第19話 限界の宣告
宿『銀の鈴亭』の二階、窓際の一室。
俺はベッドに横たわり、天井の木目を眺めていた。焦点は合わない。視界が揺れる。
身体を起こす気力も湧かず、ただ荒い息を繰り返している。喉は渇き、唇はひび割れ、全身が熱を持っているような錯覚に襲われる。窓から差し込む午後の日差しが眩しく、瞼を閉じても光が透けて見える。まるで頭蓋骨が薄くなり、光が直接脳に届いているかのように。
部屋の隅ではリナが心配そうにこちらを見つめている。その瞳には涙が浮かんでいた。
「もう限界だ。医者を呼ぶ」
バルトが決断を下した。その声は、これまでで最も深刻なものだった。
「ただの子供じゃない。紫の魔物に遭遇した重要な証言者だ。王宮に報告する前に死なれては困る」
彼は若い兵士に指示を出し、王宮への使いを走らせた。革靴が廊下を駆けていく音が遠ざかっていく。扉が開閉する音。階段を下りる足音。全てが遠い世界の出来事のように聞こえる。
◇
一時間後。
階段を上がってくる複数の足音が聞こえた。扉がノックされ、ゆっくりと開く。
「お医者様が……あれ?」
リナが驚きの声を上げる。
入ってきたのは、予想に反して立派な身なりの初老の男性だった。
白髪に丸眼鏡。上質な白衣には金糸で王家の紋章、双頭の鷲が刺繍されている。手には革製の医療鞄。その後ろには助手らしき若い男が薬箱を抱えて控えている。
「私はバーネット。王宮付きの医術師だ」
穏やかな笑みを浮かべながら、彼は俺のベッドに近づいた。その足取りは落ち着いており、長年の経験が滲み出ている。床板が軋む音が、規則的に響く。
「実は、君たちのことは王宮でも話題になっていてね。紫の魔物に遭遇した子供たちを診るようにと、アリシア王女殿下直々の命を受けてきた」
「王女様が……?」
リナが目を丸くする。
「ああ。『英雄として迎える前に、体調を崩させるわけにはいかない』とおっしゃっていた。それに、私自身も興味があってね。紫の魔物に遭遇して生き延びた例は極めて稀だ」
バルトも驚いたように目を見開いている。
どうやら俺たちの存在は、思った以上に王宮で注目されているらしい。そして、紫の魔物は、それほど恐れられている存在なのだ。
◇
バーネット医師は俺のそばに腰を下ろし、診察を始めた。
まず脈を取る。冷たく乾いた指が俺の手首に触れ、じっと数を数える。その指先はザラザラとしていて、長年薬草を扱ってきた職人の手だった。次に瞳孔を確認するため、俺の顔に顔を近づけ、眼球の動きを観察する。薬草とインクの混ざった独特の匂いが鼻をつく。そして舌の色、爪の色、手の甲の痣を念入りに調べた。
触れられるたび、皮膚がヒヤリと冷たくなる。まるで氷を当てられているように。
「いつから体調を崩した?」
「三日前……盗賊に襲われた時からです」
「戦いの直後か……魔物の毒にでもやられたかな?」
そう呟きながら、医師は助手に指示を出し、様々な薬草の匂いを嗅がせたり、簡単な反射テストを行ったりする。その手つきは丁寧で、無駄がない。ラベンダー、セージ、ミント。次々と鼻先に持ってこられる薬草の香りが、吐き気を誘う。
やがて、バーネット医師の表情が険しくなった。眉間に深い皺が刻まれ、眼鏡の奥の目が鋭く細められる。
「奇妙だな……脈は正常、体温も平熱、外傷もない、毒の痕跡もない。なのに明らかに生命力が低下している」
「生命力……?」
リナが不安そうに尋ねる。その声は震えていた。
「簡単に言えば、身体を動かす根本的な力だ。魂の輝き、とも言える。まるで……何かにごっそりと吸い取られたかのように減っている」
医師はそこで言葉を切り、わずかに目を伏せた。
「十年前、似た症例を一度だけ見た。君と同じくらいの年齢の、少年だった」
医師の声が、かすかに震えた。
「だが……彼は三回目の使用後、命は助かったが、記憶の大部分を失った。自分の名前さえ思い出せないまま、王都を去っていった」
彼は首を横に振り、深い後悔を滲ませた。その横顔には、救えなかった患者への悔恨が刻まれている。
「君には、そうなってほしくない」
バーネット医師は腕を組み、深く考え込んだ。その表情は真剣そのもので、三十年の経験を総動員して記憶を辿っているようだった。部屋の空気が重くなる。音が消える。リナの息遣いだけが聞こえる。
「この症状……どこかで見た記憶が……いや、見たのではない。読んだのだ」
彼はしばらく唸っていたが、やがてハッとしたように顔を上げた。眼鏡の奥の瞳が鋭く光る。
「そうだ。医療記録じゃない。私が十年以上解読を試みている、あの古文書の記述だ」
「古文書、ですか?」
バルトが訝しげに問う。
「ええ。王宮の禁書庫に眠る、千年前の観測者に関する記述です。古代語で書かれており、解読はまだ途中ですが……そこに『理を歪める力は、術者の命を削る』と明記されている」
医師は鋭い視線を俺に向けた。その視線が、皮膚を貫いて魂を見透かすように。
「君、もしかして戦いの時、普通じゃない力を使わなかったか? 時間に干渉するような」
バルトも身を乗り出す。
「そういえば、あの盗賊襲撃の時……一瞬、妙な感覚があった。時間が歪んだような、世界が軋んだような……」
もう、隠し通せない。
