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第3話 狂いゆく道程 2

 暗い部屋。スッと襖の開く音でわたしは目を覚ました。眠い目をこすりながら開いた襖の方に目をやると、四つん這いで近づいてくるパパの姿があった。


「なにやってるの?」


 わたしがそう問いかけるとパパはハッと顔を上げる。


「大丈夫だよ。怖くないよ。今から女にしてあげるからね」


 その言葉の意味はまったく理解できなかった。でも優しい言葉とは裏腹に下卑た笑みを浮かべるパパを見て、なにか異質なものを感じたわたしは布団から出て後退る。でもすぐに壁にぶつかって逃げ場を失ってしまった。


 その時初めてパパの手に包丁が握られているのが分かった。開け放たれた襖から漏れ入る光を受けて、それはギラッと鈍く光った。わたしがそれに気づいた事に気づいたパパはそれを見せびらかすようにわたしの目の前にかざす。


「逃げなくていいんだよ。痛いのは最初だけだから。優しくするからね」


 パパは明らかに常軌を逸していた。頼るべき存在、自分を守ってくれるはずの存在が、今はわたしを脅かす存在と化している。


 パパがわたしの足首をつかみ自分の方に引き寄せる。わたしはそれに抗おうとしたが大人の力の前では無力。わたしの身体はあっという間に引き寄せられ、パパの左手がわたしの口を覆う。


「大丈夫だよ。怖くないよ。最初は痛いかもしれないけど、それも一瞬で終わるはずだから」


 怖くないよ―― 怖くないから―― とパパはわたしに言い聞かせるように何度も同じ言葉を繰り返しながら、わたしのズボンを下着ごとずり下ろす。


 これから何が起こるのか。わたしはどうなってしまうのか。でも確実に恐ろしいことが起こるということだけは本能的に理解していた。恐怖が全身を緊張させる。


 ――いやだ! いやだいやだいやだやだやだやだやだ。怖い。助けて。だれかわたしを……


 その瞬間下腹部に悪魔のような激痛が走った。


「んぐぅぅぅぅがあああああああああああああああああ――」


 ――――


「――ああああああああああああっ!!」


 自分の叫び声で奈落の底へ向かって落ちていたわたしの意識が現実に引き戻される。


「クソッ! 消えろっ!」わたしは幼き日に体験した災厄を打ち消そうと何度も机に頭を叩きつける。「消えろっ! 消えろっ! 消えろっおお!!」額が赤く腫れ上がり痛みの感覚がなくなるまで打ち続けた頃にようやく落ち着きを取り戻しつつあった。


 フラッシュバック。時折何かをきっかけにしてあのときのことを思い出しては苦しむことがあった。最近では思い出すことは少なくなっていたのに、子どもの虐待のニュースに誘発されたようだ。


 思い出したのが一人のときだったことがせめてもの救いだ。もし大勢の前でそれが起こっていたら、そんなことになればみんなわたしを軽蔑するだろうから。


「どうしてわたしだけがこんな目に……」


 肩を喘がせながらつぶやく、と同時にわたしはふとあることに気づいた。


 ――もしかして、わたしに必要なのはこれかもしれない。


 それはまさに天啓とも呼べるひらめきだった。


 小説にはゼロから物語を創造しなければならないというルールはない。例えば、世の中には実際の事件や事故、作者が実体験した事をもとに制作されたものは星の数ほど存在する。つまりこの体験を小説のネタにしてしまえばいいのではないか。――もちろんそれだけでは足りないし、今のわたしがそれをそのまま文字に起こしただけではただの日記になってしまうだろう。


 でも文章力は書き続ければ嫌でも身につくものだ。そして足りない分はこれから補えばいい。


 小説好きの人間なら誰もが知っている人物、太宰治。彼は何度も自殺や心中を繰り返し、その時のことを赤裸々に綴った小説を書いている。彼のフリークの一部には、『彼は小説のネタにするためにそういったことを繰り返していたのではないか』という意見を言う人もいる。


