めさせない。これで足りるのか。何か忘れていないか。もう一度、確認する。また数える。終わらない作業。
そして。
「ユウ」
コンコン。扉が軽くノックされる。柔らかな音。聞き慣れた音。
扉が開き、リナが入ってきた。金色の髪が夕日に照らされ、炎のように輝いている。赤みを帯びた光が彼女を包み、まるで絵画のように美しい。
彼女の顔色は、まだ完全ではないが、二日前よりは良くなっている。血色が戻り、頬に薄く赤みがある。呼吸も落ち着いている。でも、まだ疲れが残っている。目の下に薄い影があり、動きがゆっくりだ。精霊の力を使った代償が、まだ体に残っている。
「準備はできた?」
その声は、いつもより小さい。
「ああ。君は?」
「うん……でも、不安」
リナは窓辺に立ち、夕暮れの王都を見下ろした。ガラスに額を押し当て、外を見つめる。街並みが赤く染まっている。屋根が連なり、煙突から煙が上がり、通りには人々が行き交う。小さな人影が動き、馬車が通り、店の明かりが灯り始める。平和な光景。何も知らない人々。普通の暮らし。日常。でも、その全てが、俺たちのせいで危険に晒されている。魔物が、俺たちを追ってくる。
「ロレンツォさん、信用していいのかな」
その声は小さく、不安に満ちている。窓ガラスに手を当て、外を見つめたまま。吐息が窓ガラスを白く曇らせる。背中が小さく見える。肩が丸まり、震えているようにも見える。
「分からない」
俺は正直に答えた。嘘はつけない。彼女には、真実を伝えたい。誤魔化したくない。
「でも、他に道はない」
その言葉が、重く響く。
沈黙が落ちる。重く、長い沈黙。二人とも、何も言えない。夕日が徐々に沈んでいき、部屋が暗くなっていく。赤い光が薄れ、青い影が広がる。影が濃くなり、冷たい空気が忍び込んでくる。窓の外から夜の冷気が染み込み、肌に触れる。
やがて、リナが振り返った。その瞳には決意と恐れが混じっている。涙が滲んでいるようにも見える。唇を噛みしめ、拳を握りしめている。何かを言おうとして、躊躇している。喉が動き、言葉を探している。
「ねえ、約束して」
その声は震えている。か細く、でも必死に。
「もし私が危なくなっても、あの力は使わないで」
「リナ……」
俺は、言葉を失った。
胸が、締め付けられる。息ができない。その約束は、できない。彼女が危険にさらされるのを、ただ見ていろと言うのか。無力なまま、彼女が傷つくのを見ていろと?
「お願い」
彼女は一歩、近づいた。床が軋む。その足音が、静寂の中で響く。
その瞳に、涙が滲んでいる。キラキラと光り、今にも溢れそうだ。
「あと三回から五回しかないんでしょ? もっと大事な時のために取っておいて。私のために使わないで」
一呼吸。深く、震える呼吸。
「あの時のあなた、怖かったの」
リナの声が、さらに震えた。涙声になり、言葉が途切れそうになる。
その瞳が、痛みに歪む。眉が寄り、唇が震える。
「優しいユウじゃなくなってた。冷たくて……まるで機械みたいで……感情がなくて……」
涙が、一粒こぼれた。頬を伝い、顎から落ちる。透明な雫が床に染みを作る。
「だから……二度と見たくないの。あんな目をしたユウを。あんな風に、自分を犠牲にするユウを」
彼女の覚悟を、俺は否定できなかった。
その瞳を見ていると、何も言えなくなる。強い意志。揺るがない決意。それを踏みにじることはできない。
「……約束するよ」
嘘かもしれない。
いや、確実に嘘だ。リナが死にそうになったら、俺は必ず力を使う。何度だって使う。彼女を失うくらいなら、全ての力を使い果たす。残りの回数、全てを。そして消えてもいい。
でも今は、彼女を安心させたかった。この笑顔を守りたかった。
リナは微笑んだ。弱々しいが、温かい笑顔。涙が残る頬に、かすかな笑みが浮かぶ。その笑顔が、胸を痛める。嘘をついている自分を責める。でも、他にどうすればいい?
