第23話 精霊の覚醒
リナから放たれた光は、謁見の間全体を、白く染め上げた。
それは温かく、優しく、まるで母の抱擁のような輝き。でも同時に、圧倒的な力を秘めていた。空気が震え、魔力が渦を巻き、部屋中が世界が透き通るような明るさに包まれる。壁も、床も、天井も、全てが霞むような輝きに満たされる。肌に温もりが触れる。花の香りが満ちる。
紫の魔物が、苦悶の叫びを上げた。
その声は耳を劈くような悲鳴で、窓ガラスが震える。瘴気が光に押し戻され、紫の霧が引き裂かれていく。その巨体が震え、後ずさる。床を引きずる音。初めて見せる、恐怖の動き。後退する魔物。それは誰もが見たことのない光景だった。
「これは……なんという力……」
セリア・クロスフォードが驚愕の声を漏らす。その瞳は見開かれ、大剣を握る手が止まっている。戦場を駆け抜けてきた歴戦の騎士が、言葉を失っている。握る剣が、かすかに鳴いた。
「まさか、上位精霊の加護!? いや、これは……複数の精霊王級の力……!」
その声は信じられないという響きだった。上位精霊。伝説にしか語られない存在。この世に顕現すること自体が、奇跡とされている。それが、今、ここに。
◇
リナの周りに、無数の光の粒子が舞っていた。
金色、銀色、翠色、紅色、蒼色、白色。様々な色を持つ精霊たちが、彼女を中心に渦を巻いている。それぞれが意思を持つかのように動き、螺旋を描き、光の軌跡を残しながら、魔物を包囲していく。まるで星の川。まるで光の海。まるで天空の舞踏。
リナの髪が、風もないのに舞い上がる。金色の髪が重力に逆らって浮遊し、瞳が淡くエメラルドグリーンに発光している。その姿は、もはや人ではなく、精霊そのもののようだった。神秘的で、美しく、そして恐ろしいほどに強大な力を放っている。
「お願い……みんなの力を貸して……ユウを……みんなを守りたいの……」
リナが全身の魔力を込めて祈る。その声は小さく、か細い。でも、確かな決意が込められている。震える唇。握りしめた拳。全身から汗が滲み、顔は青ざめている。これは戦闘魔法。最も負担の大きい精霊の力の使い方だ。力を使い果たしそうになっている。
それでも、諦めない。
胸の奥で、母の声が応える気がした。
精霊たちが応えた。
視界を塗り潰す閃光がさらに増す。眩いばかりの輝きが、部屋を満たす。精霊たちの歌声が聞こえる。いや、確かに聞こえる。美しい、透き通るような調べ。鈴の音のような、水のせせらぎのような、風のささやきのような。それは祈りであり、祝福であり、戦いの雄叫びでもある。
光の奔流が、魔物に降り注いだ。
無数の光の矢が、紫の瘴気を貫く。一本、また一本、また一本と。鋭い音を立てて飛んでいく。瘴気が浄化され、魔物の本体が露わになる。その肉体が、光に焼かれていく。ジュウゥゥ、ジュウゥゥと音を立て、煙が上がり、黒く焦げていく。腐肉の焼ける嫌な臭いが広がる。鼻をつく。吐き気がする。
魔物は抵抗しようとした。
咆哮を上げ、巨大な腕を振り回し、尾を床に叩きつける。床が砕ける。でも、光の壁が、その全てを阻む。澄んだ音を立てて、精霊たちが盾となり、攻撃を防ぐ。そして、反撃する。さらなる光の矢が放たれ、魔物の体を削っていく。
その動きは、次第に鈍くなっていった。
咆哮が弱まり、動きが鈍り、四つの赤い目の光が薄れていく。巨大な体が、力を失っていく。ゆっくりと膝をつき、崩れ落ちそうになる。息が荒く、瘴気も薄くなっている。
「今です、アリシア殿下!」
セリアが叫ぶ。その声は戦場の指揮官のもの。鋭く、確かで、力強い。大剣を構え直す。
◇
アリシア王女が、前に出た。
細剣を両手で構え、詠唱を始める。その声は澄んでいて、力に満ちている。震えは止まり、瞳には決意が宿る。王家の血が、力を呼び覚ます。剣が震え、青白い光が剣身に集まり始める。
「古き契約により、我が血をもって命ずる」
王家に伝わる封印術だった。代々の王が受け継いできた、強大な魔術。千年の歴史が、今、この一瞬に集約される。その力が、今、解き放たれる。
王女の剣先に青白い光が渦を巻く。魔力が凝縮され、圧縮され、一点に集まる。空気が震え、床が軋み、部屋全体が魔力に包まれる。光が強まり、渦が大きくなる。
「悪しき者よ、光に還れ。元の場所へ還れ!」
剣が振り下ろされた。
青い光と白い光が交差し、魔物を貫いた。
