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第24話 ロレンツォの提案

 謁見の間に現れたロレンツォは、まるで最初からそこにいたかのように、自然に歩み寄ってきた。


 規則正しい足音。灰色のローブが揺れ、その足音は不思議なほど静かなのに、はっきりと響く。まるで影が歩いているかのように。その顔には、例の掴みどころのない笑みが浮かんでいる。冷たく、知的で、何かを企んでいる笑み。黒い瞳が光を反射し、鋭く輝く。


「ロレンツォ……なぜここに!」


 アリシア王女が警戒心を露わにする。その声は鋭く、体が身構えている。細剣を構えたまま、手が剣の柄を強く握る。瞳が細められ、殺気すら感じられる。周囲の兵士たちも、一斉に武器を構える。鎧が鳴り、槍が向けられる。緊張が走る。


「失礼、アリシア殿下。正式な手続きを踏まずに参上したことをお詫びします」


 彼は恭しく一礼した。その動作は流れるように優雅だ。でも、その態度に真の敬意は感じられなかった。形だけの礼。演技のような動作。その瞳は笑っていない。むしろ、冷たく観察している。まるで実験動物を品定めするように。


「しかし、事態は一刻を争います」


 その声は低く、落ち着いている。まるで全てを予測していたかのような、余裕のある響き。計算された口調。


 ◇


 セリア・クロスフォードが大剣を構え直した。


 金属が擦れる音が響き、殺気が立ち上る。空気が張り詰め、黒い鎧が光を反射して威圧感を増す。


「貴様、何者だ。王宮への不法侵入は重罪だぞ」


 その声は凄みを帯びている。歴戦の騎士の威圧感。一歩でも動けば、斬り捨てるという覚悟が宿っている。大剣の切っ先が、ロレンツォを捉える。


「私の名はロレンツォ。王都で商人をしていますが……本業は別にありまして」


 彼は懐から、一枚の証書を取り出した。


 ゆっくりと。慎重に。誰も刺激しないように。羊皮紙が広げられ、そこには王国の印章が押されている。双頭の鷲の紋章が、金色に輝き、ステンドグラスの光を反射している。本物の証書だ。


「王国魔術師団、特別調査部の者です」


 その言葉に、謁見の間がざわめいた。


 兵士たちが顔を見合わせ、囁き合う。特別調査部。禁忌を扱う部署。秘密裏に活動し、表に出ることのない組織。王にすら直接報告する権限を持つ。その存在は知られていても、詳細は謎に包まれている。闇の中で動く者たち。


 その証書を見たアリシア王女の顔色が変わった。


 青ざめ、唇が震える。目が見開かれ、息を呑む。その反応が、証書の真偽を物語っている。


「特別調査部……封印の研究を?」


 その声は、かすかに震えている。


「ご明察の通りです」


 ロレンツォは俺とリナに視線を向けた。


 その目は鋭く、冷たく、そして何かを渇望している。まるで貴重な標本を見るような目。興味と野心が混ざった視線。背筋が寒くなる。


「そして、この二人こそが封印を解く鍵。それは今の戦いで証明されました」


「だから何だ」


 俺は警戒心を隠さずに言った。体を前に出し、リナを庇うように立つ。拳を握りしめ、いつでも動けるように構える。


「俺たちをどうするつもりだ」


 ロレンツォは肩をすくめた。


 そして、無意識に腰に下げた黒くくすんだ石に指を這わせた。


 その石から、不吉な気配が漂う。魔力とは違う、もっと暗く、重い何か。空気が歪み、視界が揺らぐ。その石を見ていると、吐き気がする。


「簡単な話です」


 彼の声が、静かに響く。


「このままでは、君たちも王都も危険だ。魔物は君たちの力に引き寄せられる。そして君たちの力は、使うたびに身を削る」


 それは、痛いほど理解している事実だった。


 胸が締め付けられる。リナの弱った体。俺の消耗しきった魔力。もう限界が近い。次に力を使えば、どうなるか分からない。


「だから、提案があります」


 彼の声が、さらに低くなる。その瞳が光り、期待に満ちている。


「封印そのものに直接アプローチする方法を」


「封印に?」


 アリシア王女が眉をひそめる。その顔に、恐れが浮かぶ。


「それは禁忌では……」


「禁忌を恐れていては、事態は悪化するばかりです」


 ロレンツォの言葉は冷徹だった。感情がない。ただ事実を述べるだけ。その冷たさが、逆に恐ろしい。


 彼は懐から地図を取り出し、広げた。


 羊皮紙が音を立て、床に広がる。その地図は古く、端が擦り切れている。所々に茶色い染みがあり、インクが褪せている。使い込まれた地図。何度も開かれ、何度も折られた証だ。そこには王国全土が描かれ、様々な印がつけられている。赤、青、黒。それぞれの印には、何か意味があるのだろう。禍々しい気配を放つ印もある。


