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第5話 狂いゆく道程 3

 大学入学を機に一人暮らしを始めた。親元を離れ遠くの地に……というわけではなく、場所は実家から車で三十分ほどの距離にある持ち家だった。実家から大学に通うことは十分可能だったけど、経験として一人暮らしがしてみたかったのだ。それにいろいろと“実験”をするのにも一人のほうが楽だから。


 その家にはもともとおばあちゃんだけしか住んでいなかった。でもおばあちゃんはわたしが大学に進学する少し前に他界し、その家は家主を失うことになった。ママは家主のいなくなった家をどうするかで頭を悩ませていた。男親のいない我が家ではママが稼ぎの根幹を担っているためおばあちゃんの家の管理に時間を割く余裕はほとんどない。貸し出そうにも立地条件が悪く、おそらく借り手はつかないだろうという結論にいたり、いっそ手放してしまおうかということになったところにわたしが異を唱えた。


 大学卒業までの四年間だけでいいからその家に住まわせてほしい――と。


 はじめは渋っていたママだけど、わたしの押しの強さに屈する形で首を縦に振ってくれた。縦に振らせたとも言う。


 家は擁壁の上に建てられた木造の平屋。周りにも似たような造りの家がある。家と家の間隔は広く常に田んぼか畑、あるいは空き地を挟んでいて、騒音トラブルとは無縁のような場所にあった。人通りも少なく車もほとんど通らない。とても同じ市内だとは思えないような場所だ。


 だがそれがいい。静かな環境は自分の作業に没頭できるから。


 一人暮らしはわたしが思っている以上にハードで、最初の一ヶ月は家と大学のことで手一杯だった。自由を感じる余裕などなく、趣味にいそしむ時間も皆無だった。

 その生活に慣れ始めたのはゴールデンウィークを過ぎた頃だった。比較的早いほうだと思う。その理由はここがまだわたしの昔からの生活圏内だったことと、子どもの頃に何度かこの家に遊びに来たことがあるから勝手を知っていたからだろう。もしここが本当に右も左も分からない場所だったら慣れるのにもうしばらく時間必要だったに違いない。


 この生活に慣れ始めたわたしは徐々に周りの景色、環境に目を遣る余裕が出てきた。そんな折にわたしは一人の女性の存在を認識するようになった。同じ大学で同じ講義を受けているその女性は今までもたしかにそこにいたのだが、それに気がつけなかったのはわたしにそれを意識するだけの余裕がなかったからだ。


 肌は白磁のように白く、切りそろえたきれいで長い黒髪は京人形を思わせた。でも幼い印象はない。背は高く線の細いその人は美人そのもので、昔話の挿絵に出てくるお姫様のようだ。なんて陳腐な形容表現なんだと言われても反論できないほどお姫様そのものだった。別に豪奢な十二単(じゅうにひとえ)を着ているわけでもないし、頭に釵子(さいし)を挿しているわけでもないけど、たしかにわたしの目にはそう映った。それもそのはずで、彼女はこの地域一帯では知らぬ者はいない石橋総合病院を経営する石橋慎太郎の娘で、いわゆるお金持ちのお嬢様だったのだ。彼女はいつだって輝いていた。彼女の周りに有象無象が群がるとその輝きはより一層増した。その光景はまるで土石の中でキラリ輝くダイヤのようだった。


 彼女――石橋緑を目にしたこのときの感情をわたしはいつも持ち歩いているノートに書き記した。


 石橋総合病院は街の目立つ場所にそびえ立っている。近くを通れば林立する建物よりも頭一つ飛び抜けていて、一番高いところにある己を誇示するかのごとく燦然と輝く病院の看板が嫌でも目に入る。それはわたしの脳の奥底にある忌まわしき記憶の発端を作った魔城でもある。


 わたしにはお姉ちゃんがいた。お姉ちゃんはわたしが幼い頃事故に遭って死んだ。学校から帰る途中で誤って道路に飛び出してしまい、そこを偶然通りかかった車に轢かれたのだ。お姉ちゃんは直ぐに病院に運ばれたが助からなかった。そのとき運ばれた病院が石橋総合病院だ。


 手術を終えた執刀医が手術室から出てきて「助かりませんでした」と告げる。


 ママはその場で泣き崩れ、パパは拳を強く握って涙を堪えるようにして天を仰ぐ。当時まだ子どもで、おぼろげながらにしか死というものを理解できていなかったわたしは二人のように心の底から嘆き悲しむことはできなかった。それよりもお姉ちゃんの死を淡々と告げた青いスクラブ姿の男がひどく印象的だった。彼は悲しむでもなく、同情するでもなく、とても落ち着いていた。

 どうしてそんなに冷静でいられるのか理解出来なかった。人が死んだのに。自分が助けられなかった命なのに悔しがる素振りもない。しかも彼は『助けられなかった』ではなく『助かりませんでした』と言った。結局は他人の命。所詮は他人(ひと)事なのだ。


 あの悲劇が起こったのはその後しばらくしてからの事だった。


 これはあとから知ったことだが、パパはもともとお姉ちゃんに不埒を働いていて、お姉ちゃんが死んだことによってその歪んだ愛情の矛先がわたしに向けられることになったのだ。

