第7話 狂いゆく道程 5
車が家に到着する。
「うん」
どうしたものか。石橋緑を抱えたまま擁壁の階段をあがるのはかなりきつい。引きずって階段をあがるのもかなりの重労働だ。途中で手が滑って彼女の体を落としたりでもしたら怪我では済まない。地面に薄っすらと雪が積もっていることも考えると危険はひとしおだ。
すると、わたしの思いに応えるように後部座席からもぞもぞとうごめく音が聞こえてきた。石橋緑が気づいたのだ。気づいたなら自分で歩かせればいい。
「気がつ――」
わたしが彼女に声をかけようとすると、彼女はそれを遮るようにンーンーと呻きながら暴れ始めた。気を失う前の彼女の最後の記憶は目出し帽を被った怪しい人に襲われる記憶。それを思い出し必死の抵抗を試みようとしているのだろう。
「黙れ!」
少し激しめに言って後部座席に手を伸ばして彼女の体を叩いた。するとすぐに大人しくなった。
「おまえは今車の中にいる。外に出るために足の拘束を解くから言う通りに歩け。いいな?」
なるべく低い声を作って脅すように言う。彼女はうんともすんとも言わず体をこわばらせていた。
「いいな!」
わたしはもう一度彼女の体を叩いた。すると彼女はコクコクと首を何度も縦に振った。
後部座席のドアを開け足の拘束を解き体を支えるようにして立たせて歩かせる。
「ここから階段だ」
そう言って段を確かめるようにしながら擁壁を上がる。玄関の扉を開け靴を脱がせ框を上がらせて、地下へと続く扉を開けて先へ進み元座敷牢の部屋へとたどり着く。もう騒がれも問題ないと判断して猿ぐつわを外す。目隠しと縛った手はそのままで畳の上に座らせた。
自分が今どこにいるかわからない石橋緑は尋常じゃなく怯えていた。そっと彼女の首筋に触れる。襲われることを想像したのか彼女は雲雀の泣くような美しい声で悲鳴を上げながら身をよじった。心配しなくても手を出したりはしない。わたしはその白く美しい彼女の首に首輪をはめて南京錠をかけた。犬用の革製の首輪で、引き千切ろうとすれば先に喉が潰れてしまうだろう代物だ。
次にその首輪に長い鎖を付け、その先を座敷牢だった頃の名残と思われる漆喰の壁から出ているフックに引っかけてこちらにも南京錠をかけた。これで彼女は地下を自由に動き回れるが上階には上がれない状態になった。
わたしは目出し帽を被り直して、石橋緑の手の拘束と目隠しを外した。その瞬間彼女は甲高い悲鳴を上げた。耳をつんざくような高音がわたしの鼓膜を襲う。あまりのうるささに堪らず卓袱台を叩いた。大人しくなった。
重たい空気が訪れる。
わたしはこれからのことを頭の中で整理して、彼女に伝えなければいけないことを言葉にした。
これは誘拐で今から二週間ここで生活してもらうこと。金の取引が終われば開放するし食べ物も飲み物もちゃんと用意する。それから外の廊下の突き当たりにある風呂とトイレも自由に使っていいと伝えた。万が一にもないとは思うが、一応逃げ出そうとは考えるなと釘を差しておいた。
なにか質問はあるかと訊ねたが返事はなかった。これで話は終わりと言わんばかりにわたしは立ち上がり部屋の外に出た。それから階段を上がって一階に出た。地下へと続く扉にだけ厳重な施錠をする。
目出し帽を取り頭を振る。
「はあ……」
ようやく人心地付いた気になった。
これからのことを考える。
わたしはいつも通りの生活を心がけなければならない。わたしの生活環境に変化が起きれば訝しむ者があらわれるかもしれないからだ。特にママに感づかれるようなことはあってはいけない。だから誘拐した石橋緑を四六時中見張っていることはできない。必要最低限のことは彼女自身にやってもらわなければならない。
居間に移動して冷えた部屋を温めるため暖房のスイッチを入れた。部屋のカーテンを閉めようとしてわたしは気がついた。窓の外には雪がちらついていた。
