第22話 王宮の死闘
謁見の間を塞ぐように立つ紫の魔物は、もはや生物というより、災厄そのものだった。
体高は三メートルを超え、天井に届くほど。
狼に似た姿――だが、皮膚は腐り、肉は爛れ、瘴気が床を焼く。
ジュウゥゥ、と大理石が溶け、黒い染みが広がった。
血のように赤く光る四つの目が、獲物を品定めするように蠢いていた。その視線が動くたび、空気が歪み、魔力が波打つ。
謁見の間は恐怖に包まれた。
誰もが動けない。呼吸が止まり、心臓が凍りつく。魔物の放つ圧倒的な存在感。死の気配が、人々を縛り付けている。死が、そこにある。明確に、確実に、すぐそこに。
「衛兵! 密集方陣! 決して王女殿下に近づけるな!」
護衛隊長、バルトの怒号が、静寂を破った。
その声に、恐怖に強張っていた兵士たちが我に返る。訓練された体が反射的に動き出す。ガシャン、ガシャンと鋼鉄の盾がぶつかり合う音を響かせ、ガチャガチャと鎧が鳴り、彼らはアリシア王女の前に鉄壁を作った。だが、その手は震え、顔は青ざめている。盾を持つ腕が小刻みに揺れている。誰もが恐怖と戦っている。
「王女様、お下がりください!」
バルトが叫ぶ。
「いいえ。私も戦います」
アリシアは震える手で腰の細剣を抜いた。シャリンと鞘走る音が響く。その手が震え、剣の鍔がカチカチと小さく音を立てる。それは装飾品ではなく、厳しい訓練を乗り越えてきた者の、覚悟の証だった。刃が七色のステンドグラスの光を反射し、鋭く輝く。
だが、その瞳には恐怖も宿っている。それでも、後ろに下がらない。王族としての誇り。人々を守る決意。それが、震える足を踏ん張らせている。
◇
魔物が動いた。
甲高い咆哮を上げ、巨大な前足を振り下ろす。ヒュウゥと空気を切り裂く音。暴風のような風圧が顔を打つ。
轟音と共に床が砕け、大理石の破片が弾丸のように四方八方に飛び散った。兵士たちが盾で防ぎ、金属が石に弾かれる音が響く。衝撃が足元を揺らし、立っているのがやっとだ。床にクレーターのような穴が開き、ひび割れが蜘蛛の巣のように広がる。
「リナ!」
俺は彼女の腕を掴み、大理石の柱の陰に押し込んだ。まだ万全ではない身体が悲鳴を上げる。筋肉が引き攣り、骨が軋む。息が上がり、視界が揺れる。でも、構っていられない。リナを守らなければ。
「ユウ、あの力は使わないで!」
リナが必死に叫ぶ。その声は恐怖と懇願に満ちている。俺の袖を掴み、涙が目に溜まっている。「約束したでしょ」と繰り返す。
「分かってる……使わない」
俺は息を荒くしながら答えた。リナとの約束。それだけは守らなければ。
「私がやる! 私の力で!」
リナは両手を前に突き出し、か細い光を紡ぎ始める。金色の光が指先から溢れ、精霊たちが応えるように集まってくる。キラキラと光の粒子が舞う。
だが、昨夜覚醒したばかりの力では、巨大な魔物の瘴気を打ち破るには至らない。光が揺らぎ、すぐに消えそうになる。精霊たちの声が弱々しい。
悔しさが、彼女の顔を歪める。唇を噛み、涙が溢れる。
◇
兵士たちの反撃が始まった。
槍が魔物に突き刺さる。いや、刺さらない。魔物の体表を滑り、弾かれる。剣は分厚い外皮に阻まれて火花を散らすだけだった。金属が擦れる音。無力な攻撃。何も効いていない。
「くそっ! 歯が立たない!」
兵士の一人が叫ぶ。その声は絶望に満ちている。
「退くな! 王女様を守れ!」
バルトの声が響く。
俺は床に落ちていた衛兵の剣を拾った。ずっしりと重い。鋼鉄の重さが腕に食い込む。子供の身体にはあまりに重すぎる。刃が床を引きずり、ギィィと火花が散る。杖を持つ手も震える。でも、戦わなければ。このままでは、みんな死ぬ。
魔物の四つの赤い目が、こちらを向いた。
殺意に満ちた視線。捕食者が獲物を見る目。
背筋が凍りつく。足が竦み、体が動かない。恐怖が、全身を支配する。喉が詰まり、声も出ない。
◇
その時、ガラスが砕けた。
七色の光が散る。
その中を――黒い影が舞い降りた。
破片が雨のように降り注ぐ。赤、青、緑、黄、紫。光が乱反射し、部屋が一瞬万華鏡のように輝く。そして、着地。
片膝をつき、大剣を地面に突き刺す。床が割れ、衝撃波が広がる。土煙が舞い上がる。
「遅れて申し訳ありません、アリシア殿下!」
黒い鎧を纏った女騎士、セリア・クロスフォード。
王国最強と謳われる近衛騎士団長は、その身の丈ほどもある大剣を床から引き抜き、まるで小枝のように軽々と片手で振るった。ブンッと剣が風を切り、ヒュウウウと唸る。その存在だけで、空気が一変する。絶望が、希望に変わる。
「セリア!」
アリシア王女が安堵の声を上げる。その声は震え、涙が溢れ出る。「よくぞ来てくれました」
セリアは短く頷き、答える代わりに、剣を構えた。
