第23話 狂いゆく道程 18
「先生。起きてくだい。先生?」
小柴先生に呼びかけながら張りのある頬をペチペチと叩く。それでも彼女は目を覚まさなかった。気を失っているはずの先生は静かな寝息を立てながらどことなく幸せそうな顔をしていた。楽しい夢を見ながら眠っているのかもしれない
このまま幸せな夢をなんて悠長なことは言ってられない。時間をかけることはリスクしかない。一応彼女の母親には『少し遅くなる』というメールを送っているが、時間をかけ過ぎれば「いくらなんでも遅すぎだ」となる。特に彼女の家族は仲がいいのでその可能性は大だ。娘の帰りが遅くなりすぎれば家族の誰かがスマホに連絡を入れてくるだろう。返事がなければ次は学校だ。それで連絡がつかなければ警察という流れになるだろう。
「早く目を覚ませ。バカ!」
焦れたわたしは幸せな夢に浸る小柴先生を無理やり覚醒させようと頬を思いっきり引っ叩いた。それでも彼女は目を覚まさない。
背は腹に変えられない。わたしは彼女を目覚めさせることを諦め、このままロープの反対側を引っ張ることにした。そうすれば嫌でも彼女は目を覚ます。
ロープを持って勢いよく引っ張ると小柴先生の首にかかった輪っかが締まる。
「カッ――ぐぎ!」
息苦しさによってか小柴先生の身体がほんの少し反応した。構わず縄を引く力を強めると彼女の身体は頭上の梁を支点にして持ち上がる。この時点で小柴先生は意識を取り戻した。だが状況が飲み込めておらず、首に圧迫感を感じて混乱するばかりだった。
最終的に小柴先生の身体は三十センチほど浮き上がった。宙に浮いた彼女はがむしゃらに暴れ始め縄を引き戻されそうになる。わたしは急いで手にした荒縄を近くの柱に括り付けた。結んだ輪が上にずれていかないよう対策済みだ。
宙ぶらりんになった小柴先生は足をばたつかせながら振り子のように揺れる。
「うっ――ぐガギっ!!」
小柴先生の喉から痰が絡んだような掠れた声が漏れる。彼女の身体が揺れ動くたび引き戸の梁がミチミチと嫌な音を立てる。彼女よりも先に築ウン十年のこの家のほうが音を上げてしまうかもしれない。わたしは揺れる彼女の身体を正面から優しく抱きしめるように抑える。わたしの頭がちょうど彼女の豊かな胸に埋もれる。彼女を見上げなだめるように言う。
「大丈夫。暴れないで。すぐに楽になるから」
小柴先生は身体を抑えられたままなお必死の抵抗を止めようとしない。そんな彼女のばたつく足が運悪くわたしのみぞおちに入った。
「おぅふっ!?」
わたしは彼女の身体を抱きしめたままバランスを崩しその場に膝を付きそうになった。それは図らずも、彼女の身体にわたしの全体重を乗せて下に引っ張るような形になった。
「ごがっ――ゲっ!?」
小柴先生が一層奇妙な声を上げると同時にメキメキっと梁が嫌な音を立てて折れた。その衝撃でわたしたちは抱き合うようにしてブルーシートの上に倒れた。
「こほー! こほー!」
小柴先生は反射的に首元の縄を緩め必死で酸素を取り込もうとする。エバンスノットは結び目を簡単に移動させることのできる結び方だから輪っかを緩めるのは簡単だ。
――ヤバイ。このまま縄を解かれて逃げられでもしたらすべてが終わりだ。
わたしは急いで荒縄をつかもうと彼女の身体に纏わるそれに手を伸ばしたが誤って彼女の胸ごと鷲掴みにしてしまった。
「!? ――だ、れ!? い、いやあああああっ!!」
この時初めて小柴先生はわたしの存在に気づいたようだった。目出し帽姿のわたしはさぞ奇っ怪に映ったに違いない。わたしは彼女が混乱している隙に縄だけをつかみ直して思いっきり引っ張った。
「にょほおおぉぉぉっ――!!」
小柴先生が緊張感の欠片も感じないマヌケな声を上げる。ジタバタとのたうちながら荒縄を解こうと試みる。
「だぢげ……で……。ママ、パパ……」
小柴先生のぷりっとした唇から漏れるのは両親に助けを求める声だった。その必死の形相が石橋緑とだぶる。彼女とはまったくの正反対。似ても似つかぬはずの彼女の顔が。