 わたしはその事実を知った時にはじめてお姉ちゃんの命を救ってくれなかった医者に対して憎悪という感情を抱いた。


 あの医者がお姉ちゃんの命を救っていればパパの歪んだ愛情の矛先がわたしに向くことはなかたはずなのに……と。それはとても残酷で身勝手な考え方だけどそう思わずにはいられなかった。


 それでもその医者に少しだけ感謝している部分もある。わたしの命を救ったのはその医者だったからだ。


 わたしがパパに襲われているところをママが見つけてくれて、直ぐに救急車を呼んでくれた。運ばれた先は奇しくも石橋総合病院。お姉ちゃんを救えなかった医者のいる病院にわたしが運ばれるとは何たる皮肉。でもそれほどにママは気が動転していたのだと思う。わたしの身に起こった惨状を見て冷静でいられたならそれはそれで問題だ。


 結果わたしは一命を取り止めることはできた。でもそれはママがわたしを早くに見つけてくれたから助かったとも言える。つまりわたしの命を救ってくれたのはママの功績によるところが大きい。

 じゃあ病院の存在意義とは何だ。結果が偶然に左右され、あまつさえお姉ちゃんの命を救えなかった病院に価値なんてあるのか?


「うぐ……」


 嫌なことを思い出し、吐きそうになるのを必死に堪える。石橋緑から始まる連想ゲームのように嫌な記憶が顔をのぞかせる。


「か、考えないようにしよう」


 でなければこちらの身が持ちそうにない。ましてや講義中に悪阻なん自体は避けなければならない。わたしはかぶりを振って講義に集中するよう努めた。


 …………


 大学が夏季休暇に入り一人暮らしにもだいぶ余裕が出てきた。そこでわたしはアルバイトを始めることにした。

 理由の一つはお金が欲しかったからだ。

 ママはわたしの大学の入学祝いという名目で中古車を買ってくれた。たとえ中古車でもママが結構無理をしていたことは分かっていた。でも甘える以外の選択はなかった。都会と違ってF市のような地方民にとっては足となるそれは必須アイテムだからだ。

 ほかにもわたしが今いるこの家の維持費にいくらかお金を出しているわけで、その上お小遣いをくれなんて言えなかった。だからその分は自分で稼ぐしかない。

 もう一つの理由は新しい経験が欲しかったからだ。見聞を広げ自分の糧にする。少しでも面白い小説を書くために……


 選んだのは嘱託清掃員の仕事。本社からその時々でいろいろな場所に行かされ清掃業務にあたる。同じところで同じような作業を繰り返す系の仕事より得られるものは多いだろうと思ったからそれに決めた。他にもそういった嘱託系の仕事はあったが清掃業を選んだのはその中でも一番楽そうだったからだ。大学と家のことに加えて三足のわらじを履く生活をすることになるのだから最低限楽ができる選択をするのは賢い選択なはずだ。


 仕事の内容は単純なものだったが結構な重労働で、初日の次の日は見事に筋肉痛になった。でも人間は慣れる生き物だ。一人暮らしに慣れていったように清掃業にもすぐに慣れていった。そしてこのバイト作業中にわたしはあの石橋緑を目撃することになった。


 ――――


 わたしの初めての勤務場所は家から車で一時間ほどの場所にある隣市にあるサナトリウムだった。海を望む小高い丘の上にあるサナトリウムへ続く道は急勾配が多く、坂を上がるためにペダルを強く踏み込むと車体がしゃっくりするように一瞬だけ波打った。バイト代を貯めて新しい車を買う必要があるかもしれないと思った。


 頂――と言ってもそんなに高くない――にあるサナトリウムは清潔感漂う白い建物だった。一階の入り口部分は全面ガラス張りでオープンな造りになっていて、待合室から受付までが丸見えだ。こりゃ大変そうだと思いながら視線をさまよわせて歩いていると、先に来ていた三人の先輩に迎えられた。


 サナトリウムは二階建てでそこまで広い場所ではなかった。最初は先輩に仕事のイロハを教えてもらい、二週間ほどで一人で仕事を任されるようになった。

 わたしたちは東西の一階と二階で持ち場を分けてそれぞれ仕事に専念した。わたしの担当場所は西側の二階だった。病室や事務室の類は業務外なのでやることは廊下と階段あとはトイレの清掃くらいのものだった。本社から来た先輩が持ってきてくれたポリッシャーと呼ばれる機械で廊下を磨いていく。

 本当にこの仕事を選んでよかったと思う。作業中は基本誰とも会話をする必要はないから、こういった単純作業をしている合間にほかのことを考える余裕がある。集中していなければミスを犯すようなものではないので存分に思案に耽る。そうしていればあっという間に時間が過ぎてもう終業時間だ。


 先輩たちと合流して掃除道具の片付けを始める。現地集合現地解散なので本社に戻る先輩一人以外の三人は直帰となる。「おつかれさまでした」と声を掛け合い、さあ帰ろうとしたところでわたしの目に飛び込んできたのは一人の女性――石橋緑の姿だった。


 ――どうして彼女がここに?


 このサナトリウムは一介の大学生が足を運ぶような場所ではないはずだ。でもその疑問はすぐに払拭された。


 ――ああ、そっか。


 わたしはこのサナトリウムが石橋総合病院の分院として設けられた場所なのだということを思い出す。だから院長の娘である彼女がここにいても何ら不思議ではないのだ。

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