――地下牢は冷える。暖がなければ石橋緑は凍え死ぬのではないか。
地下には冷暖房がない。かといって火を焚くことはできない。目を離している間に変な気を起こされるかもしれないし、火事にでもなったら目も当てられない。そうでなくても換気に難がある地下の部屋では二酸化炭素や一酸化炭素で中毒死してしまうだろう。
わたしは寝具がしまってある押し入れの戸を開けて毛布を探し、ついでに食べ物と飲み物も持って、目出し帽を被り直してもう一度地下におりた。
扉を開けるとさっきと同じ体勢のままの石橋緑がいた。ただ先程と違いスンスンと鼻を鳴らしながら涙を流していた。それを尻目にわたしは持ってきた飲食料を木棚に置いた。それが終わったあと石橋緑の正面に跪いて毛布を渡した。彼女はそれを受け取らなかったので畳の上においてこれで暖を取れとそっけなく言った。彼女からの返事はなくただただ静かに涙を流すだけだった。
わたしはしばらく石橋緑を見つめていた。こうして間近で見るとやはり綺麗だという感想しか出てこない。でも着ているコートと服は汚れていた。誘拐前に彼女は盛大に転んでいたし、地面を転がし生け垣に突っ込んだり、地面を引きずりもしたから汚れるのも当然だ。
それを見てわたしは大切なことに気づいた。
「ねえ――」
わたしは石橋緑に服と下着のサイズを訊ねた。彼女は泣くのを止めて顔を上げた。驚愕と困惑がないまぜになったような表情でわたしを見る。得体の知れない者にいきなりそんなことを訊かれれば誰だってそうなる。
きっとわたしが好奇心でそれを聞き出そうとしていると勘違いしているのだろう。
わたしはわざとらしくため息を付いた。
「着替えを用意してやるから、サイズを教えて欲しいってだけだよ。それとも二週間同じ服、同じ下着を着続けるつもりなの?」
すると石橋緑は逡巡し、渋々といったふうにわたしの要求に応じた。それからわたしは棚に置かれたものは自由に手を付けていいと説明してから改めてなにか欲しいものはあるかと訊ねた。さっきの今で会話ができる状態になったとは思えないが念のためだ。
しばらく待っても返事はなかったので、わたしは立ち上がり石橋緑に背を向けた。
すると、
自由――
石橋緑がわたしの背に投げかけてきた。
「なに?」
振り返ると、さっきまで泣いていた彼女は赤く腫れた瞳をこちらに向けていた。
「自由」
毅然とした態度でもう一度それを口にした。
それがさっきの質問に対する答えだと気づくのに少し時間を要した。そのことに思い当たったわたしは思わず笑ってしまった。
そりゃそうだ。彼女が今一番欲するものはそれ以外ないに決まっている。それにしても肝が座っている。先程までひどく怯えて泣いていた彼女の姿はとうにない。この数分でどういう心境の変化があったのかは分からないが、自分が丁重に扱われていることを悟って強気な態度に出たのかもしれない。
そしてそれは間違っていない。これはあくまで誘拐だ。金が入れば彼女は開放する。それまでは丁重に扱うつもりだ。
わたしは何も言わず部屋を出た。
多くの誘拐が失敗に終わる理由はいくつかある。その最たるものは犯人が何度も誘拐した者の家族の家に電話することだとわたしは考える。いくら警察に言うなと脅しても絶対に警察に連絡が行く事は分かりきっている。つまり何度も連絡を入れることは逆探知のリスクを負うことになる。だから石橋緑の家に誘拐した旨を伝える電話は一度きりにする。
最初の一回で、娘は預かったこと、要求する金額、受け渡し場所と日時。これらすべてを伝える。
先程石橋緑に二週間後に開放すると説明したが、受け渡しの日時まで二週間もの期間を取った理由は三つある。
理由その一。石橋慎太郎に娘が本当に攫われたことを理解させるため。数日家に帰って来ないだけでは、ちょっと外泊しているだけだと勘違いされる可能性がある。いくら育ちがいいとは言え石橋緑は年頃の娘だ。親に行き先を告げずに一日二日家をあけることだってあるだろう。
