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第8話 狂いゆく道程 6

 今日は朝から講義のある日だった。本来なら石橋緑と同じ講義の時間だが当然そこに彼女の姿はない。いつも一方的に彼女と交流を図ろうとする面々も彼女の姿がないことに驚いているようだった。まじめな彼女が講義に出てこないなんてよほどの事情があるに違いないと姦しい。


 そしてそれは正しい。


 でもそれは彼女たちの想像する“よほどの事情”とはまったくベクトルの異なる事情のはず。まさか石橋緑がわたしの家の地下に軟禁されているなんて絶対に想像できるはずがないのだから。


 その日のカリキュラムを終えて家路につく。今日は一段と冷えるなと感じたわたしはコンビニでホットコーヒーを一本だけ買って帰ることにした。家に着いたその足でコーヒーの入ったコンビニ袋を手に地下へと続く扉を開けた。ひんやりとした空気が肌を撫でる。目出し帽を被って階段を下りる。扉を開けると毛布にくるまって縮こまっている石橋緑がいた。髪が濡れているのを見るとお風呂にでも入っていたのかもしれない。彼女は一瞬だけこちらに目を向けすぐに面を伏せた。


 わたしは持っていたコンビニの袋からまだ熱い缶を取り出して卓袱台の上に置いた。


「今日は寒いから。飲みなよ」


 石橋緑は明らかに警戒していた。昨晩部屋の棚に置いておいた食べ物が手つかずのままになっているのがいい証拠だ。彼女にとってわたしは敵なのだから仕方ない。しかもコーヒーは一本で自分は飲まずに相手にだけそれを飲むことを勧めるなど疑ってくれと言っているようなものだ。でも一人暮らしのわたしがコンビニでホットコーヒーを二本も買ったら怪しまれる可能性があるから仕方なかった。


 心なしか頬がけているようにも見えた。一日食事を抜いたくらいですぐに体型が変わるものではない。おそらく狭い部屋を照らす蛍光灯の明かりが彼女の表情にはっきりとした陰影を作っているせいでそう見えるだけだろう。


 しかし困った。このまま飲まず食わずで餓死でもされたらこちらの計画がだいなしだ。それに、コーヒーを飲んで温まってほしいというのはわたしの偽らざる本心だ。最初にわたしが飲んで毒は入っていないことを証明しようかとも思ったけどそれは無理だ。石橋緑が他人が口をつけたものに口をつける行為を嫌がるタイプの人間だった場合、彼女に飲んでほしいという目的は達成されなくなってしまう。


 わたしは一度一階に行きコップを持って地下に戻った。それから缶コーヒーを空けて少しだけコップに注いでそれを彼女が見ている前で飲んでみせた。熱かったコーヒーはすでにぬるくなり始めていた。でもこれで毒はないと理解できたはずだ。石橋緑の視線がわたしと缶コーヒーを何度か行き来する。そしておずおずと手を伸ばし、ようやくコーヒーを飲んでくれた。ほぉと心底安心したような吐息を立てる。


 コーヒーを飲む彼女に向かってわたしはもう一度念を押した。


「これは誘拐だ。二週間後に君を開放する。だからそれまでわたしは君を殺さないし傷つけない」


 石橋緑は両手で握った缶を見つめたまま何も言わなかった。理解しているのかいないのか分からないが少なくとも聞こえてはいるはずだ。それから無言で石橋緑がコーヒーを飲み終わるのを待った。彼女が空になった缶を卓袱台にを置くのを合図に、わたしはそれを手に部屋の外に出た。


 ――――


 石橋緑は少しずつわたしに対する警戒心を解いていった。食べ物や飲み物を差し出せばそれを躊躇ためらわずに口にするようになり、少しだけ会話ができるようになった。

 さすがの彼女もずっと誰とも喋らずに部屋に籠もりきりの生活を送るのは苦だったのだろう。たとえ相手が自分を攫った誘拐犯であっても、話ができる相手がいることはこの狭い空間に多少の安寧を生じさせるに違いない。とは言え、お互いの間に弾むような会話はない。事務的なわたしの質問に石橋緑が応える程度のものだ。


 何度目かの質問で石橋緑は本が好きだと言った。わたしは同じ趣味を持つ人間が近くにいることに内心で歓喜の声をあげた。しかしそれを表には出さず、暇つぶしを与えるという名目でわたしは自分の一番のお気に入りの小説を貸し与えた。何度も繰り返し読んだその本は表紙が擦れて剥げ落ち、小口の部分が手垢で黒く汚れてしまっていた。それでもわたしの大切な宝物だった。


 でも、わたしの優しさを拒絶するかのように石橋緑は本の半分も読まずに読むのを止めてしまった。


「本が好きなんでしょう?」


 そう訊ねると、好きは好きだがこの本の内容は好きではないという返答があった。


 わたしが貸した小説は精神に異常を抱えた主人公が殺人を繰り返すスプラッタ小説。表現は割りと生々しく、時には殺した相手の肉を食らったり死体と姦淫する描写もある。それでも一般小説にカテゴライズされている。年齢制限はない。わたしがこの本に出会ったのは中学の頃だ。あまりにも衝撃的な内容に度肝を抜かれ、わたしは一気にその本の虜になった。当時の感情は今でも覚えている。その時の興奮、昂揚、ドキドキを思い出したくて繰り返しその本を読んだ。

