二.『影の子』(上)
食堂のテエブルで想日さまと向かいあって食事をするのはどこか奇妙な経験でした。
壁には暖炉、天井には舶来ものの玻璃燈。なのに白い布がかけられたテーブルに置かれたのは立派な『御膳』なのです。
洋間に白米とお味噌汁の取りあわせに影依が目を丸くしていると、きらいなものでもあったかな、と想日さまがおっしゃいました。
「いえ、ナイフとフォオクのご飯ではなくてよかったと思いまして」
影依はごまかしましたが、あとになってからそれもほんとうだったと気がつきました。箸なら使えますが、ナイフもフォオクも影依は持ったことさえありません。
食事が終わると想日さまは薔薇のお世話にもどられるとのことでした。
「影依さんは好きにこの家を見てまわってください。案内がいるならお縫さんに頼むから」
お縫さん、というのが先程影依に着物を着せてくれた女中の名前なのでした。「では、旦那さまのおそばにいます」と影依は答えます。
「そばにいてもつまらないと思うけれど……」
「旦那さまを見ていたいのです」
影依がそう云ったとき、想日さまの顔によぎったものはなんだったのでしょうか。
痛み──それとも──罪悪感。
すぐに想日さまは表情を取りつくろい、「じゃあ、きょうはいつもより張りきって仕事をしよう」と微笑まれました。
前庭の薔薇は四季咲きで通年を通して咲くといいます。
大振りな白い花をつける春曙光。濃い紅色が婀娜っぽい花車。酔ってしまいそうなほど芳醇な香りを持つ天國香……。
その中に想日さまが生みだした薔薇がありました。
名を『伽羅枕』。つんと鼻を刺すような香りと芸者のように粋な大輪の八重咲が特徴の紅薔薇です。
影依は言葉もなく見とれていました。
ようやく口が動くようになりましたが、でてきたのは「もしくださるのならこの薔薇が……ああ、でもまだぜんぶを見てない……」というじれったい言葉でした。
「すぐ決めてほしいなんて云わないから、ゆっくり悩んで」
「──はい。ゆっくり悩みます」
すこし離れたところで影依は想日さまがしおれかけた花の枝を切っていくところを見守りました。
まだ咲いている花を落としていくのは残酷なようにも思えましたが、「いまのうちに切ると株も消耗しないし、ここから芽がでてまた花が咲くんだ」と教えられて納得しました。真に薔薇のことを想うが故の措置なのです。
そのうちただ見ているだけなのが申しわけなくなり、なにか手伝えることはないかと影依は薔薇の垣根のまえに立ちました。あ、と手を伸ばします。
「旦那さま。この花はいかがですか?」
「え──」
影依の手を避けようと想日さまが左手を動かしたのと、しゃきん、と鋏が刃を閉じたのがほぼ同時でした。刃先は想日さまの左手の人差し指をかすめ、血が軍手ににじんでゆきます。
影依は真っ青になりました。
「ごめんなさい! わたし、」
「いや、いまのはぼくの不注意で……」
「《《わたしがすぐもらいますから》》」
影依は想日さまの手を取り、怪我をした人差し指と自分の人差し指をくっつけました。
ぽかんとしている想日さまのすぐ隣で、「想日さま、想日さま。あなたの傷を私にください」とおまじないを唱えます。
影依の人差し指に切り傷ができ、かわりに想日さまの傷がふさがりました。
影依は想日さまに笑いかけます。
「お怪我やご病気をされたときはすぐに教えてくださいね。影依がもらいます」
想日さまは軍手を取り、傷がなくなった自分の指と影依の指を見比べました。信じがたいように。
「きみは──いま、なにを……」
それからはっとしたように、「手当てを!」と叫びました。影依の肩を抱いて洋館に走りだします。
「これくらいならへいきですよ?」と影依は彼になんとかついていきながら云いました。
「わたしは慣れていますから」
「なにを云っているんだ。化膿でもしたら大事だぞ」
想日さまは近くの使用人に薬箱を持ってこさせ、大広間の片隅にあるソファに影依を座らせると、自分の手で影依の傷の処置に当たりました。
ぐるぐる巻かれた包帯が彼の心配をそのまま表しているようで、ほんとうにへいきなのに、とかえって影依は困ってしまいます。
きみは、と床に膝をついたまま想日さまがつぶやきました。
「よくだれかの傷をもらうの?」
「はい、そうです。おねえさまが擦り傷をこしらえたときはすぐに影依が傷を引きとりましたし、お風邪を召されたときもかならず影依がもらいました。おかあさま、おとうさまのものももらったことがあります。朽縄家はわたしのおかげで医者いらずなのですよ」
影依が自慢すると想日さまは険しい表情をしました。
なぜでしょう。影依の力が疑わしいのでしょうか。
「ほんとうです。それに、影依が引きうけることができるのは起きてしまった怪我だけではありません。小学校で運動会があるときなどは影依が先に怪我をしたのです。わざと足をねんざさせて。そうすると、おねえさまは無事に一日を終えることができるのです」
