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第25話 ロレンツォの回想

 深夜、王宮の一室。蝋燭の炎が小さく揺れ、蝋の溶ける甘く重い匂いが部屋を満たしている。石壁が冷気を放ち、静寂だけが空間を支配する中、時折遠くで夜警の足音が聞こえるだけだ。


 ロレンツォは一人、古びた肖像画の前に座り込んでいた。膝を抱え、何時間も同じ姿勢で見つめ続けている。背中が痛み、足が痺れる。それでも動けない。動けば、この瞬間が終わってしまう気がして。


 蝋燭の炎が揺れるたびに、絵に描かれた女性の顔に光と影が落ちる。柔らかな栗色の髪、優しく微笑む瞳、少し頬を染めた恥ずかしそうな笑顔――その表情が、炎の揺らぎと共に生きて呼吸しているかのように見えた。


 二十年前、幸せだった日々の面影。遠く、手の届かない過去。


「エリーゼ……」


 その名を呟くと、声と唇が震えて胸の奥が疼いた。抉られるような鋭い痛みが心臓を掴んで離さない。二十年経っても決して消えず、年月を重ねるほどに強くなっていく。まるで古傷が冬の寒さに疼くように。


 耳の奥に、あの声が蘇る。


 『ロレンツォ様』


 初めて出会った夜。図書館で聞いた、あの小さな声。優しく、心配そうで、温かかった。鈴のような澄んだ響きは、今でも鮮明に聞こえる。まるで昨日のことのように。忘れたくても、忘れられない。忘れることを許されない。


 拳が無意識に握られ、爪が掌に食い込んで微かな痛みが走る。だが、この痛みは心の痛みに比べれば何でもない。生爪を剥がされるような心の痛みに比べれば。


 二十年前の記憶が次々と蘇る。笑い合い、手を繋いで歩いた日々。朝の光の中で微笑む彼女の顔。夜、温もりを感じながら眠る幸福。忘れたいのに忘れられない。忘れてはいけないのに、思い出すたびに胸が引き裂かれる。


◇ 二十年前、初めての夜


 王宮の図書館。


 古文書を読む音だけが静かに響いていた。深夜、誰もいない図書館で、蝋燭の灯りだけが本を照らしている。古い羊皮紙とインクと埃の匂いが漂う、知識だけが積み上げられた静かな空間。窓の外では冬の風が唸り、冷たい空気が隙間から忍び込んでくる。


 研究に没頭していたロレンツォは、ふと気配を感じた。誰か、いる。この時間に?


 足音が近づいてくる。柔らかで軽い、女性の足音。顔を上げた瞬間――


「ロレンツォ様」


 小さな声が、静かな図書館に響いた。鈴のような、透き通った声。『ロレンツォ様』という呼び方、あの響き、あの優しさ――その声は今でも耳の奥に焼き付いて消えない。


「またこんな夜遅くまで……研究を?」


 栗色の髪を後ろで結んだ若い侍女が、蝋燭の光に照らされて優しく微笑んでいる。柔らかく心配そうな瞳を向けるその人が、エリーゼ。それが彼女との最初の出会いだった。


 彼女は温かいハーブティーを持って微笑んでいた。湯気が立ち上り、カモミールの優しい香りが疲れた心に染み渡る。


「体を壊してしまいますよ」


 見ず知らずの自分を気遣ってくれる声には、温かい気持ちが込められている。


「ああ……」


 ロレンツォは思わず見とれた。言葉が出てこない。心臓がいつもより速く打つ。


「ありがとう」


 ようやく絞り出した言葉。その笑顔に心を奪われた。少し恥ずかしそうに頬を染める表情を、月明かりが窓から差し込んで銀色に照らしている。美しいと思った。この世で一番、美しい。


