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第16話 旅路の試練

 隣町から村に帰ってきて、三日が過ぎた。


 平穏な日常が戻るかと思われた矢先、村長から思いがけない知らせが届いた。


「王都から使者が来ておる。村の代表として、お前たち二人を王都に招きたいとのことだ」


 村長の家に呼ばれた俺とリナは、困惑した顔で顔を見合わせた。


「王都……ですか?」

「ああ。最近、各地で魔物の凶暴化が報告されておる。王都では対策会議が開かれるそうじゃ。そこで、実際に魔狼と遭遇した者の証言が欲しいとのことでな」


 村長は一呼吸置いて、続けた。


「それと……王都の魔導士団が、"時間に関する異変"を調べておるらしい。各地で時の流れが乱れる現象が起きておるとか。お前たちの証言が、何か手がかりになるかもしれんとのことじゃ」


 時間に関する異変。その言葉に、背筋が凍る。まさか、俺の力が原因なのか?


 魔狼。あの紫に光る魔物。


 俺とリナが隣町への道中で遭遇した、あの恐ろしい存在。


「だが、子供だけで王都まで行かせるわけにはいかん。護衛付きの馬車を手配してある。明日の朝、出発じゃ」


 こうして俺たちは、突然王都へ向かうことになった。


 ◇


 出発の朝。


 エルナさんが荷物を詰めながら、何度も心配そうに俺たちを見る。その手が震えている。まるで子供を戦場に送り出す母親のように。


「本当に大丈夫なの? 王都なんて遠いのよ」

「大丈夫です。護衛もいますし」


 そう答えながらも、胸の奥には不安が渦巻いていた。


 ロレンツォの言葉が脳裏をよぎる。


『王都でまた会うことになるだろう』


 あの男は、これを予見していたのか?


