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第32話 タナトスと踊れ

 林ミサキが自らの罪を認めた。これでもう、思い残すことはない――




 弁護人の粋な計らいでわたしは一時的に勾留を解かれることになった。もちろん無罪放免になったわけではない。わたしがこれから向かう場所は病院だ。


 手錠をはめらたまま車に乗せられる。手には、それがお前の精神安定剤だと言わんばかりにノートと鉛筆を持たされる。


 連れてこられた場所は目がくらむほどの白い部屋だった。ここはF市外にある精神病院の特別診察室。最初は市内にある石橋総合病院内の精神科に運ばれる予定だったが、加害者を被害者遺族の病院に連れて行くのは問題じゃないかとなり、ここに連れてこられた。


「すぐに先生を呼んでくるからここで待っていなさい」


 わたしをここに連れてきた刑事はそう言って部屋を出ていった。


 部屋にはデスクとチェアがワンセットに患者用の丸イスが一脚。わたしはそこに座り手にしていたノートと鉛筆をデスクの上に置いた。室内を見回す。デスクの傍には書類が詰まった扉付きの書棚がある。壁には窓が一つ。外側には窓柵が見える。本来の用途は外からの侵入を防ぐためのものだが、この場所においてのそれは逆だろうなと思った。視線をさらに上げ壁沿いにずらすと隅にある監視カメラと目が合った。特筆すべきものはその程度だ。殺風景という言葉がよく似合う部屋だ。ものがない分白い部屋はより一層白く目立つ。白はクリーンなイメージを抱くが同時に精神的不安を生じさせる色でもある。


 一人部屋に取り残されたわたし。なんて不用心なんだと思うと同時に心のなかでほくそ笑む。


 手錠をしているから大丈夫。あるいはカメラで見張っているから問題ないと思ったのかもしれない。第一発見者であるわたしに疑いの目を向けることができなかったあの若手の刑事といい無能な人間が多すぎではないかと思う。

 もちろんそれを分かった上でこちらも行動していた。最初に第一発見者を装って警察と相まみえた段階で、こちらから先手を打って石橋緑の名前を出すことは決めていた。そして小説を絡めた話をすることも。そうすれば警察は絶対にそっちに興味を惹かれると思った。なぜならF市に住む人間のほとんどが石橋緑が行方不明者であることを知っているから。特に警察であればその人物に飛びつくと思った。石橋緑の遺品を敢えて一緒に埋めたのにもちゃんとした理由がある。

 白骨化した人間の身元を割り出すのには結構な時間がかかる。その間にわたしのところに何度も警察がやってきて事情を聞かれることを恐れていた。だから身元を割り出す助けになればと思ったのだ。

 それら作戦がうまくいったのかどうかは定かではないが、結果的に警察はわたしを深く追求してくることはなかった。


 ミステリの世界ではいつだって警察は引き立て役だ。無能であればあるほど探偵役の主人公が際立って見える。警察が本気を出したら、この世にあるほとんどすべてのミステリ小説はものの数ページで事件が解決してしまう。そんなの面白くもなんともない。


 わたしがここに連れてこられた理由は、取調べ中にわたしがちょっとした騒ぎを起こしたからだ。それで精神の異常を疑われたけど、()()()()()()()()()()()()。こうなることを期待して。

 あのまま何もしなければわたしはずっと警察に拘束されたままだっただろう。それが嫌だったからわたしは一芝居打った。刑罰の知識は多少なりともある。だから、わたしは絶対不起訴にはならないことも理解しているし、そうなったら絶対に無罪にもならないことも分かっている。異常者のふりをしたってそれは変わらない。なぜなら重要なのは犯行当時に心神喪失状態だったかどうかであって今現在の精神状態は関係ないからだ。


 ただ、わたしは無罪になりたくて芝居をしたわけじゃない。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()。それだけだ――