そう、これだ! これこそがわたしの求めていたものだ! わたしには女の初めてを奪うことはできないが人間の初めてを奪うことはできる。それは同時に人間の最後でもあるが、その時に見せる狂態は、他の誰にも見せたことのないわたしだけが知っているその人の本性とも言える。
それを拝めるわたしは特別な存在――
ロープを引く力をより強めると小柴先生の上体がグワンと起き上がる。それでは彼女の首は締まらない。わたしは立ち上がり、ロープを引きながら彼女の胸のあたりを片足で押し返した。ロープはピンと張り詰め彼女の首が締まる。
「ひっくっ!!」
小柴先生がわたしの足を退けようとして叩く。でもそれはまったく痛くないパンチだった。彼女はすぐに叩くのをやめて首の縄の方にをなんとかしようと試み始める。でも無駄だ。
わたしはロープを引く力を強め、彼女の上体を押し返す足を踏ん張る。
小柴先生は次第にチアノーゼを起こし顔面から血色が失われていく。死が近い。この瞬間がたまらなく好きだ。脳内からどばどばと吐き出されるエンドルフィンが全身を駆け巡っているような気がした。ロープを引く手が震えているのは筋肉の痙攣か、それとも昂奮か。
このエクスタシーをもっと感じていたい、もっとほしいと思うわたしの気持ちを裏切るかのように唐突に終わりがやってくる。
小柴先生の口から粘ついた唾液が溢れ出る。それが鼻水と混ざり合い、わたしの脛の上に垂れた。ほんのりと温かくてくすぐったいような、でもナメクジの這うような気持ち悪い感触がした。
「う……グブブブブ……」
小柴先生が小さなうめき声を上げる。次第に彼女が自分の方に引こうとしていたロープに掛かる力が弱まっていき……だらりと腕が垂れ下がった。
わたしがロープから手を離すと小柴先生の上体がバタッと音を立て後ろに倒れた。彼女はもう、動かない。
「はぁ……、はぁ……」
重労働を終えた後みたいに肩で息をする。でも余韻に浸っている場合じゃない。わたしには時間がない。今すぐ小柴先生を運び出さないといけない。
遺体となった小柴先生の体をビニールシートの中央に寄せ、シートで包み込むように覆い隠す。そのまま彼女を持ち上げ家の外に運び出し、正面に停めてあった彼女の車に乗せる。忘れ物がないか確認してその車で学校近くに隠しておいた自転車を回収し、無理やり車の中に押し込んだ。
車を発進させて人気のない山へ向かう。なるべくわたしの家から遠い場所、でも自転車で帰ってこれる距離にある場所。わたしはすでにそんな場所を見つけていた。だから後はそこへ一直線に向かう。
四十分かけて目的の場所に到着。山の麓にある路肩に車を適当に止める。まず最初に自転車を下ろしてそれを適当な場所に隠す。次に車から彼女のカバンを取り出して肩にかける。それからビニールシートに包んだ彼女を引きずりながら草木生い茂る道なき道を分け入る。
山に登るわけでもないし、小柴先生の遺体を隠したいわけでもない。暗い森の中に深入りすると自分の身が危ないので、それらしい木を見つけたところで立ち止まる。
ビニールシートを展開して、さっき家でやった要領で木の枝を利用して小柴先生の身体を宙吊りにする。次に家から持ってきた踏み台を適当に蹴飛ばして転がしておく。この踏み台は清掃業務中に見つけた廃棄物の中から見つけて回収しておいたもので、そこから足がつくことはないはずだ。
最後の仕上げとして彼女の荷物の中からスマホを取り出して電源を入れる。彼女の母親宛に『ごめんねママ。さようなら』とメッセージを送信してカバンの中にしまって木の根元に立てかけた。
カバンの中からすぐさま返信を伝えるバイブの振動音が伝わる。
わたしはビニールシートを手早く畳んで持って急いでその場を離れ、隠しておいた自転車で家に帰った。
…………