「ユウ、リナ。気をつけるんだぞ」


 グランさんが短く、だが温かい言葉をかけてくれた。その大きな手が、俺の肩を握る。ゴツゴツとした手。職人の手。


「はい!」


 俺とリナは馬車に乗り込んだ。護衛の兵士が二人、馬の手綱を取る。


 馬車が動き出し、村が遠ざかっていく。


 王都への道のりは長い。四日はかかるという。


 リナは窓から身を乗り出し、手を振るエルナさんたちに別れを告げていた。だが俺は、ロレンツォの言葉が頭から離れなかった。


 この旅の先に、何が待っているのか。


 ◇


 出発から二日目の昼過ぎ。


 街道は深い森の中へと続いていた。木漏れ日が馬車の屋根を叩き、鳥のさえずりが響く。湿った土の匂い。木々の葉擦れの音。森が生きているような、濃密な空気。


 リナは最初こそ緊張していたが、今は窓の外の景色に夢中だ。


「ねえユウ、あの花すごく綺麗!」

「ああ、そうだな」


 平和な光景のはずなのに、俺の胸騒ぎは収まらない。


 ロレンツォの警告。力の代償。そして、リナに及ぶかもしれない危険。


「止まれ!」


 突然、御者が手綱を引いた。馬車が急停止し、身体が前に投げ出されそうになる。


 前方の道に、倒木が横たわっている。


「自然に倒れたにしては、切り口が新しいな」


 護衛の兵士が剣に手をかけながら呟く。その声に緊張が滲む。


 その瞬間、俺の頭に鋭い痛みが走った。皮膚がざわめく。空気が変わる。


 来る。何かが来る。


「伏せろ!」


 叫ぶと同時に、矢が風を切って飛んできた。


 馬車の横板に突き刺さり、木片が飛び散る。ドスッという鈍い音。振動が身体に響く。


「盗賊だ!」

「護衛陣形!」


 茂みから黒装束の男たちが飛び出してくる。


 手には剣や棍棒。明らかに素人の追い剥ぎではない。足音が統制されている。動きに無駄がない。訓練された殺し屋たち。


「リナ、馬車の中に!」


 俺は彼女を押し込み、自分も続こうとした。


 だがその時、一人の盗賊が護衛の隙を突いて、馬車に飛びかかってきた。


 リナの悲鳴。


 男の剣が振り下ろされる。


 リナが倒れる未来が、はっきりと見えた。血が飛び散る。小さな身体が地面に崩れ落ちる。光が消える。


 使うな。一回目より確実に重い代償が来る。


 頭では分かっている。


 だが、選択肢はない。身体は勝手に動いていた。


「――巻き戻れ!」


 時間が逆流する。一秒だけ。


 だが、その代償は想像を超えていた。


 脳を焼かれるような激痛。頭蓋骨の内側が沸騰する。


 一回目の三倍。いや、それ以上だ。


 世界から音が消えた。


 完全な無音。鳥のさえずりも、馬のいななきも、剣戟の音も、何もかもが消える。耳が聞こえないのではない。音そのものが存在しなくなったような、恐ろしい静寂。


 次の瞬間、時間が泡のように弾けた。視界の端で現実が揺らぎ、過去と現在の境界が曖昧になる。自分がいつの時間軸にいるのか分からなくなる。


 そして激痛が戻ってくる。


 鼻から血が溢れ、止まらない。耳からも血が滲む。視界が赤く染まる。口の中が鉄の味で満たされる。


 二回目でこれか。


 体が震える。立っていることさえ辛い。膝が笑う。意識が途切れそうになる。


 医師の予測が正しければ、あと八回。


 だが俺の体感では。


 五回か、六回が限界だ。


 魂が軋む音が聞こえる気がした。まるで古い木材がゆっくりと折れていくような、不吉な音。


 だが、その一秒で十分だった。


 護衛の兵士が駆けつけ、盗賊を斬り伏せる。


「大丈夫か、子供たち!」

「は、はい……」


 リナが震えながら答える。


 彼女は俺の異変に気づいていない。ほんの一瞬の出来事だったから。


 だが、俺の鼻から血が流れ続けていた。


 慌てて袖で拭うが、止まる気配がない。手の甲に奇妙な痣が浮かんでいることに気づく。


 まるで灰色のインクを落としたような、小さな染み。それは皮膚の内側に焼き付いたように、擦っても消えなかった。触れると、ヒヤリと冷たい。まるで死の刻印のように。


 全身からの脱力感。まるで血を半分抜かれたような虚脱。


 このままでは、本当に身体が持たない。


 でも、リナを守るためなら。


「ユウ、怪我してる!」


 血を見つけたリナが青ざめる。その顔から血の気が引く。


「大丈夫、かすり傷だ」


 嘘をつく自分が嫌になる。舌の奥が苦くなる。


「でも……」


 リナの目に涙が浮かぶ。


「ユウ、また無理したんでしょ? あの時みたいに……」


 気づいている。完全には理解していなくても、リナは俺が何かをしたことを感じ取っている。


「……ごめん」


 それしか言えなかった。


 護衛たちが盗賊を追い払い、道は再び開けた。


 馬車が動き出す中、リナは俺の手をぎゅっと握った。小さく、温かい手。だが、その温もりが今は重い。


「約束、したよね。無理はしないでって」


 その言葉が、胸に突き刺さる。三日前、小川のほとりで交わした約束。だが、守れなかった。


「……もう、しないから」


 また嘘をついた。リナを守るためなら、何度でも使ってしまうだろう。


 窓の外を流れる森の景色を見ながら、俺は小さく呟いた。


「……三回目は、もっと酷いんだろうな」


 その予感は、不吉なほど確かなものだった。リナの手の温もりが、罪悪感と共に胸を満たしていく。手の甲の灰色の痣が、まるで死へのカウントダウンのように、じわりと疼いた。


* * *


二度目の代償。痣が刻まれる。

約束を破り、嘘を重ねる。


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