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第20話 リナの覚悟

 バーネット医師が去った後、部屋には重い沈黙が満ちていた。


 午後の光が差し込み、床に長い影を描く。光の筋の中で埃が舞い、時間だけがゆっくりと進んでいく。重い空気。息が詰まる。誰も、言葉を発さない。


 バルトは深刻な表情で腕を組み、窓の外を見つめている。その背中には、責任と心配が重くのしかかっているように見えた。肩が張り、呼吸が深い。彼は何かを考え込んでいる。


 やがて、彼は口を開いた。


「時間を巻き戻す力か……正直、信じられん話だが」


 彼は振り返り、俺を見据えた。その瞳は鋭いが、非難の色はない。ただ、深い思索と困惑が宿っている。そして、理解しようとする意志が。


「だが、あの時の違和感は確かにあった。世界が軋む音を聞いた気がした。それに、君の症状が嘘でないことも明らかだ」


 バルトの声は低く、慎重だ。言葉を選ぶように、ゆっくりと話す。


「バルトさん……」


 俺は何か言おうとしたが、言葉が出てこない。喉が渇き、声が掠れる。何を言えばいいのか分からない。


 バルトは深く息を吐いた。


「この件は、本来なら王宮に報告すべきだ。だが」


 彼は俺とリナを交互に見た。


「俺は黙っておく。お前の力を利用しようとする輩が、王宮には必ずいる。だから、秘密だ」


 厳しい言葉だったが、その瞳には深い心配の色があった。まるで父親が息子を叱りながらも守ろうとしているような、そんな目。眉間の皺が、それを物語っている。


「だが、忘れるな」


 バルトは拳を握りしめた。


「君が命を賭けて仲間を守ったことは、誰も否定できない。だが、自分の命も大切にしろ。生き延びてこそ、守る意味がある」


 そう言い残し、バルトは部屋を出て行った。重い足音が廊下に響き、徐々に遠ざかっていく。ドアが閉まる音が、静寂を呼び戻す。


 ◇


 残された俺とリナ。


 彼女はベッドの端に座り、震える手を膝の上で握りしめていた。その手は血の気が失せて白く、爪が食い込んで赤い痕がついている。顔は俯き、金色の髪が顔を隠している。肩が小刻みに揺れている。


 やがて、小さな嗚咽が聞こえた。


「ユウ……ごめんなさい」


 その声は小さく、震えている。涙で濡れ、か細い。自分を責めるような、苦しげな声。


「何を謝ってるんだ」


 俺は優しく言おうとしたが、体が重く、声を出すのも辛い。喉が渇き、言葉がかすれる。


「だって、私を守るために……あと四回か六回しか使えないなんて……」


 リナは顔を上げた。その顔は涙で濡れていた。


「私が弱いから……私がいつも守られてばかりだから……」


 涙が頬を伝い落ちる。透明な雫が、シーツに染みを作る。


 理解より先に、苦しさが胸を満たした。まるで肺から空気が奪われていくように、呼吸が浅くなる。こんな風に泣かせるつもりじゃなかった。


 俺は身を起こそうとしたが、まだ力が入らない。腕が震え、体が言うことを聞かない。くそ、こんな時に。


「リナ、聞いてくれ」


 必死に声を振り絞る。喉が痛み、息が苦しい。でも、伝えなければ。この気持ちを。


「これは俺の選択だ。君のせいじゃない。俺は……君を失いたくなかった。それだけだ」


 その言葉に、リナは顔を上げた。涙で濡れた瞳が、俺を見つめる。


「でも!」


 その瞳には、今まで見たことのない強い光が宿っていた。涙で濡れているが、確かな決意がある。迷いがない。揺るがない何かが、そこにある。


「もう、守られるだけなのは嫌!」


「ユウばかりに背負わせたくない!」


 リナは立ち上がり、両手を胸の前で組んだ。その動きは決然としていて、迷いがない。背筋が伸び、顔が上を向く。涙の跡は残っているが、その表情は強い。


 ◇


 その瞬間、部屋の空気が一変した。


 微かな風が舞い始める。窓は閉まっているのに、見えない何かが彼女の周りに集まってくる。カーテンが揺れ、テーブルの上の紙がざわめき、空気そのものが震える。魔力が、部屋中に満ちていく。肌がざわめく。髪が逆立つ。空気が濃密になる。


