第11話 村の外へ
ロレンツォから衝撃の事実を聞かされた夜以来、俺の心は晴れない霧に覆われていた。
村の日常は相変わらず穏やかで、リナは何も知らずに遊びに誘ってくれる。その笑顔を見るたびに、俺の胸は罪悪感にも似た痛みで軋んだ。
この村に眠る「封印」。
俺とリナが、その渦の中心にいるという言葉。
いつかこの平穏が壊れる日が来る――その予感が鉛のように重くのしかかっていた。
ロレンツォはあの日以来、俺に接触してくることはなかったが、村に留まり、静かに何かを監視しているように見えた。
だが数日前から、荷馬車の姿を見かけないことも増えた。近隣の村々を回っているのか――それとも、井戸の下に眠る何かを追っているのか。
そんなある日、村の長老がリナの家を訪れた。
用件は、俺とリナへの依頼だった。
「隣町まで、薬草を届けてくれんかのう?」
長老によると、隣町に住む妹が病に伏せており、この村でしか採れない貴重な薬草を届けてほしいという。
本来なら大人の仕事だが、収穫の後片付けで村の男手は皆忙しく、手が空いているのは俺たちしかいないとのことだった。
「隣町まで……ですか?」
エルナさんが心配そうに眉をひそめる。その表情には、子を送り出す母親の不安が滲んでいた。
「大丈夫じゃよ。道は一本道じゃし、魔物が出る場所でもない。この子たちなら立派に役目を果たせるじゃろう」
「でも……」
「エルナ」
台所から出てきたグランさんが、優しく妻の肩に手を置いた。
「子供たちを信じてやろう。ユウもリナも、もうあの時の小さな子じゃない」
ゴブリン事件での働きが評価されているのだろう。だが、それ以上に――俺たちの成長を認めてくれているのだと、その言葉から伝わってきた。
「私、行く! おばあちゃんの妹さん、困ってるんでしょ?」
リナが真っ先に手を挙げる。
俺は一瞬ためらった。村の外に出るのは初めてだ。
だが、長老の期待を込めた眼差しと、リナのやる気に満ちた横顔を見ていると、断れなかった。
「……俺も行きます」
そう答えると、長老は満足そうに頷いた。
こうして俺とリナは、初めて二人だけで村の外へ「おつかい」に出ることになった。
出発の朝、エルナさんは早くから台所に立っていた。
「これ、お弁当。お昼になったら二人で食べなさい」
温かい手が、丁寧に包まれた弁当を俺の手に押し付ける。その手は少し震えていた。
「それと、これも」
グランさんが小さな袋を差し出す。「道中で何かあった時のために」中には薬草と包帯。そして、小さな木彫りの護符が入っていた。
「グランさん……」
「子供扱いするなと怒るかと思ったが」グランさんは少し照れたように笑う。「親というのは、心配するのが仕事でな」
親――その言葉が、胸に温かく響いた。
長老から預かった薬草の包みを大事に抱え、リュックに荷物を詰める。
子供の足で半日もあれば着く、ささやかな旅。
だが俺にとっては、未知の世界への第一歩――小さな冒険だった。
「それじゃあ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい。気をつけるのよ」
エルナさんの目が少し潤んでいた。グランさんが、そっと妻の肩を抱く。
村人たちに見送られ、俺たちは村の門をくぐる。
いつも内側から見上げていた門を外から振り返った瞬間、世界が一気に広がったように感じた。
どこまでも続く緑の草原。
緩やかな丘を越えると、眼下には隣町へと続く一本道。
村の中とは違う、乾いた風が頬を撫でる。
「わーい! 冒険だ、冒険だ!」
リナは解放感からスキップしながら道を駆けていく。
「おい、あんまり飛ばすなよ。着く前にバテるぞ」
「だーいじょうぶ! ユウも早く!」
その時、俺は改めて気づいた。
リナの動きが――やはり普通じゃない。
ゴブリンから逃げた時も感じた違和感。あの時は考えないようにしていたが、今こうして開けた場所で見ると、より鮮明にわかる。
スキップしているだけのはずなのに、まるで地面を蹴るたびに体が浮き上がるような、不思議な軽やかさがある。
重力を半分しか受けていないような動き。訓練された兵士のような――いや、それ以上の身体能力。
「リナ、今の動き……なんか、すごく軽いな」
俺が言うと、リナはきょとんとした顔で首をかしげた。
「え? そうかな……小さい頃から体が軽いの。お母さんは『精霊の血のおかげ』って言ってたけど」
精霊の血。
俺はリナの動きを観察した。確かに、普通の子供とは明らかに違う。彼女自身は無自覚だが、その身体には何か特別な力が宿っている。
まるで風の精霊に背中を押されているような、そんな身軽さ。
(やはり……これも、精霊の力の一部なのか)
その無邪気な姿に、胸を覆っていた霧が少し晴れていく気がした。
ロレンツォの言葉も、封印のことも――今は忘れよう。
今はただ、この冒険を楽しみたい。
道中、俺たちはさまざまな発見をした。
見たこともない形の花、不思議な鳴き声の鳥、七色に光るトカゲ。
リナはそのたび「見て、ユウ!」と歓声を上げ、俺は前世の知識を引っ張り出しては、知ったかぶりの解説をする。
そんなやり取りが、ただただ楽しかった。
昼になり、見晴らしの良い丘で弁当を広げる。
エルナさんが作ってくれたサンドイッチは、汗をかいた体に染み渡るように美味しかった。
「外で食べると、もっと美味しいね!」
「ああ、そうだな」
二人で並んで遠くに見える隣町を眺める。
その街には、どんな人がいて、どんな暮らしがあるのだろう。
空っぽだった俺の心は、この世界に来てから少しずつ満たされてきている。
リナとの出会い、村人たちの温かさ、そして広がる世界の景色。
そのすべてが、俺にとってかけがえのない宝物になりつつあった。
この時間が、ずっと続けばいい――そう、柄にもなく願ってしまった。
だが穏やかな時間は、唐突に終わりを告げる。
弁当を食べ終え、再び歩き始めたとき。森と草原の境界で、それは現れた。
「グルルル……」
理解より先に、空気が凍りついた。
道の真ん中に、一匹の大きな狼が立ちはだかる。
普通の狼ではない。体長は二メートルを超え、紫色の目が爛々と光っていた。
魔物――。
ゴブリンとは比べものにならない、格の違う存在。
「……っ!」
リナが息をのむ。
狼は俺たちを獲物と定めたように、喉を鳴らしながらゆっくりと距離を詰めてくる。
逃げ道はない。
俺たちの初めての冒険は、最悪の形で行く手を阻まれようとしていた。
だが――ここで終わらせるわけにはいかない。守りたいものがあるのなら、立ち向かうしかない。
懐からロレンツォに貰ったコンパスを取り出す。その針が、狂ったように回転している。
(やはり……紫色の目。あの夜の影と同じだ。これも、時間の歪みと関係している……?)
俺は地面の石を拾い、構える。リナも身構えた。
その時、前世の研究所の光景がフラッシュバックする。因果反転結晶炉の紫の光。時空構造の崩壊。
――まさか、あの事故の影響が、この狼にも?
「ユウ、危ない!」
リナの叫び。
狼が地を蹴り、巨体が弾丸のように飛びかかってきた。