 小説の題材を得るために自らを窮地に追い込む。その手を悪事に染める。ならばわたしもそれに倣おう。


 要は、事件に遭遇したことがないからその肌感覚が分からないのら、それを()()()()()()()()()()だけなのだ。


 窓の外。いつものように騒音を撒き散らすバイクがわたしの家に近づいてくる。飛んで火に入る夏の虫とはまさにこのことだ。


 わたしは席を立ちカーテンを開けて窓の外を眺める。夜の闇を切るヘッドライトの光が見える。それは夜の静寂を切り裂く無粋な音を鳴らしながら、家の傍にある県道をものすごいスピードで駆け抜けていった。


 文才もない、想像力もない、無い無い尽くしのわたしにはそれしかない。わたしは意を決するように拳を強く握りしめた。


 …………


 最初に思いついたのは、例の迷惑ライダーがいつも通る道にテグスのようなものを渡して張るという方法だった。最近読んだ小説の中に同様の方法で殺人を行うものがあってそれを真似ようと思ったのだ。だが偶然にも同じ頃にそれとまったく同じことをやって補導された少年の事が全国ニュースで流れた。少年はただのイタズラ目的だったと自供したが、当然イタズラの範疇を超えていた。未然に防がれたからよかったものの、一歩間違えれば怪我ではすまなかったんだぞと非難轟々だった。


 それを見てわたしは思いとどまった。理由はそれが少年のイタズラだと発覚した経緯だった。少年がイタズラに使用したのは釣り糸で、自分のお小遣いでホームセンターで購入したものだったらしい。ホームセンターで釣り糸はあまり動かない商品で、ましてや小学生の男の子が一人でそれを買いに来ていたため店員の印象にすごく残っていたとのことだった。また少年には遠出するための手段がなく最寄りのホームセンターだったことも犯人の早期発見につながったのだという。


 わたしも似たような境遇だった。わたしの方が先にそれをやっていたら全国ニュースになっていたのは少年ではなくわたしだっただろう。でもそのおかげで特殊な方法は特定が容易になることを知った。


 人を殺す方法は簡単な方がいいと言うことだ。シンプルイズベスト――つまりそういう事。


 …………


 わたしがそれを実行に移したのは翌年の夏のことだだった。策を思いついてから約一年後。たっぷり時間をかけて準備した。


 用意したのはブルーシートと十二本のボトル入りシャンプー。それらを一度に購入すれば怪しまれると思いシャンプーは月に一度それぞ別の店で購入した。ブルーシートはいかにもそれを使いそうな行楽シーズンを狙って購入した。ブルーシートはそのままだとダメなのでカラースプレーを使って黒く塗った。夜、部屋でそれを広げてその上に購入しておいたシャンプーをワンプッシュ出す。電気を消して部屋を暗くして懐中電灯の光をその部分に当てる。粘性の液体は光を受けて白くきらめいた。


「これじゃダメだ」


 このまま地面に撒いたらヘッドライトの光で異変に気づかれてしまう。そうさせないためには大量に購入したシャンプーもまたブルーシート同様黒く染める必要がある。わたしは部屋の電気をつけてすべてのシャンプーに絵の具を混ぜて黒くする作業に没頭した。


 爆音ライダーのコースはすでに下調べ済みだった。バイクは車が少なくなる夜に車通りの少ない道を選んで法定速度を超えたスピードで走り回っていた。それはこちらとって好都合だった。人通りの少ない場所を選ぶということは他人の目につきにくくなるということだから。わたしはキツめのカーブがある場所を選んでそこに用意しておいたブルー(ブラック)シートを道路に広げてその上に黒いシャンプーを空けて薄く引き伸ばした。

 真っ直ぐの道に仕掛けても意味はない。バイクはカーブを曲がる時車体をカーブに沿って傾けるということは調べ済み、転倒させるにはその瞬間が狙い目だ。


 準備が終わってわたしは道の端の茂みに身を隠した。すると間もなくあの不快な音が聞こえてきた。毎年やってくるあの忌々しいエンジン音だ。


 バイクがカーブに差し掛かった瞬間、シートの上の液体にタイヤを取られ転倒し、激しい音を立てながらアスファルトの上を滑っていく。夜の闇の中ではっきりと見えた火花は手持ち花火の比ではかった。