 それが全ての始まりだった。


 何気ない会話。些細な気遣い。温かいハーブティーの香り――それがいつしかロレンツォを変えていった。冷たかった心が温かくなっていった。


 彼は彼女を待つようになった。深夜、図書館で研究していると、必ずエリーゼが温かいお茶を持って現れる。その足音が聞こえるたび、胸が高鳴った。


「今日も、遅くまでですね」


「ああ……いつも、ありがとう」


 カップを受け取ると、指が触れ合う。温かい。お茶の温もりか、彼女の温もりか。陶器の滑らかな感触の向こうに、もっと大切な何かがある気がした。


「お体、大切になさってください」


 その微笑みを見るたびに胸が温かくなった。研究よりも、知識よりも、彼女の笑顔を見るのが楽しみになった。やがて恋へと変わっていった――穏やかに、静かに、確実に。


 * * *


 二十二歳の春、ロレンツォはエリーゼにプロポーズした。


 王宮の庭園、満開の桜の木の下で。花びらが舞い落ち、春の風が髪を揺らし、鳥のさえずりが聞こえる中で。花の香りが甘く、暖かな日差しが二人を包んでいた。


「エリーゼ……俺と、結婚してくれないか」


 声が震える。心臓が激しく打ち、手も震える。人生で一番の緊張。喉が渇き、言葉が途切れそうになる。


 彼女は涙を浮かべて頷いた。透明な涙が頬を伝い、桜の花びらが二人の周りを舞う。


「はい……喜んで」


 その声も震えていた。


 そして二人は結婚した。小さく質素だが温かい式で、友人たちが集まって祝福してくれた。笑い声と温かい拍手が鳴り響く。


 エリーゼの笑顔が太陽のように輝いていた。白いドレス、レースの刺繍、髪に挿した小さな白い花、頬を染めた恥ずかしそうな表情――その全てがロレンツォの心に永遠に刻まれた。一瞬一瞬が宝物だった。


「いつか」


 結婚式の夜、ロレンツォは夢を語った。


「観測者の力で……多くの人を救いたい」


 二人きりの部屋。月明かりが差し込み、彼女の白い肌を柔らかく照らす。


「困っている人を助けて……笑顔にしたい」


「きっと」


 エリーゼがそっと手を握った。温かく柔らかい。


「できますよ」


 その瞳には、ロレンツォの未来と二人の未来への信頼が宿っている。幸せな日々がずっと続くと信じて。


「ロレンツォ様なら……きっと」


 彼女は微笑んだ。


「素晴らしい観測者になれます」


 ロレンツォは彼女の手を強く握り返した。


「ああ……必ず」


 未来は輝いていた。希望と幸福と愛に満ちていた。


 毎朝、彼女の笑顔で目覚める。毎晩、彼女の温もりを感じながら眠る。何気ないがかけがえのない日常。朝食の匂い、洗濯物の石鹸の香り、夜の静けさの中で交わす他愛ない会話――全てが幸せだった。


 これがずっと続くと信じていた。


 あの日までは。


◇ 二年後


 エリーゼが突然倒れた。


 洗濯物を干していた時だった。籠が落ち、白い布が散らばって風に舞い、地面に広がる。青い空、白い雲、平和な昼下がりが一瞬で悪夢に変わった。


「エリーゼ!」


 ロレンツォは駆け寄った。心臓が止まりそうになり、足がすくむ。


 彼女の額に触れる。異常に熱い。まるで火のように、手のひらが焼けそうなほど。顔は真っ赤に染まり、苦しそうに荒い呼吸をしている。皮膚が焼けるような熱さだった。


「医者を……医者を呼べ!」


 ロレンツォはエリーゼを抱きかかえて走った。軽い体。いつもより軽く感じる体。その温もりが異常に熱い。


 医務室へ、一刻も早く。頼む、助けてくれ、頼む。


 扉を蹴破るように開ける。金属の音が響き、周囲の人々が驚いて振り向く。


「医者! 医者を呼んでくれ!」


 叫び声が廊下に響き渡る。


 * * *


 診断は赤熱病――発症から三日で死に至る難病。治療法はない。


 その言葉を聞いた瞬間、ロレンツォの世界が止まった。


「なんとか……なんとか……ならないのか!」


 ロレンツォの拳が机を叩き、叫びが医務室に響く。木の机が軋む音が聞こえた。


「何か方法が……何か!」


「ロレンツォ殿……」


 医師はただ首を横に振った。悲しそうに、申し訳なさそうに、だが確かに否定の意味を込めて。


「手の施しようがありません。せめて……苦しみを和らげることしか……」


「そんな……」


 ロレンツォの両手が震える。爪が掌に食い込み、血が滲む。だが痛みなど感じない。心が千々に引き裂かれる痛みの前では。


 (観測者の力があるのに……何もできないのか……!)


