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第6話 狂いゆく道程 4

 週四回わたしはサナトリウムの清掃業をすることになった。毎回別の場所に行かされるのかと思っていたけれどそうではないらしい。でも今はそれが嬉しくもあった。なぜならサナトリウムには石橋緑がいる。彼女と同じ空間にいられると思うとなぜか心が晴れやかになった。とはいえサナトリウムには常に石橋緑の姿があるとは限らなかった。場合によってわたしの担当場所が変わることもあったのでそのせいかもしれないし、そもそも彼女が毎日ここに通っているという保証もない。暇なときに手伝いをやっているだけなのかもしれない。可能性などいくらでも考えられる。


 将来は病院で働くつもりなのだろうか。だったらわたしと同じ大学ではなく医大に行くべきだ。

 もしかすると石橋緑は医師免許を取得できるほど頭は良くなくて、でも親は自分の病院で働かせたいと考えていて、だから結果として事務職員として採用しようという結論に至ったのかもしれない。いやでも、事務職員は医師の資格がなくてもよいのだろうか。そもそも石橋緑に病院を継がせなくたって婿養子でも貰えば病院の経営は安泰じゃないか。

 彼女は美人だ。そこに跡継ぎという付加価値が付くなら、親が「娘はいらんかね?」と言えばどんな男でも首を縦に振るに決まってる。だがそれはひどく哀れでもあった。女を政治的な駆け引きに利用するなんて前時代的にも程がある。でもわたしにそれをとやかく言う権利はない。石橋家には石橋家のやり方がある。それに、この病院で沢山の人が雇われているのならその人たちのことも考えなければいけないのだから、病院の存続を一番に優先することも理解できなくはない。


 そんな調子でいつものように思案に耽っていると、


「うわっ!?」


 突然ポリッシャーが動かなくなってわたしはたたらを踏んだ。思考の海に浸っていたわたしは強制的に現実世界へと引き戻され、背後に「きゃっ」という女性の短い悲鳴を聞いた。振り返るとそこには廊下に四つん這いになっている女性がいた。どうやらポリッシャーのコンセントに足を引っ掛けてころんだらしい。


「すいません! 大丈夫ですか!」


 わたしは急いでその女性に駆け寄った。


「はい。なんとか」


「ならよかっ……」


 顔を上げてわたしを見るその女性は石橋緑だった。思わず息をのんだ。ついさっきまで彼女のことを考えていただけに驚きを隠せなかった。


「あの、なにか?」

 

 彼女の顔に見惚れていたら訝しがられてしまった。


「いえ、なにも」


 わたしが立ち上がると彼女も立ち上がった。「お仕事の邪魔をしてすいません」と頭を下げて石橋緑は廊下を小走りで駆け、階段をおりていった。


 同じ大学で同じ講義を受けているはずなのに石橋緑はわたしに気が付かなかったようだ。彼女にとってわたしは同じ教室にいるだけの存在、認識する価値のない存在なのだろう。元来人間の脳とはよほど注意して意識しなければその情景のすべてを記憶するのは難しいという事は知っている。そうだと分かっていても少し寂しい。作業着姿でマスクもしているからそれと分からなかっただけかもしれないと自分言い聞かせるのは惨めな気分だった。


「くだらない」


 わたしは小さく漏らした。


 一度だって言葉を交わしたことのない相手にわたしは何を期待しているのか。


 自分がああしたいこうしたいと思っているだけでそれが実現するほど世の中は甘くない。そう思うのなら自分が率先して動く必要がある。もちろん世の中に絶対はない。行動したからと言って必ず結果が出るわけじゃない。でもベットしなければいつまでたっても勝率はゼロのままだ。


 階段を駆けおりる彼女の後ろ姿。黒くて長い美しい髪が跳ねる。それが少し蠱惑的にも感じられて胸の奥がざわざわした。


 そろそろ次の“大ネタ”がほしいと思っていたところだ。もしかするとこれは神がわたしに与えてくれたチャンスなのかもしれない。きっとそうに違いない。神はわたしに実行せよと言っているのだ。


 …………


  家には二階はないが地下がある。その場所はもともと座敷牢として使われていた。だけど、法改正によって個人宅に監禁目的の部屋を設けることが禁止になり、改修を余儀なくされ生まれ変わった。それまでなかったトイレや風呂場が新設され、電気も通して、座敷牢だった部屋は一応生活できる部屋としての体裁を整えた。というのはわたしが幼い頃おばあちゃんから聞いた昔話だ。