 

 でも石橋緑の趣味には合わなかったようだ。


 本のジャンルの好き嫌いは人それぞれだ。こちらの趣味を押し付けようとは思わないが、同じ話題を共有できるかもしれないと思っていただけに少し寂しかった。それに、なんだか自分が拒絶されたような気分になった。わたしはもともと彼女を誘拐した誘拐犯だ。受け入れてくれというのは虫がよすぎることは承知の上だ。


 でも、それでも、思い出す――


 自分が書いた小説を「つまらない」、「面白くない」と言ってろくに読まずに突き返されたあのときに感じた虚しさによく似ていた。もちろん分かっている。あのとき書いた小説は本当につまらなくてくだらないものだったということは。


 わたしは卓袱台に置かれた小説を手に取り地下の部屋をあとにした。それから別の文庫本を三冊手にしてまた地下におりる。これならどうだと披露するように卓袱台の上に置いた。


 だが石橋緑はどれもお気に召さなかった。だったらどんなジャンルが好きなのだと質問した。返ってきた答えは恋愛小説。わたしが最も苦手なジャンルの小説だった。当然家には恋愛小説は一冊も置いていない。


 わたしは彼女との交流を諦め部屋を出ようとした。


「誘拐なんて本当にうまくいくと思っているんですか?」


 石橋緑の強い意志を感じる言葉が背なに投げかけられる。


「うん。思ってるよ」


 わたしは振り返ってそう答えた。彼女の腹の中は見え透いていた。互いの関係がある程度打ち解けたこのタイミングでわたしの説得を試みようというのだろう。が、その手には乗らない。


「最終的には私を開放するんですよね。だったらそのあと私が通報したらあなたは警察に捕まりますよ」


 そんな事は百も承知。言われるまでもない。だからこうして石橋緑の前に姿を表す時は常に目出し帽を被っている。この場所がどこかも彼女には分からない。この状況で何をどう警察に説明するつもりなのだ。

 わたしが勝ち誇ったようにそれらを説明すると彼女はそうですかと一言告げて顔を伏せた。悲しそうとか悔しそうといった感情は見えない。適当な表現があるとすれば憐憫。

 そんな彼女の顔を見て負けたような気分にさせられた。


 わたしがなにか見落としているとでも言うのか。いや、きっとそうじゃない。そう思わせることでわたしの動揺を誘いボロを出せようという魂胆なのだ。きっとそうに違いない。


 …………


 あっという間に二週間が過た。今日が約束の日。受け渡しが終わったらお前を開放すると伝えると、石橋緑の顔に安堵の色が浮かんだ。

 わたしは一階に上がり出かける準備に取り掛かった。事前に用意しておいた伊達メガネをかけ、鼻と顎に付けヒゲを貼って変装する。帽子を被りトレンチコートを羽織る。

 家を出ると雪がちらついていた。街中を走れば街路樹にクリスマス用のイルミネーションが見える。ライトアップにまだ早い時間。でも夜になれば青や赤の電飾がきらびやかにツリーを彩る。

 街を抜け郊外へと向かう。指定した取引場所の近くに車を止めて車内から様子を窺う。石橋慎太郎の姿はまだない。わたしは周囲の状況も確認し怪しい動きがないかもチェックする。売地と書かれた看板が立っているその場所には人の隠れられそうな場所はない。石橋慎太郎はこちらの言いつけどおり警察には連絡していないのだろう。


 わたしは石橋慎太郎が来るのを待った。待ち続けた。だが一向に彼があらわれる気配はない。一時間、二時間待てども雪が降るばかり。わたしの辛抱も限界を迎え。その日は家に帰ることにした。


 翌日も同じ場所に出向いたが彼がそこにあらわれることはなかった。石橋緑には予定が変わったと伝えてあるがいつまでもそんな言い訳が通用しないことは分かっていた。それにこちらにも予定がある。今日はたまたま昨日と同じ時間が空いていたから大丈夫だったが、こちらもずっと暇なわけじゃない。大学やバイトがあるので常に同じ時間にここに足を運ぶことはできない。


「くそ――」


 しかしなぜ彼が取引場所に来ないのか分からなかった。娘の命などどうでもいいと思っているのだろうか。一千万のほうが惜しいとでも言うのか。そんな親がどこにいる。親というのは普通は我が子がかわいくてかわいくて仕方ないはずだ。そうでなければ困る。


 さらに翌日、わたしは約束の場所に向かった。だが結果は同じ。これはもう諦めるほかなかった。


 誘拐なんて本当にうまくいくと思っているんですか――という石橋緑の言葉を思い出す。戦後日本における犯人側からみた誘拐事件――金を受け取った上で人質を開放するまで――の成功例がないことは知っていた。身代金誘拐とはそれほどに難しいことなのだ。でもそれはあくまで警察が把握している事件に限った話で、警察を介さない身代金誘拐はどこかしらで行われているだろうという話もある。だからこそ自分ならできると思っていた。


 しかしそれは驕り以外の何ものでもなかった。石橋慎太郎は娘を捨てた。これが事実である。

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