「…………」
「想日さまはわたしのことをお嫁さんだと云ってくださいましたよね? お嫁さん、つまり家族です。家族の怪我や病気は影依のものです。
どうか想日さま、影依を好きなように使ってください。あなたの苦しいこと、つらいこと、影依がすべてもらいますから」
「影依さん──この指は、」
想日さまの視線は影依の左手の小指に向けられていました。それは第二関節から外側にひしゃげるようにして大きく曲がっています。
あ、と影依はあわてて着物の袖に指を隠しました。
「この指はどうしたの?」
「……ごめんなさい。わたしが出来損ないだから」
「さっきの話と関係が?」
「ちがうんです。わたしが悪いんです。おねえさまの骨折をもらったとき、わたしがまともならきれいに治るはずだったのに、わたしが出来損ないのせいで、こんなふうに曲がったまま治ってしまって」
想日さまは影依が隠した指をじっと見つめています。
「医者には診せなかった……?」
尋ねられ、悪いことをしたときのように影依は縮こまりました。
「朽縄家はだれも医者にかからないのです。無駄だとおかあさまがおっしゃるので」
「…………」
「見苦しいですよね。ごめんなさい。なるべく隠しますから」
彼はなにも云ってくれません。
「想日、さま……?」
不安になって影依が呼びかけると、想日さまは顔をくしゃりと歪めました。
「──こんなことをしちゃだめだ」
「え?」
「他人の怪我や傷を引きうけるなんて……。こんなことしちゃだめだよ」
「他人ではありません。家族です」
「そうだとしても」
想日さまは包帯が巻かれたばかりの影依の手をそっと取りました。両手で包み、「きみがそんなことをする必要はない」と訴えかけるように云います。
でも、と影依は瞳を曇らせました。
「これがわたしの生まれた意味なのです」
「…………」
「わたしのおねえさまはとても美しい方で。おかあさまとおとうさまは、光瑠おねえさまが傷ついたり病気をされたりしないか不安に思われたのです。だから影依を作りました。光瑠おねえさまが受けるぶんの苦痛をわたしがかわりにもらうように。
ですので──必要がないなんて云われたら、影依が生まれてきた意味もなくなってしまいます。
どうか、わたしに生きる価値をください。旦那さま」
「……それで」
重い声で想日さまは云いました。「それで、長女の光瑠さんではなくきみがくることに……」
「はい──おかあさまたちは秋峯さまにまつわる噂を信じていますから」
『秋峯想日の薔薇がなぜあんなに美しいか知っているか』
『血だ』
『あの家の薔薇は、人間の血で育てられているのだ』
『その証拠が深夜の客人』
『秋峯邸に入っていったっきり帰らない、深夜の客人……』
「わたしが恐ろしい家に嫁げば光瑠おねえさまはよい家に嫁げるとの考えだったのです。──でも、ほんとうの想日さまはこんなにおやさしい方ですから。こればっかりはお役に立てないみたいですが」
想日さまは黙って影依の指の包帯を見つめていました。
影依が生まれた理由を聞いて彼はどう思ったのでしょう。姉のように無邪気に喜んでくれると考えていた影依は、彼が次になにを云うか怖くなってきました。
家族がみんな云うように影依は『出来損ない』です。おねえさまたちみんなの怪我や病気をもらうことでやっと生きることがゆるされているのです。
光瑠おねえさまの苦しみをもらうことだけが影依の存在価値なのです。
やがて、そんなことしなくていいよ、と想日さまは云いました。影依はかなしくなってしまいます。
「ですが、旦那さま……」
「ぼくをそんなふうに呼ぶ必要もない」
「────」
「最初に云っておくべきだったね。ぼくは自分の血を残すつもりはない。父のように養子をもらうつもりだ。──妻を必要としたのはそのためだけだよ。独り身の男では子供をもらえないからね。
それさえ終わればきみは自由だ。好きな相手のもとへ嫁ぐといい。一年か二年、そう長くは拘束しないから」
「それは、つまり」
影依はぱちぱちと瞬きをしました。「わたしは……あなたの妻にふさわしくないということでしょうか」
「そうじゃない。ただ、この家に縛られる必要はないということで」
「わたしはお役に立てないのですか?」
「影依さん──」
「……ごめんなさい」
彼の手を振りほどくと、影依は板張りの床の上を駆けだしました。
「影依さん!」
名前を呼ばれましたが、彼が追ってくることはなく、影依は自分に与えられた部屋に飛びこんで扉を勢いよく閉ざします。
そのまま扉にもたれかかり、こらえきれずに涙を零しました。
──やっぱり影依は役立たずだった。この家でも邪魔者だった。
初めてできた『旦那さま』。そのひとにも喜んでもらえると思っていた自分の力は、彼にとって何の役にも立たないがらくただったと理解して。