第9話 狂いゆく道程 7
地下室に下りると石橋緑はいつものようにそこにいた。ほんのすこし浮わついて見えるのは解放される日が近いと信じ込んでいるからだろう。そんな彼女の様を見て少し哀れな気持ちになった。
棚に置かれた飲食料品はすべて平らげてあった。菓子パンやおにぎりの包装は律儀にビニール袋にまとめられ口を縛って置かれていた。空のペットボトルも一箇所にまとめてある。こうしてあればこちらとしても捨てやすく非常にありがたい。わたしはゴミを回収して一階に上がった。ペットボトルはフィルムを剥がして通称TEリングと呼ばれるキャップの輪を切って外す。それから軽くすすいでリサイクルへ。ビニール袋の方はそのまま燃えないゴミにポイだ。
そんな作業をこなしながらこの状況を石橋緑にどう伝えるべきか考えていた。
誘拐は失敗に終わったと言えば、「ほら言ったとおりになったでしょう」と思われるかもしれない。
わたしはこの二週間何をしていたのだ。ただ石橋緑を誘拐して同じ家で過ごしていただけ。それでこのまま彼女を解放するのか。それでは石橋慎太郎は何の痛手も受けていないと同じだ。
「冗談じゃない!」
これではただの道化だ。このまま帰すなんてありえない。
台所の壁にかけてあるカレンダーが目に入る。今日の日付を見てそのことを思い出したわたしはコンビニへ出かけることにした。自分の存在が露見するのを避け、少し遠くにある普段使わないコンビニに行った。目的のものを購入し家に帰り、安っぽい容器からケーキを取り出しそれっぽい箱に移し替える。その際ケーキに細工を施すことも忘れない。
わたしは箱に収めたケーキを手に地下へおりた。
「今日はなんの日か知ってるかい?」
扉を開け開口一番石橋緑に笑顔を向けた。もっとも、目出し帽姿ではおそらく彼女には伝わっていないだろうが。
石橋緑は何も答えなかった。警戒しているわけでははなさそうだ。ただ本当に答えが分からず言葉に詰まってる様子だった。長い間窓のない地下に閉じ込められた状態で日付や曜日の感覚が曖昧になっているはずだから無理もない。
今日はクリスマスだ。世間一般にはケーキを食べる日。戦後アメリカに毒されたクソッタレな慣習。
わたしは後ろ手に隠していた白い箱を卓袱台の上に置いた。蓋を開けて取り出したのは一ピースのショートケーキ。それを見た石橋緑の目の色が変わった。ケーキが嫌いな女子はいない。やはり彼女も女なのだ。
別途用意しておいた皿の上にケーキを移してフォークを添えて卓袱台の上をすべらせるように差し出す。
「食べていいよ」
すると石橋緑はいただきますと律儀に手を合わせてからなんの警戒もせずにそれを口に運んだ。フォークでケーキを切り掬い、それが柔らかなピンク色の唇に吸い込まれるのをじっと見つめる。これまでのわたしの優しい扱いが本来あるはずの彼女の猜疑心を取っ払っていた。しかしわたしが誘拐犯であることに変わりはない。わたしは彼女にとっては忌むべき人間なのだ。彼女は決してそれを忘れてはいけなかった。
「!? ごほっ! ケホっ――!?」
ケーキの味を舌で感じた瞬間石橋緑は目を大きく見開いてむせた。フォークを落とし、手で口元を抑え咳き込みながらも必死に堪えている。そんな隙だらけの彼女に近づいて首元に触れる。彼女はわたしの手の感触に気づいてビクリと体を震わせる。
わたしは無言のまま彼女の首輪の南京錠を外し、革の首輪を外してやる。
さあ、これでキミは自由だ……と、なるわけがない。
首輪を外した瞬間に手早く首輪のチェーンを彼女の首に巻き付けた。
「――!?」
石橋緑は状況が理解できず、むせ返りながら驚いた様子を見せる。首輪を外したその一瞬の隙に逃げられる可能性もあったので内心冷や汗ものだった。それを回避するためにケーキに大量の塩をまぶしてイニシアチブを取ったのだ。それが見事に決まり状況は有利に働いていた。
「きゃっ! なに!? いやっ!!」
