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第12話 再び、時は逆を刻む

 ――飛びかかってくる魔狼。


 投げた石は外れた。地面に転がる音だけが響く。

 紫に光る魔狼まろうの瞳が闇の底から俺を射抜く。じりじりと詰め寄る足音のたび、地面が軋み、心臓が警鐘のように鳴り響いた。


「ユウ……」


 袖を握るリナの指がかすかに震えている。


 逃げたい。だが背を向けた瞬間、喉笛を裂かれるだろう。息を呑んだ刹那、咆哮が闇を裂き、巨体が再び弾丸のように飛びかかってきた。


「――っ!」


 足が地面に縫い付けられたように動かない。迫る死の影に、思考が停止する。


「いやっ!」


 リナが俺を突き飛ばし、代わりに前へ飛び出す。


 鋭い爪が小さな身体を貫いた。肉が裂ける音と、骨が砕ける音が同時に響き、視界が真紅に染まる。


 胸から血が噴き出し、リナの身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。地面に広がる血溜まり。白い肌が紅く染まっていく。


「リナぁぁぁっ!!」


 駆け寄った俺の腕の中で、彼女の瞳から光が消えていく。開いた唇から血の泡が滲み、震える指先が力を失い、だらりと垂れ下がる。


 その光景がスローモーションのように脳に焼き付いた。音も温度も失われる。世界が凍りつく。心臓が止まったように感じる。息ができない。意識が薄れていく。違う。これは意識の喪失ではない。存在そのものが消えていく感覚だ。


 ――違う。こんなのは認めない。俺が求めた未来はこんな終わりじゃない!


(戻れ……! 時間を……戻せぇっ!!)


 否定の意志から生まれた絶叫が喉を突き破る。


 その瞬間――世界が悲鳴を上げた。


 現実そのものが軋む。まるで巨大な歯車が逆回転を始めたように、空気が震え、大地が呻き、時間の流れが停止する。


 俺の身体が引き裂かれるような痛み。視界が歪み、平衡感覚が失われる。


 それだけではない。舌に鉄の味が広がる。口の中が血の味で満たされる。皮膚が内側から引っ張られる感覚。骨が軋む。内臓が捻じれる。


 ――静寂。


 世界が息を止めた。


 次の瞬間、自分の身体が裏返しになっていくような恐怖が襲う。風景がガラスのように砕け、無数の破片となって宙を舞う。そして――全てが逆流し始めた。


 地面に広がった血溜まりが生き物のように蠢く。血が重力を無視して空中へ舞い上がる。リナの身体から糸のように伸びた血が傷口へ吸い込まれていく。裂けた肉が繋がり、砕けた骨が元の形に戻る。爪の軌跡は消え、魔狼の跳躍が巻き戻され、巨体が宙へと引き戻されていく。


 俺の鼻から血が噴き出す。目の奥が焼けるように痛い。頭蓋骨の内側を針で刺されているような激痛。意識が途切れそうになる。だが、離さない。この力を。この時間を。


 ――そして。


「え……ユウ?」


 リナは無傷のまま俺の背後に立っていた。目の前では、魔狼が再び飛びかかる「直前」の姿勢で空気を裂いている。


「……時間が……戻った……」


 自分の声が震えていた。


 リナを救った直後、俺は地面に膝をついた。頭が割れそうに痛い。こめかみを押さえると、指に血がついた。


「これが……一回目、か」


 痛みは激しいが、まだ耐えられる。


「あと何度、使える……? 九回……いや、それ以下かもしれない」


 分からない。ただ、次はもっと重い代償を払うだろう。それだけは本能的に理解できた。


 だが、そんなことはどうでもよかった。リナは生きている。


「リナ、右に! 三歩下がれ!」

「えっ……わ、分かった!」


 リナが跳んだ瞬間、魔狼の爪は空を切り、巨体が体勢を崩す。


「今だっ!」


 俺は地面の石を掴み、渾身の力で紫の瞳へと投げつけた。


 石が魔狼の目に命中し、鈍い衝撃音が響く。魔狼が悲鳴を上げる。顔を押さえながら後退するその瞳に、一瞬、人間のような嘲りの色が浮かんだ。まるで「次はない」と告げるように。そして俺を忌々しげに睨みつけたまま、森の奥へと消えていった。


 緊張の糸が切れ、俺はその場に膝をついた。駆け寄ったリナが必死に俺を覗き込む。


「ユウ……今の……なに? どうして……」


 答えられない。彼女を救えたという安堵と、世界の理を歪めたという罪悪感がせめぎ合い、言葉にならなかった。


 ただ震える手を見つめる。この手が、死んだはずの命を、時間を、巻き戻したのだ。


 頭痛がゆっくりと引いていく。鼻血も止まった。まだ余裕がある。


 荒い呼吸の合間に、リナの声が震える。


「ユウ……いったい、何をしたの?」


 その瞳は怯えでも好奇心でもなく、ただ必死に真実を求めていた。俺は答えようと口を開く。だが喉が詰まり、声が出ない。


 もし真実を告げれば。「時間を巻き戻した」と口にすれば。彼女の目に何が映るだろう。恐怖か。嫌悪か。拒絶か。その可能性を想像するだけで、胸の奥が締め付けられる。心臓が凍りつく。彼女を失う恐怖――それは、魔狼よりも遥かに恐ろしい。


「……俺にも、よく分からない。ただ……リナを失いたくないって思ったら、気づいたら……」


 苦し紛れの答えを絞り出す。リナはしばらく黙って俺を見つめていた。


 やがて――ふっと微笑む。


「……ありがと。理由なんてどうでもいいよ。私、助けてくれたんだもん」


 震える手が俺の手を包む。その温もりが確かに彼女が生きていることを伝えていた。


 その瞬間――彼女の手からふわりと温かい光が流れ込んできた。力の代償で軋んでいた身体がほんの少しだけ軽くなる。


「え……?」


 俺が驚くと、リナは不思議そうに首をかしげた。「どうしたの?」彼女自身は何が起きたか気づいていないようだった。


「……いや。なんでもない」


(今の光は……リナの力? だとしたら、なんて温かい……)


 待て。冷静に考えろ。

 因果反転結晶炉の事故。あの時、俺は時空構造の崩壊に巻き込まれた。紫の光の中で、時間の流れそのものが逆転した。そして今――俺は同じことを再現した。意識的に。


 死の間際の紫の光。祭りの夜に見た紫の影。そして今、魔狼の紫の目。

 すべて繋がっている。時間の歪み。因果の反転。エントロピーの逆行。


(この力の根源は、あの事故にある。俺の身体が"因果反転"のテンプレートになっているのか……? だとしたら、代償は――エネルギー保存則に従えば、俺自身の生命エネルギーを消費している可能性が高い)


 物理学者としての思考が、恐怖に呑まれそうな心を支える。

 だが――それでも。リナを救えたなら。


「でもね、ユウ……」


 リナは少し真剣な顔に戻り、俺を見つめた。


「無理はしないで。今のユウ、すごく苦しそうだったから」


 彼女の純粋な心配が罪悪感となって突き刺さる。


「……ごめん」


 小さく呟くと、リナは首を横に振った。


「謝らないで。私、ユウを信じてるから」


 その一言が乾いた心に染み渡る。秘密を抱えたままの自分をそれでも信じてくれる。だからこそ、いつか必ず、この力の全てを打ち明けなければならない。


 彼女の手を強く握り返し、俺は静かに誓った。


* * *


巻き戻る夜。

命を救い、魂を削る。


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