◇
その夜、アリシア王女と、そしてバーネット医師が密かに部屋を訪れた。
コンコン、コンコン。
扉を静かにノックする音。暗号のように、三回、二回。
扉を静かに開け、誰にも気づかれないように入ってくる。足音を忍ばせ、廊下を確認し、周囲を警戒している。フードを深く被り、顔を隠している。灰色のマントが体を覆い、影のように見える。
「内緒の訪問よ」
王女はそう言って、フードを下ろす。普段の威厳ある表情ではなく、心配そうな顔。年相応の、少女の顔。そして、王家に伝わるという水晶の護符を俺に手渡した。
青く輝く水晶。透明で、内部に小さな光が宿っているように見える。細かな彫刻が施され、銀の鎖で吊るされている。古代文字が刻まれ、鎖には細工が施されている。手に取ると、温かい。脈打つように、魔力が込められているのが分かる。優しく、守るような力。母の抱擁のような、温かさ。
「気休めかもしれないけれど、きっと役に立つはず」
その声には、心配が込められている。震えすら感じられる。王女の目が、俺たちを見つめる。まるで家族を見送るような、そんな温かさと悲しみが混じった目。もう会えないかもしれない、という恐れが宿っている。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。深く、感謝を込めて。その護符を、首にかける。ひんやりとした銀の鎖が肌に触れ、でもすぐに温かくなる。水晶が胸元で揺れ、青い光を放つ。
続いて、バーネット医師が分厚い羊皮紙の束を差し出した。
黄ばんだ紙。古い文字。複雑な図版。魔法陣のような模様。ページが何枚も重ねられ、革の紐で縛られている。触ると、ざらりとした感触。ずっしりと重い。知識の重さ。歴史の重さ。
「これは、私が解読を進めている古文書の写しだ」
医師の声は低く、真剣だ。いつもの穏やかな口調ではなく、緊張した響き。
「例の『観測者の病』について書かれている」
「これを俺に?」
俺は驚いて聞き返した。両手で受け取りながら、その重みを感じる。こんな重要なものを、本当にいいのか。これは医師の研究の全てではないのか。
「ああ」
医師は頷き、そして、声を潜めた。
周囲を確認し、誰も聞いていないことを確かめて。扉の隙間を見て、廊下に人がいないか確かめる。その目が鋭くなる。普段の温和な表情が消え、真剣な研究者の顔になる。
「古文書には『最初の観測者』という言葉が何度も出てくる」
その言葉に、俺の心臓が跳ねた。ドクンと大きく脈打つ。
最初の観測者。その響きが、何か重要なことを示している気がする。胸の奥で、何かが共鳴する。知っている気がする。でも、思い出せない。
「彼が自らの強大すぎる力を封印した、と読める部分もある」
医師はさらに近づき、囁くように言う。その息が耳にかかる。
「ロレンツォ殿は特別調査部の人間。我々以上にこの古文書を読み解いている可能性がある。決して気を抜くんじゃないぞ」
その目には、深い心配が宿っている。まるで息子を送り出す父親のような目。別れを惜しむような、もう会えないかもしれないという恐れが滲んでいる。
「彼は、何かを企んでいる。君たちを利用しようとしている。それだけは、確かだ」
その言葉が、重く胸に刺さる。
医師と王女が去った後、部屋には静寂が戻った。
扉が閉まる音。遠ざかる足音。また、二人きりになる。
俺は羊皮紙の束を、じっと見つめた。重い。ただの紙なのに、とても重い。手が痺れるほど。そこに書かれた言葉の重さが、伝わってくる。千年の歴史が、この中に詰まっている。
最初の観測者。その言葉が、妙に心に引っかかった。
何故だろう。この言葉を聞くと、胸が疼く。ズキズキと痛む。まるで、遠い記憶を呼び起こされるような感覚。霧の向こうに何かが見える気がする。知っている気がする。会ったことがある気がする。でも、思い出せない。思い出せそうで、思い出せない。
「ユウ」
「ん?」
リナが隣に座った。ベッドが軋み、その体重が伝わる。その肩が、俺の肩に触れる。温かい体温が伝わってくる。柔らかな感触。生きている証。
「一緒にいてくれて、ありがとう」
リナの手が、そっと俺の手に重なった。
温かくて、少し震えていた。でも、確かに生きている。この手の温もり。脈打つ命。血の通った、温かな手。
「俺の方こそ」
俺は彼女の手を握り返した。冷たい自分の手が、彼女の温もりに包まれる。少しずつ、温かくなっていく。
明日、どんな運命が待っているか、分からない。
罠かもしれない。死が待っているかもしれない。ロレンツォの企みに、嵌められるかもしれない。封印を破壊するために、利用されるかもしれない。
でも。
この温もりを守るためなら、どんな困難にも立ち向かえる。
そう思いながら、俺たちは、出発の朝を待った。言葉は少ない。でも、手は繋いだまま。
◇
窓の外。
細い月が、雲間から顔を覗かせていた。黒い雲に隠れたり、現れたり。
光は、弱い。
とても、弱い。糸のように細く、頼りない光。
でも、確かに、そこにある。消えていない。闇の中でも、輝き続けている。
闇に包まれても、希望は消えない。
そんな気がした。そう信じたかった。
俺は、握った手を、もう少し強く握った。
離したくない。この温もりを、失いたくない。絶対に、守り抜く。
リナも、同じように、握り返してくれた。同じ強さで。同じ決意を込めて。
二人で、一緒なら、きっと。乗り越えられる。どんな困難も。
その希望だけを胸に。
俺たちは、静かに夜を過ごした。眠れない夜。長い夜。でも、一人じゃない。
時折、遠くで鐘が鳴る。低く響く。時を刻む音。別れを告げる音。
そして、夜が明ける。
新しい運命が、始まる。
* * *
出発前夜。別れと約束の時。
明日、全ての答えが待つ神殿へ。