「リナ……?」


 俺は驚いて彼女を見つめた。これは、一体何が。


「私には精霊の血が流れてる。お母さんが……エルナさんが教えてくれた」


 リナの髪が風もないのに揺れ始める。金色の髪が重力に逆らって浮き上がり、まるで水中にいるかのように舞う。瞳が淡く光り、エメラルドグリーンの神秘的な輝きを放つ。美しい。神々しい。人間のものではない、何か遠い世界からの光。


「ずっと怖くて、この力から目を背けてた。でも、もう逃げない」


 淡い輝きが彼女を包み込む。金色、銀色、緑色、青色。様々な色の煌めきが渦を巻き、彼女を中心に広がっていく。それは温かく、優しく、そして力強かった。まるで、太陽のように。希望のように。命そのもののように。


 部屋中が光に満たされ、影が消えていく。温かな風が吹き、俺の髪を揺らし、肌を撫でる。花の香り。草原の匂い。清流の冷たさ。森の静けさ。全ての自然が、この部屋に集まってきたかのような感覚。


 精霊たちの歌が聞こえる気がした。鈴の音のような、水のせせらぎのような、風のささやきのような。祝福するような、励ますような、優しい調べ。


「私も戦う。ユウを守る。だから……もう無理しないで」


 その言葉は力強く、確かだ。リナの決意が、光となって部屋中に溢れている。俺の体にも、その温かい光が染み込んでくる。痛みが和らぎ、魂の傷が少しだけ癒される気がした。手の甲の灰色の痣が、ほんの少しだけ薄くなったような。


 やがて光が収まり、リナはよろめいた。足がふらつき、バランスを崩しかける。まだ力を制御できていないのだろう。体が慣れていない。魔力を使い果たしたのかもしれない。


 俺は咄嗟に手を伸ばそうとしたが、体が思うように動かない。悔しさが込み上げる。こんな時に。


 ◇


「……ありがとう、リナ」


 俺は微笑んだ。


 守られるだけだった少女が、こんなにも強くなった。


 リナはベッドの脇に膝をつき、真剣な顔で俺を見つめた。


「でも、約束して」


 その瞳を真っ直ぐこちらに向け、俺の手を握る。その手は震えていたが、温かく、確かだった。柔らかいが、以前より強い。


「もし私が危なくなっても、あの力は使わないで。私は自分で立ち向かうから」


 理解より先に、痛みが胸を貫いた。


 胸が詰まる。息が、できない。


 それは、俺にとって最も難しい約束だった。リナが危険にさらされるのを見て、何もしないなんて。それは、耐えられるだろうか。力を使わずに、ただ見ているだけなんて。


 でも、彼女の覚悟を無駄にはできない。この決意を、踏みにじってはいけない。


「……分かった。でも、本当に命に関わる時は」


 俺が言いかけると、リナは首を横に振った。金色の髪が揺れる。


「その時は――一緒に戦おう」


「二人でなら、きっと乗り越えられる」


 その言葉に、俺は深く頷いた。そうだ。一人で背負う必要はない。二人で、一緒に。互いに支え合えばいい。


 窓から差し込む夕日が、部屋を橙色に染めていた。温かな光が二人を包み、影を長く伸ばす。埃が金色に輝き、まるで精霊のように舞っている。さっきリナが呼び出した精霊たちの名残だろうか。


 明日は王宮での聴取が待っている。何を聞かれるのか、どんな人物が待っているのか。分からない。不安と期待が入り混じる。


 リナも、きっと同じ気持ちだろう。でも今、彼女の瞳には迷いがない。


 初めて、守られる者ではなく、隣を歩く者として。


 でも今は、この温かい時間を大切にしたかった。


 それだけで、失いかけた力が少しずつ戻ってくるような気がした。体が温かくなり、魂の傷が少しだけ癒されていく。リナの精霊の力が、俺にも染み込んでいるのかもしれない。


 リナがベッドの横に腰を下ろし、俺の手を握った。その手は温かく、柔らかい。でも、以前より強く、確かだ。震えは止まり、しっかりと俺の手を包んでいる。


「一緒に、頑張ろうね」


 その言葉に、俺は強く頷いた。


「ああ、一緒に」


 窓の外では、夕日が王都の街並みを赤く染めながら沈んでいく。部屋が徐々に暗くなり、遠くの空に一番星が瞬き始める。新しい一日が終わり、新しい明日が始まろうとしている。


 どんな困難が待っていても、二人でなら乗り越えられる。


 リナの精霊の力と、俺の観測者の力。二つの力が合わされば、きっと道は開ける。


 そう信じて、俺たちは王都の夜を迎えた。


* * *


少女は覚醒し、精霊の力を得た。

もう独りじゃない。二人で戦う未来へ。


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