 転倒したバイクはガードレールにぶつかって止まり、投げ出されたライダーは地面に転がって動かなくなっていた。


 わたしは早鐘を打つ心臓を抑えながら茂みから出て状況を確認する。地面に倒れるライダーに恐る恐る近づいて、持っていた懐中電灯で顔を照らす。


「え?」


 ライダーは女だった。わたしは衝撃を受けた。そうと分かったのは彼女がヘルメットを付けていなかったからだ。夜道を他人の迷惑も考えずに暴走るという野蛮な行為を行っているライダーのことだからてっきり男だと思っていた。

 頭から血を流して倒れる女。茶色の髪が流れ出る血で額や頬にべっとりとくっついていた。


 その時女の目がくわっと開かれた。


「うわっ!?」


 わたしは驚いてその場に尻餅をついた。死んだと思っていた女はまだ生きていた。尻餅をついいた瞬間に手放してしまった懐中電灯を拾って再び女を照らす。


 必死で力強くあろうとする双眸がわたしを捉えていた。左腕を持ち上げわたしに向かってゆっくりと伸ばす。その唇がかすかに動いて、「助けて」と言っているように見えた。


 ――助ける? 冗談じゃない。


 わたしはこの女の行為に迷惑していたのだ。きっと迷惑していたのはわたしだけじゃない。ご近所さんも、バイクが暴走するルート沿いに住む住人たちはみんなみんな迷惑していたに違いない。だからこれは報いなのだ。


 わたしは助けない。わたしは何も悪くない。


 まるで電池が切れたかのようにに女の腕が落ちた。そしてまぶたがゆっくりと下がっていく。


 どうしてだかその光景から目がはなせなかった。懐中電灯に照らされる血を流す女の顔は美しさとは無縁の状態にも関わらず、その尊顔に吸い込まれそうなほどの妖艶さを感じていた。何もかに突き動かされるように手を伸ばす。その手が彼女の頬に触れるかどうかのところではっと我に返り、慌てて手を引っ込めた。


 わたしはちょっとだけ冷静になる。こんな奴に同情する必要なんてない。


「は、ははッ……」


 乾いた笑みが漏れる。本当に自分が笑ったのかと思うほど奇妙な声だった。でもそれはたしかにわたし自身の声だ。なぜならここにいるのはわたしだけだからだ。


「ザマァみろ」


 わたしは命を落とした女に吐き捨てるように言った。


 いくら人通りが少ないとはいえ誰もこの道を通らないとは限らない。こんなところを誰かに見られでもしたら言い訳もできない。わたしは急いでトラップを回収して自転車にまたがり家を目指した。このときの感情を忘れないように、自分の感じたことを頭の中で何度も何度も反芻しながらペダルを漕いだ。何者かに後ろ髪を引かれるような感覚を感じながら……


 家に着くと急いでさっきの出来事を鉛筆でノートに書き記す。それでようやく一仕事終えた気分になった。


 わたしが犯したはじめての罪。殺人。それは高校二年の夏。蒸し暑い夜のことだった。


 …………


 昨夜の犯行は翌日の夕方のローカルニュースで報道された。扱いは小さく、キャスターは事故があったとだけ告げた。


 事故……。事故――?


 次の日の朝刊でもそれは事故として取り上げられていた。


 スピードを出しすぎてカーブを曲がりきれずに転倒しそのまま誰にも発見されないまま夜が明け、朝、車で出勤中の男性が現場を発見し救急車を呼んだ。しかし救急車が到着したときにはもう彼女は命を落としていた。という筋書きになっていた。


 でも実際は違う。直接手を下したわけじゃないが、きっかけを作ったのは間違いなくわたしだ。


 その日の夜。これでもうわたしを邪魔する奴はいないと晴れやかな気持ちで執筆作業に勤しむ。すると聞こえてきたのはうるさいバイクのエンジン音だった。


 なぜ? どうして? 音の原因は排除したのに?


 そんな言葉が頭の中で反芻する。


 わたしが殺した女は毎夜騒音を鳴らして走るライダーとはまったく無関係の人間だったと分かるのはそれから数日後のことだった。

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