 * * *


 二日目の夜。


 エリーゼの呼吸が荒くなっていた。ベッドに横たわり、苦しそうに息をしている。顔は真っ赤に染まり、汗が止まらない。シーツが汗で湿り、髪が額に張り付いている。熱が上がり続けている。そして意識を失った。


「エリーゼ……!」


 ロレンツォは彼女の頬を叩いた。


「エリーゼ! 目を開けてくれ!」


 だが反応がない。閉じられた瞼と苦しそうな表情だけが、彼女の苦痛を物語っている。


 ロレンツォは彼女の手を握った。冷たい。あんなに温かかった手が今は冷たい。生命が失われていく。指先から、掌から、腕へと、冷たさが広がっていく。


 (このままでは……死ぬ)


 恐怖が全身を支配する。


 (エリーゼが……死んでしまう……!)


 そしてロレンツォは決断した。


 (観測者の力を……使うしかない)


 時を巻き戻す。病が発症する前に戻す。そして彼女を救う。


 意識を集中させ、力を解放した。体が熱くなり、視界が歪み、世界の時間の流れが見え始める。過去から未来へと流れる無数の糸――その流れを逆転させる。


 (戻れ……三日前に……!)


 必死に力を込める。全身全霊で、魂を削って。


 (頼む……戻ってくれ……!)


 時間の流れが揺らいだ。戻り始める。一時間、二時間、三時間。


 だが力が途中で止まった。わずか数時間。ほんの数時間しか戻せない。まるで見えない壁に阻まれたように。


「どうして……! どうして……戻らない!」


 ロレンツォは喉が裂けそうなほど叫んだ。もっと力を込める。


「もっと……もっと戻れ!」


 鼻から血が噴き出す。全身に力を込め、汗が噴き出し、視界が歪み、頭が割れそうに痛い。口の中に鉄の味が広がる。


 だが時間は動かない。壁に阻まれたかのように、見えない限界に遮られたかのように。


 その時、扉が勢いよく開き、師が駆け込んできた。


「ロレンツォ! やめろ! それ以上は危険だ!」


 その声は厳しかった。


「師匠……!」


 ロレンツォは振り返った。血まみれの顔で、絶望に歪んだ顔で。


「でも……エリーゼが……!」


「無理だ」


 師は断言した。厳しい声で、だが悲しみを含んだ声で。


「観測者の力は……封印に制限されている」


 その言葉が空気を凍らせた。ロレンツォの動きが止まる。


「三日も……戻すことなどできん」


「封印……?」


 ロレンツォの声が震える。初めて聞く言葉だが、その響きに不吉なもの、恐ろしいものを感じた。まるで呪いの言葉のように。


「何……それは……」


「千年前」


 師の声が重く響く。まるで鐘の音のように。


「最初の観測者が……力を封印した」


 ロレンツォの拳が震える。


「封印がなければ」


 師は続けた。その言葉がロレンツォの心臓を貫いた。


「お前の力は……もっと強大だったはずだ」


 その瞬間、ロレンツォの世界が変わった。憎悪の種が芽生えた。封印への、理不尽な制限への、エリーゼを救えない自分への――その言葉がロレンツォの運命を完全に変えた。心の奥底で、何かが音を立てて崩れていった。


◇ その夜


 エリーゼの呼吸が弱くなっていった。荒かった息が静かになり、苦しそうな呼吸が小さくなる。苦しそうだった表情が穏やかになり、痛みから解放されていく。


 ロレンツォは彼女の手を両手で強く握り続けた。もう冷たい、あんなに温かかった手が。温もりが、命が失われていく。ゆっくりと、確実に、取り返しのつかない速度で。砂時計の砂のように、掬い上げることができないまま。


