金田のババア
金田のババアは鬼婆だ。
口さがなく、世間はそう噂する。
そしてさも知ったふうに続けるのだ。
曰く、
「あれは実に金持ちらしい業突く張りだ」
「気難しくて神経質、兎にも角にも他人に厳しい因業婆よ」
「同居していた娘夫婦も、いつの間にか姿を見せなくなってしまった。いびり倒して追い出したのに違いない」
など、など。
どれも違う、と僕は思う。
金田さんはとても品のよいお婆さんだ。
いつだってぴんと背筋を伸ばし、折り目正しく和服を着こんでいる。気品っていうのは、多分ああいう風情を言うのだろう。纏っている空気がちょっと違う。
だから確かに、おっかなそうな、厳しそうな雰囲気があるのは否定しない。でもこちらが節度と礼節を保って接すれば、あちらもちゃんと同じものを返してくれる相手でもある。
あまり人付き合いはしないけれど、それだって理由のあることだ。
なので金田さんに関する悪い噂は、ほとんどがやっかみだと僕は考えている。やっぱりお金というのは怖いもので、ただ持っているだけで周囲の妬心を掻き立ててしまうものらしい。
ともあれ僕にとって金田さんは、べちゃべちゃと他所の悪い噂ばかり囀り立てる主婦連よりも、ずっと印象のよい存在だった。
もちろんこの好感は、僕が金田さんに恩を受けているからもあるのだろう。
小学生の頃、僕はひどいいじめを受けていた。それを綺麗さっぱり解決してくれたのが金田さんなのだ。以来、金田さんとは親しくしている。時折家に上げてもらって、話し込んだりするくらいに。
だから多分、そこに目をつけられたのだろう。
*
山路和行というのは、うちの高校では有名な札付きだった。
大人顔負けの体格なのに加えて気性が荒く、粗暴。先生たちも迂闊に注意できない存在で、将来はずぶずぶと、もっと悪い道に踏み込んでいくことが簡単に想像できるような人間だった。
そうして僕は困ったことに、そういう人物の注意を引きやすいタイプなのだ。
「あのババアと、仲いいんだってな」
放課後、呼び出された場所に赴いた僕に、彼は言った。あのババアとはもちろん、金田さんのことだろう。
返事をしないでいると、遠慮なく腹を殴られた。ぐ、と呻いて折れた体が引き倒され、踏みつけられる。僕を見下ろして、山路は続けた。
「今日これからよ、ちょっと遊びに行こうぜ。オレと一緒によ」
その顔には悪意が満ち満ちていて、だから彼が金田さんに悪事を働こうと思っているのは明白だった。
貴重品を盗んで売り払うとか、脅して現金を奪い取るとか、この手の短絡的な連中が考えそうな企ての片棒を、僕に担がせようというのだ。金田さんはひとり暮らしだから、強盗の矛先として殊更容易に見えもしたのだろう。
彼の落ち着きぶり――というか、全部自分の思い通りに動くという盲信ぶりからするに、既に同様の手口での犯罪経験があるのかもしれない。
転げたまま沈黙を続けていると山路は、「わかったな? わかったんだろうな?」と更に数度蹴りつけてきた。
逡巡を披露してから彼の言葉に従う意思表示として頷くと、山路は満足して僕に唾を吐きかけた。
それで、山路に背を押されるようにして、僕は金田さんの家へ向かった。
金田さんの住まいは、本人と同じく小綺麗で瀟洒だ。インターフォンを押して僕が来訪を告げると、金田さんはあっさり玄関を解錠してくれた。
「余計を言うんじゃねぇぞ」
小声で脅しつけると、僕を押しのけて山路は大股に家内へ上がり込み、リビングへ向かう。そこに金田さんがいると見当をつけての動きだろう。なんというか、手慣れた風情だった。
僕はその背が廊下を曲がって消えるのを、黙ったままで見送った。僕でない誰かが顔を見せた時点で、金田さんなら状況を理解してくれると思ったからだ。
そして、予想は裏切られなかった。
しばらく待つと、家の奥から大きな声がした。それは山路の怒号だった。だが数秒で、それは混乱の色を強く帯びたものへと変わる。
そしてごりごりと、重い岩戸の開く音。
更に山路が何かを叫ぶ。恐怖に舌がもつれるようで、言葉の意味はわからない。ただ、それがほとんど悲鳴であるのは確かだった。
続けてまたごりごりと、今度は岩戸の閉じる音。
まだ山路は喚いているが、重く分厚い障害物越しのそれはもう、近所迷惑にならない程度にくぐもっていた。
「お邪魔します」
呟いてから、僕もリビングへ向かう。
その壁面には、畳二畳半ほどもある大きな岩の扉が誂えられていた。
「なんだよ、ここは!? 一体どうなってんだよ!? ……やめ、来るな、来るな来るな来るなッ!!」
山路の絶叫が響くのはその岩戸の奥からだ。
洋風の一室において明らかに異質なそれを初めて見た時――小学生の時には流石に驚いたけれど、僕にとって、岩戸自体はもう見慣れたものだ。
ただ、その中に何があるのか、中がどうなっているかまでは知らない。興味はあるが、覗こうと思ったことは一度もない。
何故って、それはすごく失礼なことだと思うからだ。誰だって、人に見せたくないものをひとつやふたつ持っている。敢えて暴かないのは良識というものだろう。
「腕、腕が、オレの腕……指指、なんで、なんで食っちまうんだよ!? ……おいッ、いるんだろ!? 開けろ、今すぐ開けろって! これを開けてください、お願いします!」
山路の声からは、完全にいつもの傲慢が消え失せていた。絶体絶命の窮地に同行者の存在を思い出したのか、中途から言葉の向く先が僕へと変わる。
必死の懇願だったけれど、僕にとってはそれも聞き慣れたものだった。
というか皆決まって、同じようなことを言い出すのはなんなのだろう。人に与える痛みは気にしないのに、自分のことになった途端、いきなり一生懸命だ。
なので欠伸をしながら、「嫌に決まってるだろ」と返す。
「て、てめぇ、覚えてろよ!? いいから開けろ! 開けろ、開けろよ! なあ、開けろ! さもないとぶっ殺すぞ!!」
どれだけ滑稽なことを言っているのか、彼に自覚はあるのだろうか。
どんどんと全力で岩戸を叩く音は続いたけれど、以降の全てを僕は無視した。
椅子に腰かけスマートフォンを弄りつつ待っていると、やがて物音が絶え、更にしばらくののち、ごりごりと岩戸が開く。
姿を見せた金田さんへ、僕は椅子から立って一礼した。
金田さんもにこりと微笑んで礼を返す。
手にした包丁は血と脂にまみれているけれど、和服には返り血のひとつもない。いつも通り背筋が伸びて、しゃんと折り目正しい立ち姿だった。
「また、よろしくね」
彼女が満足げに言うのを聞いて、僕はとてもよいことをした気分になった。
*
金田のババアは鬼婆だ。
口さがなく、世間はそう噂する。
それが正鵠を射ると気づかないのは、まさしく知らぬが仏だと僕は思う。