 ロレンツォは、王都から北へ三日の距離にある山岳地帯を指差した。


 その指先が、地図の一点を示す。山々の奥。険しい峰が連なる場所。地図には、そこに小さな印が赤く記されている。人が立ち入らない場所。伝説の中だけに存在する場所。


「ここに、古の神殿があります」


 その声は、まるで秘密を明かすような響き。囁くような、でも確信に満ちた口調。


「封印が最初に施された場所。千年前、魔神を封じるために建てられた神殿。そこでなら、君たちの力を安定させる方法が見つかるかもしれない」


 千年前の神殿。誰も辿り着いたことのない場所。本当に存在するのか? それとも。


「罠かもしれない」


 セリア隊長が鋭く言った。剣を構えたまま、一歩前に出る。その目は疑念に満ちている。


「かもしれませんね」


 ロレンツォは、あっさりと認めた。


 その態度が、逆に不気味だ。隠さない。否定しない。まるで罠であろうとなかろうと、関係ないとでも言うように。


「しかし、他に方法がありますか?」


 その問いは、重く響く。


「このまま王都に留まれば、より強大な魔物が現れる」


 一拍。


「犠牲者は増えるばかりだ。それでも――いいのですか?」


 沈黙が落ちた。


 重く、息苦しい沈黙。誰もが息を殺し、ロレンツォの言葉を噛み締める。謁見の間に風の音だけが聞こえ、不吉な響きを立てる。誰もが、彼の言葉の正しさを否定できない。それが悔しく、それが恐ろしい。選択肢がない。追い詰められている。壁に背を押し付けられているような、逃げ場のない感覚。


 ◇


 その時、リナが弱々しく声を上げた。


「……行きます」


「リナ?」


 俺は驚いて彼女を見た。まだ顔色は悪く、額には汗が浮いている。体も震え、立っているのがやっとだ。それなのに、その瞳には決意が宿っている。揺るがない光。諦めない強さ。


「このままじゃ、誰も守れない」


 その声は小さいが、確かだ。か細いが、芯が通っている。


「私も、ユウも、限界が近い。次に戦えば、きっと、もう……」


 言葉が途切れる。その先は、言えない。言いたくない。死が、待っている。俺たちの、終わりが。


 彼女は俺を見つめた。その瞳に、涙が滲んでいる。光が揺れ、一筋の涙が頬を伝う。


「でも、もし少しでも可能性があるなら、試してみたい。このまま、何もできずに終わりたくない」


 俺は深く息を吸った。胸が苦しい。心臓が早鐘を打ち、手が震える。


 信用できない。ロレンツォの真意は見えない。むしろ、何か企んでいることは明らかだ。あの冷たい笑み。あの渇望に満ちた目。腰の黒い石。全てが危険を示している。この提案にも、裏がある。罠がある。絶対に。