理由その二。金を用意できるだけの時間を作ってやること。石橋氏ともなれば多少の金ならすぐにでも用意できるかもしれないが念のためだ。
理由その三。わたし自身の緊張を取り除くため。誘拐してすぐに金の受け渡しに及べばこちらがつまらないミスをしてしまうかもしれない。今は努めて冷静に振る舞っているが内心ではまだ緊張が続いている。心を落ち着かせ、この状況に少しでも慣れておきたい。
失敗は絶対に許されない。これはあくまでわたしの目的を達成するための一つの手段にすぎない。こんなところで躓いてはいられないのだ。
わたしはテーブルの上にノートを広げた。今日の出来事をそこに記した。
…………
石橋緑を攫った翌日の朝。バイトにでかけようと車に乗ったところで後部座席に見知らぬカバンが置いてあるのを見つけた。明らかに彼女のものだった。
「しまった」
わたしは慌ててカバンを漁った。すると案の定中から彼女のスマホが出てきた。電源は入ったままだった。端末のセンサーをタッチしても指紋認証エラーとかで中を見ることはできなかった。一旦電源をオフにしてバイトに出かけることを優先した。わたしはあくまで通常通りの生活を遂行しなければならないからだ。
でも不安だった。まだ誘拐の電話は入れていない。もし昨晩から今朝にかけて不審に思った石橋緑の両親がこのスマホに連絡を入れていたら……、いや、入れているに違いない。親の立場になって考えたら、ある程度子どもを自由にさせるとしても、最低限の安否確認ぐらいはしているはずだ。
石橋緑を誘拐した時の状況を考えれば、その日家に帰ってくるはずだった娘がなんの連絡もなしに帰ってこなかったら不思議に思わないはずがない。
でも石橋緑は電話に出ない。メールも既読にならない。なにせスマホはずっと車の中に置きっぱなしだったから。もしかしてもう捜索願が出されているかもしれない。スマホのGPSの位置を調べられていたらどうしよう。
――ダメだ。
今は考えても仕方ない。とにかく平常心を保つことに努めた。だがその日はずっと気が気じゃなかったのは言うまでもない。
――――
家に帰るとすぐに石橋緑にスマホの指紋認証をさせた。それから履歴等を調べた結果、親からの連絡が来ていないことが分かってホッと胸をなでおろす。でもその事が逆に疑問を生じさせた。
親からの連絡も友人からの連絡も来ていないなどありえるのか、と。
わたしは黙って座っている石橋緑を見た。彼女は目を伏せじっとしている。
石橋緑にはわたしが思っている以上に複雑な事情があるのかもしれない。でもそれはわたしには関係ない事だ。相手の家庭の事情など知ったことではない。ただこちらの目的を遂行するのみだ。
わたしはロックの解除されたスマホを持って一階に上がった。そのままそれを使って彼女の父親である石橋慎太郎に電話をかけようとして――手を止めた。医者は多忙だ。携帯には出られないかも知れないと思い直して父親の携帯ではなく自宅に直接電話をかけることにした。
五回目のコールでつながった。
『はい。石橋です』
上品な女性の声だった。わたしが慎太郎はいるかと訊ねると、予想通り仕事で留守にしていると言う返答が来た。ならば石橋緑の母親はいるかと訊ねた。
『私がそうですが、なんの御用でしょう?』
相手はどうやら母親だったらしい。
わたしは一度大きく深呼吸して要件を伝えた。なるべくゆっくりと相手に理解できる速さで喋った。わたしが喋っているにも関わらず石橋緑の母親は『え? あなたなんですか?』、『悪戯ならやめてください』、『切りますよ?』と声をかぶせてきた。
わたしは聞こえないふりをしてこちらの要件をすべて伝えて電話を切った。それからスマホをビニール袋に入れてその上から金槌で叩いて徹底的に破壊した。これでもう彼女の居場所を特定する術はない。