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第17話 蝕まれる身体

 盗賊の襲撃から二日が経った。


 王都への道のりは残り二日。馬車の車輪が刻む単調なリズムが、鈍い頭痛と共に頭蓋に響く。


 俺の体調は確実に悪化していた。


 頭痛は途切れることなく続き、まるで頭の中で何かが軋んでいるような違和感がある。時折、視界の端がぼやけ、焦点が合わない。手の甲に浮かんだ灰色の痣は消えるどころか、じわじわと広がっている気がした。触れると、ヒヤリと冷たい。まるで氷が皮膚の下に埋め込まれているように。


 食事も喉を通らない。パンを一口齧っても胃が受け付けず、水だけでなんとか凌いでいる。喉の奥には常に鉄の味が残り、唾を飲み込むたびに吐き気が込み上げる。


「ユウ、本当に大丈夫? 顔色がすごく悪いよ」


 リナが何度も心配そうに覗き込んでくる。その瞳には不安の色が濃い。


「大丈夫だって。ただの疲れだよ」


 笑顔を作ろうとしたが、頬の筋肉がうまく動かない。こんな簡単なことすら、辛い。


 護衛の兵士たちも、俺の異変に気づき始めていた。


 特に隊長格の男。バルトという名の、傷だらけの顔に鋭い眼光を持つ老兵は、時折じっと俺を観察している。聞けば、彼は二十年以上も王国騎士団に所属し、数々の戦場を生き延びてきた歴戦の兵だという。


「小僧、お前……まさか毒でも受けたか?」


 昼の休憩の際、バルトが低い声で問いかけてきた。隣の若い兵士が馬に水を飲ませている間、彼は俺の隣にしゃがみ込む。


「いえ、そんなことは」

「しかし顔色が尋常じゃない。盗賊の刃に毒が塗ってあった可能性もある。傷はないか?」


 ごつごつとした手が、まるで自分の息子を心配する父親のように俺の額に触れる。ザラザラとした手。剣だこだらけの手。だが、温かい。


「本当に、大丈夫です」


 嘘をつく自分が嫌になる。舌の奥が苦くなる。


 だが、真実を言えるはずもない。時間を巻き戻す力を使って、魂が削られているなんて。


 バルトは眉を寄せたまま、腰の袋から干し肉を取り出して俺に差し出した。


「少しでいい、食っておけ。倒れられちゃ困る」


 その声には、厳しさの中に温かみがあった。きっと彼は、多くの若い兵士を育ててきたのだろう。


 その時、馬車が大きく揺れた。


 車輪が道の穴に嵌り、車体が激しく傾く。


 リナが投げ出されそうになる。


 反射的に手を伸ばして支えたが、その瞬間。激しい眩暈が襲いかかった。


 視界が一気に歪み、世界が斜めに傾く。耳鳴りが響き、平衡感覚が失われる。意識が闇の底へ引きずり込まれそうになる。まるで水の中に沈んでいくように。


 まずい。限界が、近い。


 二回の逆再生。


 たったそれだけで、俺の身体はもうボロボロだった。ロレンツォの警告は正しかった。この力は、確実に命を削っている。


 そして、次に使えば、もっと酷いことになる。それは本能的に理解できた。


「ユウ! ユウ!」


 リナの声が、遠く霞んで聞こえる。


 ◇


 気がつくと、馬車の床に倒れていた。


 硬い木の感触と、揺れる車体の振動。リナが俺の頭を膝に乗せ、必死に名前を呼んでいる。彼女の瞳には涙が浮かび、頬を伝って俺の顔に落ちてくる。温かい涙。震える手。


「よかった……目を覚ました……怖かったよ、ユウ……」

「……ごめん、心配かけて」


 身体を起こそうとしたが、腕に力が入らない。全身が鉛のように重い。


 バルトが水筒を差し出してくれた。革の匂いのする、使い込まれた水筒だ。


「無理をするな。王都まであと少しだ。そこで医者に診てもらえ」


 その言葉は優しかったが、瞳には疑念の色が濃く浮かんでいた。


 この子供は、何かを隠している。そして、それは尋常ではない。


 二十年の戦場経験が培った直感は、俺の異変が単なる病気ではないことを告げているのだろう。バルトの直感は正しい。だが、俺には何も言えなかった。


 ◇


 夕暮れ。


 街道沿いの小さな泉のほとりで、一行は野営の準備を整えた。兵士たちが手慣れた様子でテントを張り、焚き火を起こす。赤々と燃える炎が、薄闇に包まれ始めた森を照らし出す。薪の爆ぜる音が、静かな夕刻の空気に響く。煙の匂い。焼けた木の匂い。


 俺は馬車の中で横になっていた。


 リナはずっと隣にいて、泉の水で冷やした布で額を拭ってくれている。冷たい布の感触が心地いい。外からは兵士たちの低い会話と、湯を沸かす鍋の音が聞こえる。


「ねえ、ユウ」


 彼女が小さく呟いた。


「私のせい? 私を守ろうとして、無理したの?」


 胸が締め付けられる。心臓を素手で握られているように。


 本当のことは言えない。でも、彼女を不安にさせたくもない。


「違うよ。ただ、旅の疲れが出ただけ」

「嘘」


 リナの声は震えていた。


 顔を上げると、彼女は真っ直ぐ俺を見つめている。


「ユウは最近、ずっと無理してる。私には分かる。何か……大きなものを背負ってる。あの盗賊の時も、あの魔狼の時も……」


 言葉が詰まる。喉の奥で何かが引っかかる。


 彼女の直感は、恐ろしいほど鋭い。全てを理解しているわけではないが、何かが起きていることは感じ取っている。


「でもね」


 リナは俺の手を両手で包んだ。その手は小さく、温かい。


「無理しないで。私、ユウが倒れる方がずっと怖い。守られるより、一緒にいる方が大事だから」


 その言葉に、胸が熱くなる。涙が出そうになった。


 でも、次にリナが危険に晒されたら、俺はきっとまた力を使う。


 それが分かっているから、余計に苦しい。


 彼女の優しさが、かえって胸を抉る。


「……ありがとう、リナ」


 それしか言えなかった。


 ◇


 夜。


 焚き火の炎は弱まり、赤い熾火だけが残っている。時折風が吹くと、灰が舞い上がり、火の粉が暗闇に消えていく。見上げれば、天頂には無数の星が瞬いていた。天の川が、まるで白い帯のように夜空を横切っている。


 兵士たちは交代で見張りに立ち、残りは毛布にくるまって眠っている。バルトの低いいびきが、静かな夜に規則的に響く。


 俺は馬車の入り口に腰を下ろし、一人考えていた。


 リナは疲れて眠っている。毛布の中から聞こえる穏やかな寝息が、唯一の救いだった。


 王都に着いたら、この力について調べなければ。


 制御する方法か、あるいは、封印する方法を。


 でなければ、俺は本当に壊れてしまう。


 そしてそれは、リナを悲しませることになる。


 手の甲の灰色の痣を見つめる。月明かりの下で、その輪郭がはっきりと浮かび上がる。これは、力の使用回数を刻む刻印なのかもしれない。次に使えば、もっと広がるだろう。そして、いつか俺の全身を覆い尽くすのかもしれない。冷たい痣。死の刻印。


 遠くで夜鳥が鳴いた。その声が森の闇に吸い込まれていく。


 星空を見上げながら、俺は小さく誓った。


「必ず……答えを見つける」


 それが、今の俺にできる唯一の希望だった。


* * *


身体は蝕まれ、嘘は重なる。

それでも、彼女を守り続ける。


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