 そして彼女の唇がわずかに動いた。


「……ロレンツォ様……」


 聞こえるか聞こえないかの囁き。か細く、最後の力を振り絞った声。


「愛しています……」


 その言葉がロレンツォの心臓を貫いた。


 その瞬間、彼女の手が力を失った。握っていた手が緩み、指が静かに開く。呼吸が止まった。


 深い静寂が降りた。


 ロレンツォは動けなかった。これは夢だ、悪夢だ。目が覚めれば彼女はいつものように微笑んでくれる。『ロレンツォ様、またこんな夜遅くまで』と言ってくれる。


 だが現実は動かない。彼女はもう動かない、もう笑わない、もう声をかけてくれない。


「エリーゼ……」


 喉が詰まる。言葉にならない。


「エリーゼ……」


 涙が溢れて止まらない。視界が滲み、涙が頬を伝って彼女の冷たい手に落ちる。


「エリーゼぇぁぁぁぁぁっ!!」


 魂の底から絞り出した絶望の叫びが、天を裂いた。


 封印さえ、あの忌まわしい封印さえなければ救えた。愛する人を失わずに済んだ。


 その思いがロレンツォの心を支配した。憎悪が芽生えた。封印への、世界への、運命への憎悪が。心の中で、愛が憎しみへと姿を変えていった。


◇ 二十年後の今


 蝋燭の炎がまた揺れた。蝋が弾け、小さな火花が散る。


 ロレンツォはゆっくりと手を伸ばした。老いて傷だらけの手で、肖像画に触れる。冷たい絵の具の感触。キャンバスの布の感触。もう温もりはない。肌の柔らかさも温かさも何もない。ただの絵、ただの記憶。触れても、呼んでも、もう応えてはくれない。


「エリーゼ……」


 その声は疲れ切っていた。かすれて枯れている。二十年間憎悪と共に生きてきた男の疲労。復讐のためだけに生きてきた男の虚しさ。


「もう……少しだ」


 呟く声は、自分に言い聞かせるかのようだ。


「封印を破壊すれば……次の世代は……お前のような犠牲者を出さずに済む」


 本当にそうか? 本当にそれが正しいのか?


 拳が握られ、爪が掌に食い込んで血が滲む。だが痛みは感じない。心の痛みに比べれば。二十年間抱え続けた痛みに比べれば。


 その瞳には憎悪と悲しみが混ざっていた。憎みきれない憎しみ、忘れられない悲しみ、そしてかすかな迷い。本当にこれでいいのかという迷い。エリーゼはこんなことを望んでいたのかという疑問。


「だが……ユウよ」


 ロレンツォは呟いた。


「もし……お前が、俺とは違う道を選べるなら……それも、見てみたい……」


 肖像画のエリーゼを見つめる。


 矛盾した感情――封印を憎みながら別の道を望む矛盾。破壊を求めながら救済を期待する矛盾。憎しみと希望が、胸の中で絡み合っている。


 ロレンツォは立ち上がった。膝が軋み、体が重い。ゆっくりと重い足取りで部屋を出ようとする。一歩、また一歩。灰色のローブが床を引きずる。擦れる音が静かな部屋に響く。


 扉に手をかけた時、ふと振り返りそうになった。肖像画をもう一度見たい。エリーゼの顔をもう一度見たい。最後にもう一度だけ。


 だが振り返らなかった。手が止まる。首が動かない。振り返れば崩れてしまいそうだから。決意が揺らいでしまいそうだから。二十年間積み上げてきた憎悪が崩れてしまいそうだから。憎しみという名の鎧が砕けてしまいそうだから。


 扉が閉まった。重い音が響く。


 部屋に再び静寂が戻った。


 肖像画の中のエリーゼは変わらず微笑んでいる。二十年前と変わらない、柔らかで優しい笑顔。その笑顔が語りかけてくるようだった。


 『もう……いいのよ』


 『そんなに……苦しまなくていいのよ』


 『あなたは……間違っているわ』


 『でも……まだ遅くない』


 『私は……あなたの幸せを願っていたのよ』


 『憎しみの中で生きることを……望んでいなかったのよ』


 蝋燭の炎が小さく揺れた。まるで頷き、応え、慈しむかのように。


 だがその声はもう届かない。


 扉の向こうで、ロレンツォは廊下を歩いていた。一人、暗い廊下を。月明かりも届かない冷たい石の廊下を、足音だけが響く。孤独な足音が、闇の中に吸い込まれていく。


 憎悪を抱えたまま。迷いを抱えたまま。そしてかすかな希望を心の奥底に隠したまま。


 三日後、新月の夜。全てが決まる。


 ユウという少年がどの道を選ぶのか。封印を破壊する道を選ぶのか。それとも別の道を見つけるのか。


 その答えがロレンツォの運命も変えるかもしれない。二十年間の憎悪を終わらせるかもしれない。あるいは完成させるかもしれない。


* * *


憎悪と愛が交錯する夜。

過去が現在を呪縛する。

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