 そして今、話にしか聞いていなかったその場所に足を踏み入れようとしている。


 玄関を入ってすぐの廊下を真っすぐ進んだ突き当たりにある扉を開けると幅の狭い階段が現れた。それが地下におりる階段だ。壁のスイッチに手を触れるとパチンと音を立て明かりが灯る。電気はちゃんと通っていたけど、時折明滅を起こすそれは蛍光灯が切れかけていることを知らせていた。階段をおりると三メートルほどの廊下が伸びていて、向かって左側の壁と正面突き当りに木戸が一枚ずつあった。


 左の扉の先は和室のような作りになっていた。八畳ほどの部屋だが天井が低く、畳数よりも狭く感じた。そういったところからもここがもともと座敷牢だったことが窺える。部屋には木棚と、壁にはたたまれた状態の卓袱台が立てかけてあるだけで他には何もない。


 突き当りの扉の先は二メートル四方の洗面所で左右には扉。右がトイレで左が風呂場になっていた。地下室にこんなものを造って排水はどうなっているのかと思ったが、そもそもこの家は擁壁の上に建てられていて、この地下が実質一階のようなものなのだ。だからきっと排水をポンプで上げるような仕組みは必要ないのだろう。


「さて」


 下見を終えたわたしは気合を入れた。


 わたしはこれから行う計画のために地下の掃除を始めた。畳の部屋は雑巾がけして、トイレと風呂も掃除して一応水がちゃんと流れるか確認する。切れかかっていた箇所の蛍光灯はすべて新しくした。それらの作業は一日仕事になったが苦ではなかった。普段清掃業のバイトをしているせいもあっただろうが、それよりもこれから始めようとしている計画に対する期待感によるところが大きかった。


 これからわたしがやるのは誘拐。攫う相手は石橋緑だ。彼女に直接の恨みはないが、彼女にはわたしの捜索の糧となってもらう。

 誘拐するだけなら石橋緑である必要はないが、彼女でなければならない理由があった。それは彼女を利用することで間接的に石橋慎太郎に復讐を果たすことだ。大切なひとり娘が誘拐されたとなればあの男は精神的なダメージを負うだろう。そのとき一緒にお金も要求すれば懐事情にもダメージを与えることができる。これできっとお姉ちゃんの無念も晴れるだろう。しかもそれが成功すれば手に入れたお金はわたしのもの。一石で二鳥も三鳥も鳥を落とせるならそれに越したことはない。


 わたしはすでに勝ち誇った気分で買い物にでかけ、必要なものを一式買い込んで家に帰った。あとは計画を実行するのみとなった。


 …………


 週四回のサナトリウムの清掃は約一ヶ月続いたあと唐突になくなった。清掃業者の出入りが中止になったわけではなく、わたしに異動命令が下ったのだ。


 これではわたしの計画が……と思ったが、これは別の意味でチャンスだとポジティブに捉えることにした。

 わたしは何度もここに出入りしていたため不特定多数の人間に顔を知られてしまっている可能性があった。だからある程度間を開けて、サナトリウムの人たちがわたしの存在を忘れた頃に計画を実行することにした。どのくらいの期間を空けるのが適切かは分からなかったが、最低でも一ヶ月は雌伏の時としようと考えた。


 時を経て、十二月中旬――


 夕方になってから家を出てサナトリウムに向かった。


 F市は雪に見舞われていた。水分を含んだ雪が地面に積もり、車のタイヤや人に踏み荒らされシャーベット状になっていた。サナトリウムのある場所は小高い山の上にあり、人の出入りがあまりないため雪は積もる一方だった。それでも利用者がまったくいないわけではないし、移動手段を持たない利用者のためにバスも出ているので、必要最低限の除雪はなされていた。それでも中古の軽にはきつい道のりだった。


 駐車場に車を止めて外で石橋緑が来るのを待った。彼女はいつもバスでここに通っていることは把握済みなので、バスの到着時間に合わせてそこで待っていれば必ずあらわれる。

 問題は今日石橋緑がサナトリウムに来ているかどうかだった。仮に来ていなかったとしても定期的に通うつもりだった。そうすればいつかは彼女に出会える。かじかむ手に息を吹きかけこすり合わせながらその時を待つ。


 サナトリウムの玄関から一人の女性が出てきた。ガラス張りの施設から漏れる灯りがその女性の姿を浮き彫りにする。地味なグレーのコートに身を包む黒髪の女性。遠目からでも彼女が石橋緑だと分かった。