小柴先生の遺体は翌日のうちに発見された。自殺をほのめかすようなものはわたしが母親宛に送ったメッセージしかなく、警察では自殺と他殺の両面から捜査が行われることとなった。
わたしの送ったメッセージと普段小柴先生が送っていたメッセージではその文体に差異がある。あの短時間で彼女の文体を真似るなどわたしには不可能だ。警察はその違いに気づいているはずで、ほぼ他殺だと確信しているだろう。
でも、世間の見方は逆だ。その理由は小柴先生が務めていた学校で彼女が受けていた仕打ちにある。
堀川先生が小柴先生に辛くあたっていたことは結構な数の生徒たちが知っていて、小柴先生が生徒たちからの人気が高かったこともあり、小柴先生はイジメを苦に自殺したんだと騒ぎ立てたのだ。一方教師陣はそれに異を唱える形となった。
学校あるいは自分たちのメンツを守るのに必死な教師陣と、自殺した先生のために真実を伝えようとする生徒たち。その軍配は後者に上がった。世間からの非難に耐えかねた堀川先生が教職を辞するという形でこの問題は一応の幕引きとなった。
もちろん警察の捜査はそんな単純なことで終わったりはしない。この事件は現在進行系で捜査中。捜査の手がわたしに伸びないことを祈るばかりだ。
……………………
…………
事件の興奮が冷めやらぬ中、わたしのもとに一通のメールが届いた。それはわたしが例の小説を投稿したサイトからだった。長々と畏まった文章を読み上げる。
要約すると今月をもってサイトが閉鎖されるという内容だった。今月はもう残り十日しかない。ずいぶんと性急な話だ。
わたしは久しぶりにそのサイトを訪れることにした。IDもパスワードも忘れてしまっていたのでマイページを閲覧することはできなかったが投稿された作品を見ることはできた。タイトルの横に慎ましやかに添えられた閲覧者数を示す数字は相変わらず『0』のままだった。
滑稽すぎて笑いも起きない。時間の経過とともに腐り果てネットの隅に追いやられるゴミを体現しているようだった。でもまあ閉鎖されるその瞬間までは付き合ってやろうと思い、それから毎日サイトを訪れることにした。異変が起きたのは閉鎖の五日前のことだった。それまで『0』だったPV数が『1』に増えていたのだ。
――どうして今になって?
その理由は簡単だった。その投稿サイトが閉鎖されるという情報がニュースサイトに取り上げられ、ミーハーなユーザーたちが興味本位で押し寄せたのだ。それでブーストがかかって、それまで見向きもされていなかった投稿者たちの小説がいろいろと発掘され始めていたのだ。
ドクンと自分の心臓が跳ねる音が聞こえた。感じたのは歓喜と同時に恐怖。
多少アレンジが加えられてはいるもののそこに書かれている犯罪行為は間違いなく実際にわたしが起こした事件の数々だ。その情報がついに他人の知ることとなったのだ。
――もしわたしの小説を読んだ人間が警察だったら? それでなくても不審に思った読者が警察に通報したら?
この小説はやけに実際に起きた事件に酷似しているな。しかも犯人にしか知り得ない情報まであるぞ――といったふうにわたしの罪にいとも容易く気づいてしまうだろう。しかも警察にかかればアカウントの開示など造作もない。そしてそこには当然わたしの個人情報が記載されている。それを見られたらわたしはあっという間に警察に捕まってしまう。
画面上のマウスカーソルが小刻みに揺れていた。震えているのはマウスを握るわたしの右手だった。それを押し留めるように左手でギュッと右腕をつかむ。
――大丈夫。
だって、たった一人だ。もし警察に見られることになったら大勢の人間によって検閲されるはずだから数字が『1』で終わるはずがない。今さらながら、わたしは事の重大さに気付かされた。でも後悔はしていない。だってこうでもしないとわたしには小説が書けなかったから。
そして投稿サイトが最終日を迎える。サイトが閉鎖されるその瞬間までわたしの小説の閲覧者数は『1』のままだった。