石橋緑がようやくが状況を理解した。でももう遅い。わたしは巻き付けたチェーンを引き絞りながら彼女に覆いかぶさるように倒れ込む。仰向けの彼女に馬乗りになって首に巻き付けたチェーンを思いっきり左右に引っ張った。
「ぐえッ!? こほっ――。ぐぅ、ゥグググ!」
透き通るような美しい声を放つその咽喉から潰れたウシガエルのようなうめき声が漏れ出す。チェーンを解こうと首に食い込むそれを必死で引き剥がそうとしている。白く細い首筋に自ら爪を立てて幾重もの引っかき傷を作っていく。それでも食い込むチェーンはどうにもならない。がむしゃらに皮膚を掻きむしり赤い血が滲んでいく。わたしがさら力を込めると、石橋緑は口を大きく開き舌を出して喘いだ。
金の受け渡しに失敗した以上石橋緑を家に帰すつもりなどなかった。だからといって彼女の面倒を一生見てあげられるような経済力があるわけでもない。ならばいっそ殺してしまおうというのがわたしの出した結論だ。
それにこれは彼女のためでもある。このまま彼女を家に返せば身代金誘拐が失敗に終わったことは嫌でも耳にすることになる。すると彼女はどう思うだろう。
親は自分を助けるためにお金を用意してくれなかった。警察にも連絡を入れなかった。それらは彼女にとって不都合な真実だ。それを知ったら石橋緑は自分は両親に愛されていないんだと自覚してしまう。彼女にそんな思いをさせるくらいなら、今ここで、この時まで自分は親に愛されているんだと信じたままで消えていったほうが幸せに決まっている。
だから殺す。これは殺人ではない。救済だ。
わたしは一度鎖を持つ手の力を緩めた。
石橋緑は首元を押さえながら誤ってビニール袋を吸い込もうとしている掃除機のような音を吐き出しながら酸素を吸引する。そこにはいつもの貞淑で楚々とした仕種はない。恥も外聞もなく、本能を剥き出しにした生への欲求は実に醜悪だった。
だが同時にわたしはそれを美しいとも感じていた。
「なんで……、どうし――ぅく!!」
最後まで言い終わる前にまた鎖を締め上げた。
石橋緑はまた苦悶の表情を浮かべる。彼女が鎖を緩めようと自分の方に引き寄せようとする。それがお望みならばとわたしが鎖を緩めると彼女の表情は弛緩してゼーゼーと呼吸を整える。彼女の呼吸が整う前にまた鎖を締め上げる。
コロコロと変わる石橋緑の顔を見るのが楽しかった。まるでスイッチを入れる度に表情が変わるオモチャのようだ。童心に帰るとはこういう事を言うのかもしれない。でもそれだけじゃない。そこには子どもの時分には得ることのできない大人の愉悦もあった。
「ははは……!」
わたしは嬉しくなって何度も締める緩める締める緩めるを繰り返した。その行為を繰り返す度に彼女の頭がぐわんぐわんと跳ねるような動きを繰り返し、やがて抗う力が衰えていく。
抵抗は止み、わたしのなすがままになる。
小鼻を開かせ鼻水を垂らし、陸に上がった深海魚のように眼球がせり出し。体全体が痙攣したように小刻みに震えてる。命の終りが近づいている。
わたしは得も言われぬ快感に満たされていた。
はじめて人を殺した時と違い、直接手を下すという行為が悦楽の素となってわたしの全身を駆け巡る。欲望のままに鎖を握る手に力を込めた。込め続けた。やがて石橋緑はピクリとも動かなくなった。それでももっとこの興奮を味わっていたくて首をねじ切る勢いで鎖を引く手に力を込めた。
魂の抜けた石橋緑をオモチャにしながらわたしは自分がとんでもない失態を犯していたことに気づく。この方法を使えば逆にわたしが彼女に絞め殺されていた可能性もありえたのだ。
まあその場合は石橋緑もここから出られず死んでいただろうけど。なんせ首輪に付けた南京錠の鍵は常に持ち歩いていたわけではないから。
「う、ん……?」
やがて漂ってきた不快な臭いに気づいてわたしは鎖を手離した。ジャラっと音を立て畳の上に落ちる。
立ち上がり異臭の発生源を確認する。石橋緑の内股が濡れていた。ワンピースの裾をめくりあげると下着が茶褐色に滲んでいた。どうやら催したらしい。人は絞殺されると穴という穴からいろんな液体を出すという話を聞いたことがあったが、それはどうやらまったくのデタラメではないらしい。