 取り調べの際のやり取りを思い出す。


『小説のネタにするために犯行に及んだと言うが、だったらどうして似たような事件ばかり起こした?』


 年配の刑事にそう指摘されてわたしは気づいた。いや、実際には少し前から気が付き始めていた。

 一言で犯罪と言っても軽犯罪から重犯罪まで様々。そのどれもがミステリのネタとして扱える。むしろ様々な経験を積むことが目的ならわたしは多種多様な犯罪行為に手を染めるべきだったのだ。しかし実際にわたしがやったのは人を殺める行為ばかり。しかもそのほとんどが絞殺だ。ほんと芸がない。


 最初は本当に小説を書くために殺人という行為に手を染めた。だがそれはいつしか建前になっていて“死”そのものを求めるようになっていた。

 一瞬で命を終わらせるのがもったいないと感じ、じわじわと時間をかけてゆっくりと死に至らしめることで、一秒でも長くその快楽に浸っていたいという身勝手な欲望。首を絞める行為にこだわっていたのもそのためだ。

 いつからそうなっていたのかは分からない。あるいは最初からそうだったのかもしれない。わたしのパパが異常者であったように、その息子であるわたしもまた異常者だったのだと言われても素直に納得できてしまうから。


 渾身の小説を書いて、それをネットに投稿して、それは誰にも相手にされなくて……

 その現実を目の当たりにしたあと、わたしの中の創作に対する意欲は徐々に薄れていった。それでも死に対する欲は消えなかった。

 わたしが最後に犯した罪。小柴先生を殺したときのことだ。あのときわたしはその顛末の一切をノートに取らなかった。これが何を意味するのかは明白だった。


 ――わたしの精神は完全にタナトスに支配されている。


 そうだ。


 わたしにはその自覚があった。心のどこかでそれを受け入れていた。そうでなければ、あの小説に『タナトスと踊れ』なんてタイトルを付けるわけがない。


 そして今なおその欲望はわたしの中に渦巻いている。その混沌としたどす黒い欲望が時折発露しそうになる。でもそれを発散する機会というのにはなかなか恵まれない。


「いや、それは嘘だ……」


 わたしはデスクの上に置いた鉛筆に目を向ける。警察にもらった鉛筆の先は丸くならされている。


「これじゃ頼りない」


 視線をずらせばデスクの上に四角いペン立てを見つけた。そこには数種類の文具ささっている。手を伸ばし、その中から黒のボールペンを抜き取る。


 ――現実から目を背けるのはやめよう。欲望を満たす方法ならある。最初からそのつもりで異常者を装ったのだから。 


「ここにはわたしという存在がいる」


 死に魅了されたわたし自らが死を経験することは、他人で言う自分を慰める行為にも等しい。でもそれをやったら二度とわたしは現実世界に戻ってくることはできない。

 人はどうして一度しか死ねないんだろうと思う。でももしかしてわたしは死後の世界から奇跡の復活を遂げるかもしれない。そうなったらそれこそ世界で初めての人間になれる。人類史上においての初めてを経験したことになる。ならば試さない手はない。


 自由の利かない両手でなんとかボールペンのキャップを外し、あらわれた黒光りするその先端を自分に向ける。両手で力いっぱい握りしめる。一度大きく深呼吸する。そしてわたしはそれを思いっきり喉元に突き立てた。喉がカッと熱くなった瞬間目の前に紅い花びらが散った。力尽きるまでそれをグリグリとねじ込む。息ができなくなった。その苦痛はやがて快楽と変わる。


 わたしがこれまで命を奪ってきた者たちもこんな思いをしていたのだろうか? ――だったらみんな幸せだったに違いない。こんなにも気持ちいいのだから。


 背後で扉が開く音がした。複数の音階が混ざり合って耳朶に響く。すでに言語を認識する能力は失われていた。


 悪が悪のまま、なんのお咎めもなく終わる結末には納得がいかない者もいるだろう? みんなが好きなのはバッドエンドや胸糞悪い終幕ではない。


 いつだってハッピーエンドが至高だ。


 魂が脳天を突き抜ける。それは紛うことなき昇天。わたしを支配する多幸感。これが、わたしが思い描く究極のハッピーエンドだ。

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