 あの男の声は、理屈なのに、祈りよりも怖かった。


 でも、リナの言う通り、このままでは共倒れだ。


 王都に留まれば、また魔物が来る。もっと強大な魔物が。そして、俺たちは力を使い果たし、倒れる。死ぬ。リナも、俺も。周りの人々を巻き込んで。


 手の甲の灰色の痣が、疼く。まるで警告しているかのように。


「……分かった」


 俺は答えた。拳を握りしめたまま。爪が掌に食い込み、痛みが走る。でも、それが現実を感じさせてくれる。


「行こう。リナの言う通りだ。このまま何もしないより、可能性に賭ける」


 ◇


 アリシア王女が立ち上がった。その顔には、心配と決意が混じっている。眉が寄り、瞳が揺れる。彼女もまた、決断を迫られている。


「では、護衛をつけます。セリア隊長、選りすぐりの騎士を」


「それには及びません」


 ロレンツォが手を上げた。その動作は柔らかいが、拒絶は明確だ。ゆっくりと、でも断固として。


「大勢で行けば、逆に目立ちます。魔物を引き寄せる危険もある。それに」


 彼は一瞬、間を置いた。その沈黙が、何かを計算しているようで不気味だ。


「神殿の結界は、人数が多いと反応しません。私と、この二人だけで十分です」


 全員が反対しようとした。


 王女が口を開きかけ、セリアが剣を握りしめる。革の手袋が軋む。兵士たちがざわめく。「そんな馬鹿な」「危険すぎる」という囁きが広がる。でも、ロレンツォは続けた。


「三日後の新月の夜」


 その声は、有無を言わさぬ響きだった。低く、冷たく、絶対的な確信を持って。


「その時にしか、神殿への道は開かれません。月の位置、星の配置、全てが揃う時。次の機会は半年後です。それまで、君たちは持ちますか? 王都は、持ちますか?」


 沈黙。


 誰も答えられない。その問いは、あまりに的確で、あまりに残酷だった。


 胡散臭い。


 全てが怪しい。この男の言葉も、提案も、態度も。新月の夜という設定。三人だけという条件。神殿の結界という説明。何もかもが信用できない。まるで全てが計算されているかのように。


 だが、他に選択肢はないのも、事実だった。


 俺は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、血が滲みそうなほどの痛みが走る。その痛みで、現実を確かめる。


 この道は、恐らく、罠だ。


 でも、進むしかない。立ち止まれば、死ぬ。前に進めば、罠がある。それでも、前に進むしかない。


 ロレンツォの冷たい笑みが、俺の不安を掻き立てた。


 その笑みは、まるで全てが計算通りだと言っているかのようだった。予定調和。望み通りの展開。俺たちは、彼の手のひらの上で踊らされているのかもしれない。


 それでも。


「三日後、準備を整えて待っていろ」


 ロレンツォは地図を畳み、懐にしまった。まるで契約書を片付けるように。


「では、失礼します。アリシア殿下、お騒がせしました」


 一礼し、彼は音もなく去っていった。


 灰色のローブが揺れ、その背中が謁見の間の影に溶けていく。足音は最初だけ聞こえ、やがて消える。まるで最初からいなかったかのように。幽霊のように。


 後には、重苦しい空気だけが残った。


 誰もが言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしている。風が吹き抜け、破壊された扉から冷たい空気が流れ込んでくる。石の床が冷たく、その冷気が足元から這い上がってくる。


 ◇


 アリシア王女が、深いため息をついた。


「……セリア、彼を尾行させなさい。正体を確かめておく必要がある」


「御意」


 セリアが頷き、手を挙げる。それを合図に、二人の黒装束の兵士が影から現れ、音もなく扉の外へ消えていった。


 王女は、俺たちに向き直る。


「ユウ、リナ。本当に行くつもりなの?」


 その声には、心配が滲んでいる。彼女もまた、ロレンツォの提案に疑念を抱いている。それでも、止められない。止める理由がない。


「はい」


 俺は頷いた。


「他に、道がありません」


「……そうね」


 王女は悲しげに微笑んだ。


「では、三日間、しっかり休んで体を整えなさい。バーネット医師に最善の治療を施させます。それと」


 彼女は腰の細剣を外し、リナに手渡した。


「これを持っていって。代々の王女が受け継ぐ守護の剣。きっと、あなたたちを守ってくれるわ」


 細剣が、淡く青い光を放つ。精霊の力に反応しているのだろう。リナの手の中で、剣が温かく輝く。刀身から放たれる光が、彼女の顔を柔らかく照らす。


「……ありがとうございます」


 リナは両手で剣を受け取り、深く頭を下げた。


 俺は窓の外を見た。


 空には暗雲が広がり始めている。遠くで雷鳴が響き、雨が降りそうな気配だ。不吉な予感が、胸を締め付ける。冷たい風が窓から吹き込み、肌を刺す。


 三日後。


 新月の夜、俺たちは未知の神殿へ向かう。


 そこで何が待っているのか。ロレンツォの真の目的は何なのか。


 全ては、闇の中だ。


 闇の中でしか、光を見つけられないのなら――それでも進む。


 手の甲の灰色の痣を見つめる。もう、引き返せない。たとえ、それが罠だとしても。


* * *


未知への旅路が始まる。

罠か、希望か。全ては闇の中。


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