第10話 旅商人の本音
盗難事件が解決し、村には再び平穏な日常が戻っていた。
村人たちの俺への接し方は、以前よりもさらに温かいものになっている。もう「森で拾われた記憶喪失の子」ではなく、「村を救った小さな英雄」として見られているのが、少し照れくさかった。
一件落着を見届けた旅商人ロレンツォは、すぐに村を立ち去るかと思いきや、なぜかまだ村の入り口に荷物を広げ、のんびり商売を続けていた。
「おい、ユウ。あの旅商人、まだいるぞ」
村の子供と遊んでいた俺に、仲間の一人が耳打ちする。
ロレンツォは異国の飴玉を子供たちに配りながら、時折鋭い目つきで村の様子を探っていた。
やはり、ただの商人ではない。
俺は警戒しつつ、遠巻きに彼の動向を見守っていた。
その夜更け。
喉の渇きで目を覚ました俺は、水を飲みに階下へ降りた。家の中は静まり返り、リナもエルナさんたちも眠っている。
水を一杯飲み干し、部屋に戻ろうとしたとき、窓の外で人影が動くのが見えた。
こんな時間に誰だ?
好奇心に駆られ、音を立てないよう玄関を開け、外を覗く。
そこにいたのはロレンツォだった。
月光を背に、影だけがゆらめいていた。まるで闇そのものが人の形を取っているかのように。
昼間の陽気な旅商人とは別人のような険しい顔で、村の中心にある古い井戸の前に立っている。
そして懐から取り出した奇妙な羅針盤のような道具を井戸にかざしていた。月光がその表面を照らし、針の周囲には見たことのない古代文字――幾何学的な刻印が浮かび上がる。第6話で貰ったコンパスと、よく似た文様だ。針は井戸の真下を指し、小刻みに震えている。
「……間違いない。この村の地下深くに、強大な“時の歪み”の源流が眠っている。古代の文献にあった“封印”とは、これのことか」
ロレンツォの独り言が夜に溶ける。
意味は分からないが、彼の目的がこの村の“何か”であることだけははっきりした。
息を殺して見守っていた俺だが、運悪く足元の小枝を踏んでしまい、パキリと音が響く。
「――誰だ!」
鋭く振り返るロレンツォ。昼間の彼とは比べものにならないほど鋭い眼光だった。
俺は咄嗟に身を隠したが、時すでに遅し。
ロレンツォは正確に俺の隠れ場所へ歩み寄り、ため息をつく。
「……やれやれ、坊主だったか。子供は早く寝るものだぞ」
彼はいつもの胡散臭い笑顔に戻ったが、その目は笑っていなかった。
「……何してるんだ、こんな夜中に」
俺は警戒を隠さずに尋ねる。
「君こそ。大人の秘密を探るのは、感心しないな」
ごまかされるものか。俺はまっすぐ彼を見据えた。
「あんた、ただの旅商人じゃないだろ。封印がどうとか言ってた。この村に何があるんだ?」
ロレンツォはしばらく黙っていたが、やがて観念したように肩をすくめた。
「……分かった。少しだけ話してやろう。俺は旅商人であると同時に、王都の命を受けて動く密偵でもある」
「密偵……?」
「そうだ。任務は、この国で頻発している“時空の歪み”の原因を調査すること。そして、その歪みを利用しようとする危険な連中の動向を探ることだ」
ロレンツォによれば、この世界では近年、原因不明の異常現象――時間が飛んだり、過去の幻影が見えたりといった「時空の歪み」が各地で観測されているらしい。
そして王国の諜報機関は、その原因の一つが、この辺境の村に古くから存在する“何か”だと突き止めたのだという。
「この村には、世界の時間の流れを乱しかねない、強大なものが封印されている。俺はそれを確かめるために来た」
ロレンツォは俺をじっと見据えた。
「そしてもう一つ。君のことだ、ユウ坊主」
「……俺?」
「君があのゴブリンを倒したとき、俺は見ていた。君の周りだけ、一瞬、時間の流れが揺らいだのを。君は何者だ? なぜ子供の身で、時を操るような力を……?」
理解より先に、背筋が凍る。
――気づかれていた。俺のこの得体の知れない力に。
何も答えられない俺を見て、ロレンツォもそれ以上は追及しなかった。ただ、静かに告げる。
「今はまだ、君が何者かは問わない。だが覚えておけ。この村の平穏は水面に浮かぶ木の葉のようなものだ。その下には巨大な渦が巻いている」
「……」
「君や、あの祈りの力を持つお嬢ちゃんは……好むと好まざるとにかかわらず、その渦の中心にいる」
彼はそこで言葉を切り、氷のように冷たい瞳で俺を見据えた。
「そして、渦に飲まれずに生き残れるのは、いつの時代も『強い者』だけだ。君がどちら側か、じっくり見極めさせてもらうよ」
そう言い残し、ロレンツォは羅針盤を懐にしまい、闇の中へ消えていった。
数歩進んだ彼が、闇の中で一度だけこちらを振り返る。その顔は月光に隠れて見えなかったが、視線だけが鋭く俺を射抜いていた。
それは警告なのか、期待なのか――判別できないまま、影は完全に消えた。
俺は、その場に立ち尽くすしかなかった。
村に封印された何か。俺の謎の力。リナの特別な血筋。そして、王都の密偵――。
その時、胸の奥で何かが脈打った。
井戸の下に眠るという"時の歪み"の源流。そして、俺の中に宿る時を巻き戻す力。まるで同じ旋律を奏でる二つの音叉のように、俺の中の何かが、確かに呼応していた。
バラバラだった点と点が、少しずつ線で結ばれていく。
それは俺が望んだ平穏な日常とは、あまりにもかけ離れた、巨大で不吉な絵の輪郭だった。
俺たちは知らず知らずのうちに、大きな物語に巻き込まれ始めている。
その渦から、もう逃れられない――そんな予感が、夜の冷気となって肌を突き刺した。
だが――逃れられないのなら、立ち向かうしかない。渦の中心に何が待っていようとも。