この医師は、俺の力の本質を理解している。そして、助けてくれるかもしれない。
俺は観念して、小さく頷いた。
「時間を……巻き戻しました。リナを守るために」
空気が凍りついた。
リナが息を呑む音が聞こえる。バルトは驚愕の表情で固まっている。時間が止まったかのように。
だが、バーネット医師は驚きに目を見開いた後、やがて全てを理解したように深く頷いた。
「やはりそうか……。古文書の記述が正しければ、その力には使用回数に限りがあるはずだ」
「限り……?」
◇
バーネット医師は革鞄から古ぼけた羊皮紙の束を取り出した。黄ばんだ紙には、見慣れない文字と図表が描かれている。古代語の文字が、インクの褪せた跡を残している。羊皮紙特有の獣臭と、古いインクの匂いが鼻をつく。
「これは私が十年かけて解読してきた、古代の医療記録だ。『観測者の病』。時間の理に逆らう力を使うたびに、術者の魂が削られるという症状が記されている」
彼は指で文字を辿りながら続けた。その指の動きが、宣告のように重い。
「何回まで使えるんですか?」
俺は単刀直入に聞いた。知りたくない答えかもしれないが、知らなければならない。喉が渇く。唇が震える。
バーネット医師は深刻な表情で羊皮紙を見つめ、それから俺を見据えた。
「古文書には『十度で魂の器は砕ける』とある。ただし、これはあくまで平均値だ」
彼は別の羊皮紙を開き、いくつかの事例を指差す。
「賢者エルドリンは十五回使った。精神力が極めて高く、魂の器が強靭だったからだ」
「それって……」
俺は息を呑んだ。
「俺も、同じように……」
「いや」
医師は首を横に振った。
「狂戦士グレイヴは三回目で精神が暴走し、自滅した。聖女ミラベルは七回使用したが、精霊の加護で辛うじて生き延びた。ただし代償として両目の視力と両腕の自由を永久に失った」
医師は眼鏡を外し、疲れた目を擦った。それから再び俺を見つめる。その視線が、容赦なく真実を突きつける。
「条件は違えど、原理は同じだ。個人差が非常に大きい。そして君の場合」
彼は俺の手の甲の痣を指差した。
「魂が若く、まだ未熟だ。一回目の使用で約15%、二回目で約20%消耗している。合計で35%だ。そして、この力の恐ろしいところは――使うたびに代償が加速度的に増えることだ」
「何回だ」
俺は声を震わせながら聞いた。拳を握る。爪が手のひらに食い込む。
静寂の中、バーネット医師は答えた。
「三回目は約25%、四回目は約30%の消耗が予測される。保守的に見積もって、あと三回から四回。楽観的に見ても五回が限界だろう」
息を呑む静寂が部屋を支配した。
五回。それが俺に残された猶予。
死ぬことではない。
死ぬことは、前世で一度経験した。それは怖くない。
怖いのは。
力を失ったあの瞬間、リナの悲鳴を聞きながら何もできない自分。倒れていく彼女を、ただ見ているだけの自分。
守れなくなること。
無力になること。
それが、何より恐ろしい。
リナが小さく嗚咽を漏らす。バルトは拳を握りしめ、唇を噛んでいる。
「ただし」と医師が重々しく続ける。
「三回目は約25%、四回目は約30%、五回目を使えば、残りの消耗と合わせて限界を超える。おそらく致命的な何かを失うだろう。視力、記憶、感情、身体の一部……何を失うかは分からない」
医師は俺の肩に手を置いた。その手は温かく、父親のような優しさがあった。ゴツゴツとした手。だが、温かい。
「体が教えてくれる。次が危険だと本能で感じたら、それが君の限界だ。絶対に、それ以上は使ってはいけない」
◇
バーネット医師が帰った後、部屋には言葉の失われた空間だけが残った。
リナはベッドの脇に座り込み、俺の手を握っていた。
何も言わない。ただ、小さな手が震えている。
「……ごめん、リナ」
俺は弱々しい声で呟いた。
「心配かけて……」
「違う」
リナは顔を上げた。涙の跡が残る頬。だが、もう泣いていない。
その瞳には、恐怖ではなく、決意の色が宿っていた。
「ユウは、私を守ってくれた。謝らないで」
その声は震えていたが、確かだった。俺の手を握る力が、わずかに強くなる。まるで、今度は自分が守ると誓うように。
バルトは窓際に立ち、外を眺めていた。その背中は、何かを深く考え込んでいるようだった。夕日が彼の輪郭を赤く染めている。
「小僧」
やがて彼は振り返り、真剣な表情で俺を見つめた。
「お前のその力……誰にも言わん。これは俺と、部下たちだけの秘密だ」
「……どうして?」
「王宮には、様々な思惑を持つ者がいる。お前の力を知れば、利用しようとする輩もいるだろう。だから、黙っておく」
バルトは拳を握りしめた。
「だが、約束してくれ。二度と、無理はするな。お前が死んだら、この子が……」
彼はリナを見た。
「一生、自分を責め続けるぞ」
その言葉が、深く突き刺さった。舌の奥が苦くなる。
「……分かりました」
嘘かもしれない。また使ってしまうかもしれない。
でも、今は、そう答えるしかなかった。
窓の外では、王都の夕日が街を赤く染めている。
俺に残された時間は、五回。
その重みを、ようやく実感し始めていた。
* * *
限界は、宣告された。
残された猶予は、五回のみ。




