第21話 王宮への召喚
翌朝。まだ空が白み始めたばかりの時刻に、王宮からの使者が宿『銀の鈴亭』を訪れた。
静かな朝を破る、三度のノック。
コン、コン、コン――急ぐような響き。
外では小鳥のさえずりが聞こえ、遠くで馬車の車輪が石畳を転がる音がする。王都はゆっくりと目覚め始めている。
バルトが扉を開けると、紺色の制服に身を包んだ若い文官が恭しく頭を下げていた。その制服には金糸の刺繍が施され、王家の紋章、双頭の鷲が胸元で光っている。肩には朝露が残り、息が白く、急いで来たことが分かる。
「ユウ様、リナ様。アリシア王女殿下がお待ちです」
その声は丁寧だが、緊張が滲んでいる。文官の額には薄く汗が浮かび、呼吸がわずかに荒い。よほど急ぎの用件なのだろう。
「体調はいかがでしょうか」
文官は俺たちの顔を見て、心配そうに尋ねた。
「なんとか歩けます」
俺はバルトから借りた木の杖に体重を預けて立ち上がった。杖が床を叩く音がコツリと響く。体はまだ重く、足に力が入りづらい。でも、昨日リナの精霊の力を受けてから、確実に回復している。手の甲の灰色の痣も、心なしか薄くなった気がする。
リナが心配そうに肩を貸してくれる。その小さな手が、俺の背中をそっと支える。温かな体温が伝わってきて、少し安心する。
「無理しないで、ユウ」
その声は優しく、でも不安に震えている。
「大丈夫だ。君がいるから」
俺は彼女に微笑みかけた。できるだけ、平気な顔をして。昨夜の約束を思い出す。二人で一緒に。
◇
王家の紋章が入った黒塗りの馬車に乗り、王宮へと向かう。
バルトも護衛として同行してくれた。その存在が心強い。
朝の王都は活気に満ちていた。パン屋が窯に火を入れ、香ばしい匂いが通りに広がる。焼きたてのパンの湯気が朝日に白く輝く。商人たちが店を開き、元気な声で挨拶を交わし、荷物を運ぶ。子供たちが路地を駆け抜け、笑い声が響く。井戸端で女性たちが洗濯をしながら世間話をしている。普通の、平和な朝。
だが、王宮に近づくにつれ、空気が変わる。
緊張の匂い。人々の笑顔が消える。
衛兵の数が明らかに増え、十メートルおきに配置されている。通行人の顔にも緊張が見える。誰もが急ぎ足で、誰もが周囲を警戒している。視線が鋭く、肩に力が入っている。会話も少なくなる。
「最近、王宮の周りで不審な影が目撃されているそうです」
文官が小声で教えてくれた。窓の外を見ながら、声を落として。その目には恐れが宿っている。
「紫の魔物の出現以来、皆が神経質になっています。夜になると、誰も外を出歩きません。店も日暮れ前には閉まり、街は静まり返ります。まるで、戒厳令が敷かれているかのように」
その言葉に、俺は胸が痛んだ。あの魔物のせいで、人々が怯えている。普通の暮らしが奪われている。そして、俺の力が、その魔物を引き寄せているのかもしれない。
◇
やがて、白亜の王宮が姿を現した。
高くそびえる尖塔が五本、空を突き刺すように立っている。朝日を受けて輝く白い壁は、まるで雪のように眩しい。美しいステンドグラスが七色の光を放ち、窓という窓から神秘的な輝きが漏れている。手入れの行き届いた庭園には、秋の花。薔薇、菊、コスモスが咲き誇り、中央の噴水が静かな音を立てている。水の音がシャラシャラと耳に心地よい。
その荘厳さに、リナが息を呑む。
「すごい……こんな美しい建物、見たことない……」
その声は小さく、驚きに満ちている。目を見開き、窓ガラスに顔を近づけている。村育ちの彼女にとって、この光景は別世界なのだろう。
「ああ……」
だが俺の注意は、別のところにあった。
王宮の周囲に張り巡らされた、見えない結界のような気配。魔力の流れが歪み、空気が揺らいでいる。肌に、ピリピリとした静電気のような感覚が走る。それは明らかに、何かを警戒している証だった。強力な防御魔法が、層になって王宮を覆っている。
何かが起ころうとしている。この緊張した空気。張り詰めた魔力。それが、俺の不安を掻き立てる。胸騒ぎがする。
馬車が止まり、石畳に車輪が擦れる音がする。御者が降りて扉を開き、冷たい秋の風が吹き込んでくる。木々の葉が擦れ合う音。鳥の鳴き声。だが、どこか不自然に静かだ。
◇
衛兵に先導され、謁見の間へと通される。
長い廊下を歩く。コツ、コツ、コツと杖の音が響き、それが高い天井に反射して何重にも重なる。壁には金の額縁に入った絵画が飾られ、歴代の王たちがこちらを見下ろしている。その視線が、重く感じる。まるで審判を受けているかのような。
やがて、巨大な扉の前で止まった。
衛兵が重々しく扉を開く。ギィィと軋む音が廊下に響く。古い木材の擦れる音。金属の蝶番が悲鳴を上げる。
扉の向こうに広がっていたのは、息を呑むほど荘厳な空間だった。