漂う糞尿の臭いにたまらず口と鼻を袖で覆う。美人の体内から放り出されたものでも汚物は汚物。汚いものは汚い。わたしは新鮮な空気を求めて部屋を出て地上へ続く階段を登った。居間で腰を落ち着けさっきまでの行為、その時の感情を忘れてしまわないうちにテーブルの上に広げてあったノートに書き記しておこうと鉛筆を手に取った。
石橋緑を絞め殺したことでわたしは一つ学んだことがある。それは彼女の命を奪う瞬間わたしは確かに昂奮していたということだ。わたしは命を奪うことによるエクスタシーを知ってしまった。もしかしたらこの感覚こそがオルガスムスと呼ばれるものなのかもしれない。
スポーツが好きな人間もいれば嫌いな人間もいるし、ゲームが好きな人間もいれば嫌いな人間もいるように、人殺しが好きな人間もいれば嫌いな人間もいるということだなのだろう。
スポーツ、ゲーム、酒、タバコ、クスリ――本来なら殺人はこういったものと同列に語られるべきものなのかもしれない。でももしその快楽に目覚めてしまう人間が大勢いたらそれは種の存続にかかわる大問題に発展してしまう。だからきっとそれに気づかせないために幼少の頃から人殺しはいけないことだと教えられるのかもしれない。
―― でもわたしはそれに気づいてしまった。
そもそも、あれは駄目これも駄目という概念は最初からこの世に存在していたわけじゃない。コミュニティが形成されそこに秩序が誕生し、出来上がった社会を円滑に回していくために法や規則が作られる。それらは誰かの都合で作られたルールでしかない。それをみんなが絶対だと思い込んでいるに過ぎない。だからそのルールを破った者、法を犯し者は異常者扱いされる。でもそういった異常な人間は必ず一定数発生する。人間はみんな同じではない。そんなことはみんな知っている。知っているけど気づけない。
しかし欲望の赴くままに殺戮を繰り返すのでは理性のない猿と同義だ。それにわたしには小説を書くという大切な目標がある。自制しなけばならない。
自分の考えをノートに書き終えたあとそれを閉じて大きく伸びをした。
冷静さを取り戻したわたしは今から石橋緑の処分をしなければいけないのだということに思い至り辟易とした。部屋中にオモチャを出して遊んでいるときは楽しいけどそのあとの片付け作業はなんとも気が重くなるものだ。
「さて困った」
石橋緑はおもちゃと違って無造作に箱に詰め込んで押し入れに……とはいかない。
遺体の処分などやったことがない。警察に見つからないようにするなら埋めるのが一番だろうけどどこに埋めればいいのか分からない。山には雪が積もっていて地面に穴を掘る前に雪をどける作業が必要になる。そんな事をしている間に他人に見つかったら終わりだ。だからといって放置しておくわけにもいかない。実際に嗅いだことはないが死体というのはものすごい異臭を放つと聞く。それで事件が発覚し警察のお縄となった犯罪者たちも数知れず。
この家のある場所を考えれば近隣住民にその異臭が気取らることはないだろうけど、同じ家にいるわたしが音を上げてしまっては意味がない。
考えに考えた結果、わたしは床下を利用することにした。
この家は地下牢があったことからも分かる通りかなり昔に建てられた家だ。だから床下は土になっているはずだと考えた。再び地下の部屋へ移動し、石橋緑の遺体を脇に寄せ、畳を起こして木板を剥がしてみるとやはり下は土になっていた。
「これなら埋められる」
わたしは穴を掘った。石橋緑のための穴を。掘った穴に石橋緑の体を横たえ処分が後回しになっていた彼女の私物を添える。そうして彼女の体の上に土を被せ、彼女の体は埋まった。
…………
翌年――
年明け早々に石橋緑が行方不明になったというニュースが地元紙で取り扱われ、情報提供が呼びかけられていた。あくまで行方不明であり誘拐との報道はされていない。石橋緑の遺体が見つからなければ、この事件は行方不明事件のまま大した捜査も行われないはずだ。