二つの力が融合し、究極の浄化の光となる。それは魔物の中心を突き抜け、全身を駆け巡り、内側から破壊していく。光の筋が魔物の体を縦横に走り、亀裂が広がっていく。
魔物が叫んだ。
耳をつんざくような断末魔。この世のものとは思えない悲鳴。窓ガラスが割れ、柱が震え、天井から埃が落ちる。
そして、紫の魔物は、霧散していった。
体が崩れ、粒子となり、光に溶けていく。黒い煙が立ち上り、それも消えていく。最後の赤い目が、憎悪を残して消える。
静寂。
謁見の間に、平穏が戻った。
光が消えたあと、音のない世界に取り残された。誰もが呼吸を整え、何が起こったのか理解しようとしている。床には、魔物の痕跡さえ残っていない。ただ、戦いの傷跡だけが、部屋を物語っている。
次の瞬間。
リナが崩れ落ちた。
「リナ!」
俺は彼女に駆け寄った。足が震え、体が痛む。でも、そんなことは構わない。
リナは、倒れていた。
顔面蒼白で、唇は青ざめている。呼吸も浅く、苦しそうだ。胸がわずかに上下するだけ。額には汗が浮き、体は冷たい。力を使いすぎたのだ。全てを出し切ったのだ。
「大丈夫……ユウが、無事なら……」
かすかに微笑む彼女。その笑顔は弱々しいが、確かに温かい。目を細め、俺を見つめる。その瞳には、安堵が宿っている。
「馬鹿……無理するなって言っただろ」
俺は彼女の手を握った。冷たい手。震える指。それでも、確かに生きている。
「ユウだって、いつも無理してる」
その通りだった。止められない。互いに、止められない。
アリシア王女が、近づいてきた。
その表情は複雑だった。安堵と、心配と、そして何か深い憂いが混じっている。眉が寄り、瞳が揺れている。
「あなたたちは確かに予言の二人。それは証明された」
彼女は静かに続ける。その声は低く、重い。
「でも同時に、とても危うい存在でもある」
「どういう意味です?」
俺は聞き返した。その言葉の意味が、不安を掻き立てる。
王女は少し間を置いて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたの力も、リナの力も、使えば使うほど消耗する。そして」
王女は、少しだけ目を伏せた。
「魔物たちは――あなたたちを求めて現れるのです」
重い事実だった。
胸に、冷たいものが落ちる。理解したくない現実。でも、否定できない真実。
俺たちがいる限り、周りの人々が危険に晒される。
村の人々。護衛隊。ここにいる兵士たち。王女。みんなが、俺たちのせいで危険に晒される。
「だから、提案があるの」
王女が振り返る。その瞳に、決意が宿っている。その声は、真剣だった。
「王宮の奥深く、特別な修練場があります。そこで――」
◇
その時、謁見の間の扉が、再び開いた。
ゆっくりと。音もなく。不吉な予感が、背筋を走る。
部屋の空気が、氷のように張りつめる。
静寂の中、その足音だけが響く。カツン、カツン、カツンと規則正しく。冷たい音。硬い音。
現れたのは、灰色のローブを纏った人物。
フードが深く被られ、顔が見えない。だが、その存在感が、ただ者ではないことを物語っている。魔力が渦巻き、空気が歪んでいる。ピリピリとした緊張感が走る。皮膚がざわめく。
「その必要はないでしょう、アリシア王女」
聞き覚えのある声。
低く、冷たく、でも知的な響き。どこかで聞いた声。記憶が掘り起こされ、胸が騒ぐ。あの声。
俺の体が硬直する。
フードを下ろすと、そこにいたのは。
ロレンツォだった。
黒い髪、鋭い目、冷たい笑み。あの日、村で会った男。旅商人を装っていた男。時空の歪みを観測していた男。知識を求める者。停滞を憎む者。
俺の心臓が、激しく打った。ドクン、ドクン、ドクンと。
「ロレンツォ……!」
俺は思わず声を上げた。
理解より先に、体が硬直する。血が、凍る。そして――記憶が蘇る。王都の門をくぐった時、あの声。『ようこそ、観測者よ。封印の地へ』。あれは、まさか――。
全ての答えが、そこにある気がした。そして、全ての不安が、現実になる予感がした。
彼の瞳が、こちらを見つめる。その視線は冷たく、鋭く、そして何かを確かめるような。
「久しぶりだね、観測者。王都の門で君を出迎えた声に、気づいたかい?」
やはり。あの声は、この男の仕業だったのか。いや、違う――彼の口調からすると、彼自身ではない何かが。
その言葉に、部屋の空気が凍りついた。
* * *
精霊の力が魔物を滅ぼし、予言は証明された。
だが謎の男が現れ、新たな運命が――動き始める。




