一.真夜中の花嫁道中(上)
むかしむかし、あるところにとても愛らしい赤子がおりました。
そのかわいらしさは神さまさえ嫉妬するほどで、赤子を守るため夫婦は知恵を出しあいました。そして思いついたのが『影の子』です。
我が子の苦しみは、すべて『影の子』に。
我が子がこうむる不幸も、すべて『影の子』に。
そうして赤子は大病も大怪我もせずすくすく育ち、
『影の子』もまた、自らの役目を果たしながら年を重ねてゆきました。
そしてふたりが十九歳と十八歳になったある日のこと。
姉妹のもとに、ある縁談が舞いこみました……
「真夜中に?」
影依は驚いて聞きかえしました。
通常、黄昏時から夜中にかけておこなわれるという花嫁道中。それを、相手方は夜中──子の刻からはじめたいと云うのです。
「それがあちらからの指定です。村の入り口からでいいと仰っていますので、夜が明けるまえに終わるでしょう。なにか問題がありますか?」
「……いいえ」
影依は首を横に振りました。「すべて、おかあさまの仰せのままに」
本来なら長女である光瑠から嫁づくはずが、身上調査の末に順番が入れかわることとなったのです。
相手は海辺の村に住む大地主。秋峯想日という青年に家族はなく、舅も姑も不在の夫婦生活に初めは光瑠も気楽でよさそうだと考えていたものの、彼の《《ある噂》》を知って恐れをなしたようです。
『いくら大地主でもそんなおぞましいひとのところへ嫁ぎたくないわ』
『そうだ、"あれ"。"あれ"がいけばいいのよ』
光瑠がそう提案したその日のうちに母親がこうして影依の離れへとやってきて、“これ“は来月から秋峯家の一員です、と使用人を通して告げたのでした。
影依がひとりで棲んでいる離れは座敷牢によく似ています。
窓は手の届かない位置にひとつきり。格子戸は外からしか開けることができません。四隅の壁には難しい字でなにか書かれたお札が貼られており、あれはなんですか、といつだか使用人に尋ねたら『禍を封じこめているそうです』との答えでした。
ここに玻璃燈が持ちこまれるのは『御祓い事』のときのみです。
昼でも薄暗いこの部屋で影依は十八年過ごしてきました。世の中のニュウスも常識も知らない。このままずっと自分はおねえさまの影として生きるのだろうと考えていたので、来月からべつの家へ暮らしなさい、と云われてもぽかんするばかりでした。
ですが、妹が忌まわしい噂のある男に嫁げば姉は素晴らしい相手と婚姻することができるでしょう。
姉に降りかかる災禍をすべて引きうけること。それが影依の生まれた理由です。
影依はにっこり微笑んで云いました。
「秋峯さまのおうちへ嫁かせていただきたいと思います」
おかあさまは影依を忌まわしいものを見る目つきでじろりと見ると、「そうだわ」と隣の使用人に云いました。
「光瑠が熱っぽいと云っているの。流行り病かもしれないわ。はやめに"これ"になすりつけるから『御祓い事』の準備をしてちょうだい」
「かしこまりました」
『御祓い事』とは姉の禍を妹の影依にうつすことです。使用人はうなずき、おかあさまと一緒に離れをでていきます。
そのあとで光瑠が使用人たちとやってきて『御祓い事』を執りおこないました。症状が軽かったため、それはほんの半刻ほどで済みました。
姉の熱をひきとってぱたりと畳に倒れた影依を一瞥もせず、「ああ、楽になった」と光瑠は両腕を伸ばします。そして、ご苦労さまと使用人たちをねぎらうと先に離れをでていきました。
使用人のひとり、まだ若い娘が影依を慮って「あの──」と心配そうに声をかけます。格子戸の向こうからです。
「影依さま。濡れ手ぬぐいでもお持ちいたしましょうか?」
その途端、空気が凍りつきました。
「なんてことを……!」と年かさの使用人が怒鳴ります。
「すぐに口をゆすぎなさい! あなたまで穢れますよ!」
「え……?」
「"それ"の名を口にし、あろうことか話しかけるなどと……!」
若い娘は年かさの女に腕をつかまれ、引きずられるようにして離れをでていかされました。これから手水で口をゆすぐのです。
影依、という禍が自らに降りかからないように。
「…………」
それでも影依は平気でした。
自分が穢れ扱いされても。熱っぽいのに、ろくな看病もされず放ったらかしにされても。
大好きなおねえさまが元気になったのなら。
それでいいと、心から思っていたのでした。
それから一月後。
影依は朽縄家を離れ、秋峯家へと嫁ぐことになりました。
真夜中ではよく見えなかった洋館も朝の光のもとで輝くようでした。ふかふかのベッドからでて外へとやってきた影依は、前庭の薔薇にうっとりしてから秋峯邸を見てさらに目を輝かせます。
白亜の壁はお砂糖のようで、扉や窓枠に施された装飾はレエス飾りのようです。バルコニイの手すりには羽を広げた白い鳥が止まっていて、あんまり動かないから不思議に思っていると、それはよくできた像なのでした。
まるで絵本のなかのお城のよう。
ずっとまえに使用人の娘が見せてくれた絵本を思いだしていると、はやいね、と西洋館の傍らの道を歩いてきただれかが声をかけてきました。この家の主、秋峯想日さまです。
「──おはようございます、秋峯さま」
影依は元気よくお辞儀をしました。
彼は白いシャツの上に黒の袖なしベストを着ていて、手には軍手をはめています。それが風雅な雰囲気を持つ彼に不思議と似合っているのでした。
おはよう、と秋峯さまも微笑みかえしてくださいます。
「でも秋峯さまなんて呼ばないでほしいな。きみはぼくのお嫁さんになったんだから」
「あっ、はい。失礼しました」
西洋人の血が入っているのでしょうか。青みがかかった彼の瞳を見上げ、影依は云いなおします。
「おはようございます、旦那さま」
真夜中の花嫁道中はそれはそれは幽玄なものでした。
空には分厚い雲がかかり、月も星も隠れてしまっていましたが、それだけに地上の光が鮮やかに見えました。
両側に灯篭の置かれた道を俥に乗って運ばれてゆき、洋館までつづく坂道、夜光虫で銀河のようにきらめく海をふと見下ろしたときの心地といったら。
おまけに隣には紋付き袴を堂々と着こなした美しい青年がいたのです。
出迎えてくれた村人たちがなぜかみな黒い布で顔を隠していたことも、秋峯家の使用人たちも同じように顔を見せなかったことも、朽縄家の家族は同行をゆるされなかったことも影依には気になりませんでした。
黒子たちが見守るなかで盃を交わしたのち、ここがきみの部屋だよ、と主人自ら案内してくれた二階の一室にひとりで眠ることになっても。
秋峯さまに──想日さまに嫁ぐことになってよかった、と影依はありがたく思ったのでした。
「寒くない?」
「え?」
想日さまに問われ、影依は自分が浴衣姿ででてきてしまったことに気づきました。
「着替えておいで」と優しく云われ、どぎまぎしながらうなずきます。こんなふうに人間扱いしてもらったことははじめてでしたので。
薔薇の模様が入った玄関の扉を想日さまが開けてくださいました。
目が合うと彼は微笑を返してくれます。なんていいひとなんだろうと影依は思い、ちいさく頭を下げ、着替えたらまたすぐこのひとのところにもどってこようと急いで建物のなかに入りました。
薔薇の香りは館に入っても消えませんでした。