高い天井は十メートル以上あり、天井画には天使や精霊が描かれている。太い大理石の柱が左右に六本ずつ並び、それぞれに精巧な彫刻が施されている。床には深紅の絨毯が敷かれ、その先に黄金の玉座がある。ステンドグラスから差し込む朝日が、部屋全体を神秘的な七色の光で染めている。空気がひんやりと冷たく、石の匂いがする。
そして、玉座の前に立つ、一人の少女。
アリシア王女だった。
金色の髪を優雅にまとめ、深い青のドレスを纏っている。サファイアの首飾りが胸元で輝き、ドレスの裾には銀の刺繍が施されている。まだ十代半ばだというのに、その立ち姿には威厳があった。背筋が伸び、顎が上がり、瞳には強い意志が宿っている。
でも同時に、優しさも感じる。口元に浮かぶ微かな笑み。柔らかな視線。
「ようこそ、ユウ、リナ」
王女の声は澄んでいて、親しみやすさと気品を兼ね備えていた。その声が、広い謁見の間に響く。
「紫の魔物を退けた勇者として、あなたたちを歓迎します」
俺たちは慌てて跪こうとした。でも、王女は優しく手で制した。
「堅苦しいのは苦手なの。楽にして」
そう言って微笑む。その笑顔は本物で、飾り気がない。肩の力が少し抜ける。
「それより、体調はどう? バーネット医師から報告は受けています」
その声には、本当の心配が込められている。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
俺は頭を下げた。
「謝ることはないわ。むしろ、命を賭けて人々を守ったあなたに、私たちが感謝すべきです」
王女の言葉は温かかった。でも、その瞳は鋭く俺を観察していた。深い青の瞳が、じっとこちらを見つめる。まるで、心の奥まで見透かすような視線。
時間を操る力について、どこまで知っているのだろう。
俺は内心で身構えた。呼吸を整え、表情を変えないようにする。でも、心臓が早鐘を打っている。
「さて、本題に入りましょう」
王女が真剣な表情になった。空気が一変する。笑顔が消え、眉がわずかに寄る。その変化に、部屋中の空気が張り詰める。
「紫の魔物の出現は、ただの偶然ではありません。古い予言があるのです」
「予言?」
リナが小さく呟く。
王女は一瞬、目を伏せた。その横顔に、かすかな不安が浮かぶ。
「……あの言葉が、今でも私を不安にさせるの」
そう呟いてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。その声は低く、重く、確かだ。
「『封印が綻ぶ時、二つの鍵を持つ者が現れる。一人は時を拒む者、もう一人は精霊に愛される者』」
その言葉を聞いた瞬間、俺とリナは顔を見合わせた。
時を拒む者。精霊に愛される者。
まさに、俺たちのことだ。
理解より先に、恐怖が全身を凍らせた。血が、凍る。息が、止まる。リナの手が、俺の袖を掴んで震えている。
「あなたたちこそ、その予言の」
◇
その時だった。
突然、城全体が激しく揺れた。
地響きが響き、床が波打ち、大理石の柱が軋む音が響く。天井から埃と漆喰の破片が落ち、深紅の絨毯が波打つ。窓ガラスが震え、ステンドグラスがガタガタと音を立てる。遠くで、警鐘が鳴り響き始めた。カンカンカンカン。甲高い、耳を劈くような音。
「何事!?」
アリシア王女が叫ぶ。その声は驚きと、恐れに満ちている。普段の気品は消え、少女らしい動揺が表情に浮かぶ。
衛兵が扉を蹴破るように駆け込んできた。その顔は青ざめ、息が荒い。鎧がガチャガチャと音を立てる。目に恐怖が宿っている。
「申し上げます! 城門に巨大な影が! 紫の」
言い終わる前に、謁見の間の巨大な扉が、轟音と共に吹き飛んだ。
爆発音。木の破片が飛び散り、衝撃波が部屋を襲う。暴風が吹き荒れ、絨毯が舞い上がり、燭台が倒れる。炎が床に散らばり、小さな火災が起きる。煙が立ち込め、目が痛くなる。
そこに立っていたのは、今まで見たどれよりも巨大な、紫の魔物だった。
三メートルを優に超える巨体。狼のような姿だが、体は腐肉のように爛れ、全身が紫の霧に包まれている。その中から血のように赤い目が四つ、ギラギラと光っている。口からは黒い煙が漏れ、床に触れた部分が腐食していく。ジュウゥゥと音を立て、大理石の床が溶けていく。腐敗臭が鼻をつく。吐き気がする。
その存在だけで、空気が歪む。魔力が暴れ、呼吸が苦しくなる。喉が詰まり、心臓が早鐘を打つ。皮膚がざわめく。
理解より先に、恐怖が走った。そして体が、記憶を呼び起こす。あの紫の瘴気。あの赤い目。あの圧倒的な死の気配。
「リナ、下がれ!」
俺は叫んだ。もう、戦うしかない。
紫の魔物が、咆哮を上げた。
獣の叫び。世界を揺るがすほどの轟音。その声は、絶望そのものだった。
* * *
予言は告げられ、魔物は襲来した。
運命の歯車が、激しく回り始める。




