トイレの花子さんと嵐を呼ぶ風紀委員3
「うわっ、何これ! 洪水!?」
「てるはちゃん、大丈夫!?」
バシャバシャと水を蹴立てて、旧校舎のトイレに飛び込んできたのは、クラスメイトの天野ウズメちゃんだった。彼女の後ろからは、冷静な表情の月読会長と、なにやら機械をかざしている思兼くんの姿も見える。
「この強烈な霊的ノイズと高湿度! 僕の厄介神センサーが振り切れている! この反応パターンは…間違いない、『位高き厠神』の系譜だ!」
思兼くんが興奮気味に叫ぶ。びしょ濡れになりながらも、その目は好奇心で爛々と輝いていた。
「泣かないで、あなたのお掃除、とっても素敵よ! だから落ち着いて!」
ウズメちゃんがアイドルスマイルで呼びかけるが、パニック状態の女の子には届かない。むしろ、人が増えたことでさらに混乱しているようだった。
「くそっ、埒が明かねえ! こうなったら、もう一発ぶん殴って黙らせるしかねえか!」
スサノオくんが拳を握りしめた、その時。
「短絡的だな、嵐野。火に油を注ぐだけだ」
冷たい声が、彼の動きを制した。月読会長だ。彼はびしょ濡れになるのも構わず、静かに水の中を進み出て、私をまっすぐに見つめた。
「陽菜森さん」
「は、はい!」
「君ならわかるはずだ。彼女が本当に望んでいることが。力には力で対抗しても意味はない。その根源にある願いを汲み取れ」
月読会長の透き通るような声が、不思議と私の耳にはっきりと届いた。
根源にある、願い……。
私はもう一度、泣きじゃくる女の子を見つめた。
ピカピカに磨かれた床。むせ返るほどの芳香剤。後光の差す便器。
彼女はずっと、言っていたじゃないか。
「キレイにしたの」「ピカピカでしょう?」って。
彼女は、ただ、この場所を綺麗にしたかった。そして、その頑張りを、誰かに認めて欲しかった。褒めて欲しかったんだ。
それなのに、私は「匂いがきつい」なんて言って、彼女の善意を否定してしまった。スサノオくんは、彼女の頑張りそのものを「悪ふざけ」と決めつけた。
(……ごめんなさい)
心からの謝罪の気持ちが湧き上がってくる。それと同時に、もう一つ。
(……ありがとう)
自分のテリトリーだからって、こんなに一生懸命、綺麗にしてくれていたんだ。その気持ちは、とても純粋で、温かいものじゃないか。
「私、行かなきゃ」
私は意を決して、ジャブジャブと水の中を進んだ。泣きじゃくる女の子の目の前に、ひざまずくようにしてしゃがみ込む。
「陽菜森さん!?」
「おい、お前!」
仲間たちの声が聞こえたけど、今はもう迷わない。
「ごめんなさい!」
私は、びしょ濡れの床に額がつきそうなほど、深く頭を下げた。
「あなたの気持ちも考えずに、ひどいこと言っちゃって、本当にごめんなさい!」
女の子の泣き声が、少しだけ小さくなった気がした。私は顔を上げて、彼女の涙で濡れた瞳をまっすぐに見つめた。
「でも、これだけは伝えたかったの。……ありがとう。こんなに綺麗にしてくれて、本当に、ありがとう」
それは、心の底から湧き出た、私の本当の気持ちだった。
その瞬間。
ふわり、と。
私の体から、淡く、温かい光が溢れ出した。それは太陽の光みたいに優しくて、穏やかで、あたりをそっと照らし出す。
「あ……」
光に包まれた女の子は、驚いたように目を見開いて、泣き止んでいた。暴れ狂っていた水の勢いが、嘘のようにすうっと弱まっていく。私の光が、彼女の荒ぶる心を優しく撫でるように、溶かしていくようだった。
やがて、光が収まった時、トイレを襲っていた洪水は完全に止まっていた。
目の前の女の子は、もう泣いていなかった。彼女は、はにかむように、でも嬉しそうに、にこりと微笑んだ。
「……うん」
小さく頷くと、彼女の体はさらさらと光の粒子になって、その場に溶けるように消えていった。そして、彼女が立っていた場所には、露に濡れた小さな白い花が、一輪だけちょこんと残されていた。
シーンと静まり返ったトイレに、水滴の落ちる音だけが響く。
「……ちっ。助かった」
スサノオくんが、そっぽを向きながら、ぼそりと言った。
「てるはちゃん、すごーいっ!」
ウズメちゃんが駆け寄ってきて、びしょ濡れのまま私に抱きついてきた。
「素晴らしい……実に興味深い現象だ。陽菜森てるは君の神話的エネルギーが、対象の精神に直接作用し、鎮静化させたと推察される。このデータは貴重だぞ!」
オモイカネくんは、濡れたノートに何かを必死に書きつけている。
月読会長は、何も言わなかった。ただ、静かな瞳で私を見つめ、ほんの少しだけ、口元に笑みを浮かべたような気がした。
私は、自分の手のひらを見つめた。
まだ、じんわりと温かい。初めて自分の力で、誰かの役に立てた。初めて、心の奥にある岩戸を、ほんの少しだけ、開けられたような気がした。
灰色の空に覆われていた私の心に、雲の切れ間から一筋の光が差し込んだような、そんな気がした。
こうして、太陽神の末裔である私の、全然望んでいなかったはずの、奇妙で騒がしい非公式活動の幕が、静かに……いや、かなり派手に、水浸しになりながら、上がったのだった。