 それを確認したわたしは目出し帽をかぶり、革の手袋を装着する。ポケットに忍ばせた香水用のスプレーボトルをコートの上から撫でて確認する。バス停はサナトリウムの入り口から少し離れたところにある。シェードが設置されているバス停の後ろにはちょうど門壁があってサナトリウム側からはこっちの様子を確認することはできない。だが懸念はある。それはバスが到着するまでにことを済ませる必要があるということだ。歩きながら携帯を取り出して時間を確認する。バスの到着予定時間まで十分もない。

 わたしは急ぎ足で彼女に近寄っていった。


 石橋緑が停留所のベンチに腰を下ろして肩にかけていた荷物を脇に置いた瞬間、わたしは彼女に声をかけた。


「すいません」


「は……い?」


 目出し帽姿のわたしを見上げる彼女は明らかに動揺し、その端正な顔を歪ませた。彼女が危険を察知する前にコートのポケットからスプレーボトルを取り出してその顔に向かって吹きかけた。成分は何の変哲もないただの水だ。しかしただの水であってもそれをいきなり顔に吹きかけられれば誰であろうと驚く。反射的に危険なものだと錯覚し、それが水だと気づくまでには時間がかかる。その隙に石橋緑の自由を奪い攫うといのがわたしの策だ。

 言葉にすると実に単純だがリスクはある。普段は落ち着いている彼女でも自分の身に危険が迫れば叫び暴れるだろう。わたしにそれを御せるかどうかが問題だった。


 石橋緑は叫び声こそあげないが必死に抵抗を見せた。右手で顔を抑えながら左手を振り回してわたしを近づかせないようしている。その程度の抵抗ならば問題ないと判断したわたしは振り回す彼女の腕を取ってこちらに引き寄せようとした。だが失敗した。彼女の腕をつかんだ瞬間大きく振り払われてしまった。お怯えを増幅させた彼女は勢いよく立ち上がり走り去ろうとしたが自分が座っていたベンチに足を取られ反対側に勢いよく転倒し気を失った。


 どうやら運がわたしに味方したようだ。


 わたしは急いでベンチの上に置かれた石橋緑のバッグをたすき掛けして、気を失った彼女を運ぼうとした。だけど重くて抱えられなかった。非力な自分を呪うと同時にマズい状況にあることを悟る。冷たい外気に反して額を冷や汗が伝う。


 急がなければバスが来てしまう。わたしは一瞬のうちに判断して、停留所の裏手の門癖の隣の生け垣のような場所に彼女の体を転がして突っ込んだ。そうして自分は一度その場を離れて身を隠す。程なくしてバスがやってくる。バスは停留所に誰もいないことを確認するとそのまま通り過ぎていった。

 それからわたしはサナトリウムの駐車場まで移動して自分の車をバスの停留所に横付けした。生け垣の中の石橋緑はまだ気を失ったままだった。彼女の足を持って生け垣から引きずり出してそのまま車の後部座席に引きずり込んだ。

 車での移動中に正気を取り戻し暴れ出さないとも限らないので、念のため手足を縛り、猿ぐつわ代わりに捻ったタオルで彼女の口結んで塞いだ。それからアイマスクで目隠しを施した。目隠しはわたしの家の場所を特定させないためだ。

 それらが終わるとわたしは後部座席のドアを閉め目出し帽を剥ぎ取って車に手をついて一息ついた。吐き出される白い塊が闇に霧散する。


「暑い」


 コートを脱いでも寒さを感じることはなかった。わたしの身体はそれほどに上気していた。


 こんなことをしている場合ではない。せっかくここまでやり遂げたのに誰かに見られでもしたらすべてが水の泡だ。急いで車に乗り込み我が家を目指した。


 ()く気持ちを落ち着かせ安全運転を心がける。バックミラー越しに後部座席に横たわる石橋緑を見る。


 人は何事もない日々を過ごしていると、これからもずっとそうだと思いがちだ。でも実際はそうじゃない。突然なんの前触れもなく不幸が襲ってくることだってある。


 わたしがそうだったように……


 それにしても愚かだ。冬場の十七時ともなれば辺りは真っ暗だ。わたしが彼女の親だったら絶対に迎えに来る。あるいは院長の娘という特権を使って誰かに送らせるくらいのことはやる。でもそのおかげでわたしはこうして彼女を誘拐することができたのだ。今はただそのことに感謝しよう。

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