第18話 封印の地へ
出発から四日目の朝。
丘を越えた先に、王都の巨大な城門が目前に迫っていた。
白い石壁は朝日を受けて眩いほどに輝き、その威容は圧倒的だった。高さは優に十メートルを超え、門の上には王国の紋章。双頭の鷲が刻まれた旗が風にはためいている。門の前には木造の検問所があり、入城を待つ商人や旅人の列が長く続いている。荷馬車、行商人、巡礼者。様々な人々が順番を待つ中、兵士たちが慎重に通行証を確認していた。
俺は馬車の中で身を起こそうとしたが、まだ体に力が入らない。
二日前から続く頭痛は少し和らいだものの、身体の芯には重い疲労が染み込んでいる。手の甲の灰色の痣は、朝日の下でくっきりとその輪郭を見せていた。触れると、ヒヤリと冷たい。
「ユウ、無理しないで」
リナが心配そうに肩を支えてくれる。彼女の手は小さく温かいが、その温もりすら重く感じるほど、俺の身体は消耗していた。
「もうすぐ王都だ。そうしたら医者に診てもらえる」
バルトが気遣わしげに声をかけてきた。彼の声には、昨日までの疑念よりも、純粋な心配の色が濃い。
◇
列がゆっくりと進み、馬車の車輪がきしむ音が規則的に響く。商人たちの雑談、馬のいななき、兵士の靴音。様々な音が混ざり合う中、ついに俺たちの番が来た。
門番の兵士が馬車を覗き込む。厳しい顔つきの中年男で、腰には長剣を下げている。
「どちらからお越しで?」
「東の隣町からだ。子供たちを王都まで護送している」
バルトが腰の袋から羊皮紙の通行証を取り出し、門番に手渡す。
門番は書類を念入りに確認し、それから俺とリナをじっと見つめた。値踏みするような、鋭い視線。
「この子供たちは?」
「隣町で魔物騒ぎがあった際、遭遇した子供たちだ。王都で詳しく話を聞くことになっている」
門番の表情が一変した。眉が跳ね上がり、驚きと警戒が混ざった表情になる。
「魔物騒ぎ……まさか、紫の魔物の件か?」
「ああ、そうだ」
その言葉を聞いた瞬間、周囲がざわめき始めた。
列に並んでいた商人たちが顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う。「紫の魔物だって」「あの子供たちが」「生き延びたのか」。不安と好奇心が入り混じった視線が、俺たちに集中する。
紫の魔物の噂は、王都にも届いているらしい。いや、むしろ王都の方が深刻に受け止めているのかもしれない。
「それなら、すぐに王宮へ。上からも通達が来ている。魔物に関する情報は最優先で報告するようにと」
門番は慌てたように道を開け、別の兵士に何か指示を出した。
◇
馬車が城門をくぐる。
巨大な石造りのアーチの下を通り抜ける瞬間。俺は奇妙な感覚に襲われた。
まるで、見えない境界線を越えたような。
空気の密度が変わり、肌に纏わりつくような重さを感じる。耳の奥で圧力が変化し、平衡感覚が一瞬揺らぐ。皮膚がざわめく。
そして、頭の奥で、微かに声が響いた。
『ようこそ、観測者よ。封印の地へ』
その声は、ロレンツォのものではない。
もっと古く、もっと深い何か。千年の時を経て響く、遠い遠い残響のような。まるで石に刻まれた記憶が語りかけてくるような。
理解より先に、戦慄が体を駆け抜けた。肌が粟立ち、呼吸が浅くなる。思わず身震いをする。
「ユウ? 顔色が……」
リナが不安そうに覗き込む。その瞳には心配の色が濃い。
「……なんでもない。ちょっと眩暈がしただけ」
だが、確信していた。
王都に入った瞬間から、俺たちを取り巻く運命の歯車が、確実に動き始めたのだと。そして、この街には、何か大きな秘密が眠っている。
◇
馬車は石畳の大通りをゆっくりと進む。
蹄鉄が石を打つ乾いた音が規則的に響き、車輪の軋む音が建物の壁に反響する。
両側には三階建ての石造りの建物が立ち並び、一階部分には商店や露店が軒を連ねている。パン屋からは焼きたてのパンの香ばしい香り、肉屋からは燻製の煙、薬草屋からはラベンダーの甘い匂い。様々な匂いが混ざり合い、活気に満ちた街の息吹を伝えていた。
街並みの規模は、村とは比べ物にならない。道幅は馬車が三台並んで通れるほど広く、行き交う人々の数も圧倒的だ。商人、職人、貴族らしき服装の人々、兵士。あらゆる階層の人間がこの通りを往来している。
「すごい……こんなに大きな街、初めて見た……」
リナが目を輝かせて窓の外を見つめる。その表情は純粋な驚きと喜びに満ちている。
だが俺の目は、別のものを捉えていた。
通りの角々に立つ衛兵。その数が異常に多い。
建物の窓から覗く不審な影。誰かが動きを監視している。
そして、遠くの塔の上に、黒いローブの何か。
人なのか、それとも別の存在なのか。
シルエットだけが見える。双眼鏡のようなものでこちらを観察している――ように見える。
監視されてる。それも、かなり厳重に。
王都は華やかな顔の裏に、ピリピリとした緊張を隠していた。
紫の魔物の脅威は、この巨大な都市にも深い影を落としているのだ。いや、むしろ王都こそが、何かの中心なのかもしれない。
「もうすぐ宿だ」
バルトが告げる。
「そこで一度休んでから、明日、王宮へ出頭することになる」
王宮。
そこで何が待っているのか。この力について何か分かるのか。それとも。
不安と期待が入り混じる中、馬車は大通りから一本外れた静かな通りに入り、『銀の鈴亭』という看板を掲げた三階建ての宿の前で止まった。石造りの立派な建物で、窓からは温かい灯りが漏れている。
◇
馬車から降りようとした瞬間、また激しい眩暈が襲いかかった。
視界が揺れ、膝から力が抜ける。思わず馬車の縁に手をついたが、その手すら震えていた。
リナが慌てて肩を支えてくれたが、足に力が入らない。全身が鉛のように重く、立っているだけで精一杯だ。
まずい。思ったより、ダメージが残ってる。
このままでは、王宮での聴取に耐えられるかどうか。いや、それ以前に、この宿までたどり着けるかも怪しい。
「大丈夫か、小僧」
バルトが俺の反対側の肩を支えてくれた。ごつごつとした、頼もしい手だ。ザラザラとした手。だが、温かい。
「すまない……」
「謝る必要はない。お前は頑張った。あとは休め」
二人に支えられながら、俺はなんとか宿の中へと足を踏み入れた。
木の床の温かみ、暖炉の火の匂い、料理の香り。全てが遠くに感じられる。
その時――。
暖炉の炎が、一瞬だけ紫に揺らめいた。
理解より先に、背筋が凍りつく。空気が止まる。息が詰まる。
だが瞬きをすると――もう普通のオレンジ色に戻っている。幻覚だったのか? いや、確かに見た。あの紫の光を。
意識が薄れそうになるのを、必死で堪えた。
不安と疲労を抱えたまま、俺たちは王都での第一夜を迎えることになった。
* * *
封印の地、王都。
謎の声が、運命の歯車を回し始める。