黒い鎧がステンドグラスの光を反射し、鈍く光る。その姿は、死神のようだった。恐怖ではなく、希望の死神。守護者の姿。
そして、セリアの背後から、もう一人の人影が飛び込んできた。
「悪いな、遅れた!」
革の鎧、長剣を構えた青年――カイルだ。町で出会った、あの冒険者。
「君は……!」
俺は驚いて叫ぶ。
「あの時の護符、まだ持ってるか? 効いてるはずだ。魔物の瘴気から少しは守ってくれる」
カイルは俺に向かって笑みを見せると、すぐに魔物へ向き直った。その背中には、冒険者としての誇りと覚悟が滲んでいる。
「騎士団長、援護します!」
「ああ、頼む!」
セリアが短く応え、構えを取る。
「はぁっ!」
一閃。
セリアの大剣が、空気を裂いた。真空の刃が走り、魔物に向かって突き進む。
瘴気が切り裂かれた。
濃密な紫の霧が、バターのように真っ二つに割れる。光が差し込み、魔物の本体が露わになる。
魔物は、初めて甲高い苦痛の声を上げた。
耳を劈くような叫び。窓ガラスが震え、空気が震える。魔物がたたらを踏み、後退する。その足が床を砕き、崩れる。
「今だ! 総攻撃!」
護衛隊長が叫ぶ。
セリアの参戦で士気を取り戻した兵士たちが、一斉に攻撃を再開する。槍が飛び、剣が振るわれ、魔法の光が放たれる。今度は、攻撃が届いている。切り裂かれた瘴気の隙間から、刃が魔物の肉に届く。
カイルも魔物の側面に回り込み、鋭い剣撃を放つ。その動きは洗練されていて、冒険者として数多くの戦場を経験してきたことが分かる。
「この野郎!」
カイルの剣が魔物の後ろ足を切りつけ、黒い血が飛び散る。魔物が怯む。
だが、手負いの獣は、より危険だった。
魔物は尾を鞭のようにしならせ、兵士たちを薙ぎ払った。
空気が爆発する。衝撃波が走り、兵士たちが吹き飛ぶ。鋼の鎧が紙くずのように舞い、壁に叩きつけられる。肉と鎧が壁に激突する音。悲鳴。血が飛び散る。
「きゃあ!」
リナが悲鳴を上げる。
吹き飛ばされた兵士の一人が、彼女のいる柱に、真っ直ぐ飛んでくる。重い鎧を纏った体が、猛スピードで。
時間が、遅く感じた。
兵士が迫る。リナの顔が恐怖に歪む。俺の心臓が、ドクンと大きく打つ。
俺の身体が、勝手に動いた。
リナを突き飛ばし、代わりに衝撃を受ける。
激突。
世界が白くなった。痛みが全身を貫く。骨が軋み、内臓が揺れる。息ができない。視界が明滅し、意識が飛びそうになる。耳鳴りが響き、何も聞こえない。
(使うな……使っちゃだめだ……約束したんだ……)
頭の中で、声が叫ぶ。時間を巻き戻す力。あと四回か六回。でも、使っちゃいけない。リナと約束した。
痛い。体が動かない。息が、できない。口の中に血の味が広がる。鉄の味。舌が痺れる。
でも、使わない。約束を、守る。
朦朧とする視界の中、リナの姿が見えた。
彼女は倒れた俺を見て、顔を歪めている。涙が頬を伝い、ポタポタと床に落ちる。その瞳には、怒りと悲しみと、そして、強い決意が燃えている。
「もう……誰も……」
リナの声が震える。
「ユウを……みんなを……傷つけないでぇぇっ!!」
その絶叫と共に、精霊の光が、爆発的に輝きを増した。
金色、銀色、緑色、青色。様々な色の光が彼女を包む。今までとは違う。圧倒的な魔力が溢れ、空気が震える。部屋全体が振動し、光の柱が天井を突き抜ける。温かい風が吹き、花の香りが満ちる。森の匂い。清流の冷たさ。全ての自然が、ここに集まったかのような。
◇
謁見の間が、白く染まった。
眩い光。目を開けていられないほどの輝き。精霊たちの力が爆発し、部屋全体を包み込む。温かく、優しく、そして圧倒的な力。
魔物の咆哮が、悲鳴に変わる。
瘴気が消えていく。光に焼かれ、浄化され、消滅する。ジュウゥゥと音を立て、紫の霧が蒸発していく。魔物の体が光に侵食され、じわじわと溶けていく。
「これが……精霊使いの……真の力……!」
アリシア王女が呆然と呟く。
リナが目覚めた。本当の力に。
精霊に愛された者の、真なる姿に。
光が収まった時、そこには、もう魔物の姿はなかった。ただ黒い染みだけが床に残り、風が静かに吹き抜けていく。破壊された謁見の間に、沈黙が戻る。
リナは膝をつき、俺の方を見た。その顔は涙で濡れている。
「ユウ……」
その声は震え、か細い。力を使い果たし、体が震えている。
「ありがとう、リナ……」
俺は微笑んだ。痛みで意識が遠のきそうだが、それでも笑った。
ユウの笑みを見て、リナの頬が震えた。涙がまた溢れる。だが、今度は悲しみではない。
約束を守った。力を使わなかった。そして、リナが俺たちを救ってくれた。
これでいい。これで。
意識が、暗闇に沈んでいく。
* * *
精霊の光が、魔物を滅ぼした。
約束は守られ、少女は真に目覚めた。




