第14話 狂いゆく道程 11
ここからが本番。普通に殺すつもりはない。この女には騙された恨みがある。その恨みを存分に晴らさなければわたしの気が収まらない。
ついでにかねてからの疑問も解消することにする。人は殴っただけではそんなに簡単には死なないという。一方で殴り殺すことは可能だという意見もある。どちらが正しいのかをこの女を使って実験する。
ベッドの上でぐったりしていた詐欺師の女はわたしが余計なことをしているうちに素面に戻りつつあった。女がわたしを視界に収めるとその表情がこわばり身じろぐ。しかし手足を縛られていてはどうにもならない。
そんな女を横目に、わたしは万が一返り血を浴びたときのことを考え服を脱ぐことにした。すると女は先程にも増して激しく身を捩り始める。拘束が外れた時のことを警戒し女から視線を外さずに一糸まとわぬ姿になる。すると彼女は目を大きく見開いてその動きをピタリと止めた。こわばっていた身体がわずかに弛緩し、安堵したような様子が見て取れる。
これからこの女の身に起こることは絶望でしかない。どこにも心休まる要素などないはずなのに。
――まさか!
と思い後ろを振り返るがそこには誰もいない。当たり前だ。鍵は締めたしチェーンだってかけた。この女が一人暮らしだということも事前に確認済みで、来客があればインターホンの音でわたしにも分かる。この家にいるのはどう考えたってわたしたち二人だけだ。
女の方に向き直る。
わたしの行動が滑稽に映ったのか、彼女は視線を彷徨わせている。だが時折その視線が特定の場所に留まるのを見逃さなかった。今一度その視線をよく確認すると、彼女が何を気にしているのか分かった。女の視線は裸身となったわたしの下半身に注がれていた。
そこには男性的特徴を最も端的に表す陽根はない。
この女はおそらくわたしが服を脱ぎ始めたのを見て自分が犯されるのではないかと思ったのだ。でも、裸のわたしを見てそうならないことを確信して安堵したのだろう。そんな希望を打ち砕くように、わたしは彼女の上に飛び乗って渾身の力で顔面を殴った。
わたしのいきなりの行動に女は面食らう。
「ンー! ンー!」
相当痛がっている。女は自分が無事では済まないことを改めて理解したようだ。再度顔面に拳を叩き込む。
「ンーっ!」
口をふさがれては叫び声もくぐもって聞こえるだけだ。女性の叫び声を聞くと妙に居た堪れない気持ちになるけどこれなら安心だ。わたしは何度も何度も執拗に女の顔を殴った。殴り続けた。血と涙と内出血と鼻水とで女の顔はグチャグチャになっていく。商売道具である顔をこんなにされてはもう働けないだろう。お嫁にもいけないだろう。この女がどれくらいの稼ぎだったかは知らないが、身につけているものを考えればそれなりであることは想像できる。そして住んでる場所は普通のマンション。節約できるところは節約して相当溜め込んでいるに違いない。でもそれも終わり。お前はもう誰からも相手にされない惨めな人生を送るのだ。ずっと一人で孤独とともに生きるしかない。お先真っ暗。
「……ま、この先なんてないけどね」
かわいそうなんてカケラも思わない。むしろ胸が空く思いだ。それにこの女を殴るたびに自分が気持ちよくなる感覚がある。石橋緑のときほどじゃないけどその感覚は快楽と言って差し支えない。
わたしは夢中で殴った。次は顔だけでなく腹や胸も殴って痛めつけた。女は咳き込みながら縛られた手足で暴れる。だがそれもしばらくのことで、女が一切の抵抗をやめて静かになったのを見て手を止める。
――もしかして死んだ?
わたしは女の体の上から身を離しベッドから降りた。
仰向けの女は息も絶え絶えで小さく身体を上下させていた。どうやら人間はそう簡単に死ぬことはないようだ。わたしがプロの格闘家なら話は別だろうけど。
休憩を兼ねてここまでの経過を常に携帯しているノートに書き記していった。女の様子。自分の状態、心情、感想。それが終わったあと喉に渇きを覚えたわたしは勝手に台所を漁ってコーヒーを淹れて飲んだ。
休憩を終えたあとは蹴りを導入した。
顔、腹、背中、腕、足。蹴り上げ、踵で踏みつける。腹の上で両足ジャンプしてみたらわたしはバランスを崩してその場で転倒してしまった。ベッドの上でよかった。
腹いせに女の顔面をもう一度蹴り上げた。肌を打つ小気味良い音、空気の破裂音が耳に心地よい。
一方的な格闘戦は続いた。気がつけば女は呻き声すら出さなくなっていた。かろうじて呼吸はしていたがひどく浅いし間隔も長い。虫の息というやつだ。これ以上わたしが何もしなくてもこの女は死ぬ。専門家でなくてもそれが分かるほどに女の命は風前の灯だった。
わたしは止めとばかりに女の顔を殴った。確実に息の根を止めるために殴り続けた。しばらくして女はピクリとも動かなくなった。呼吸もない、心臓も止まっていた。
かなりの労力を要した。興奮状態が収まると先程までは感じなかった手や足に痺れるような痛みがじわりとあらわれる。その痛みは嫌な痛みじゃない。その震えはわたしに達成感をもたらしている。
気がつけばもう一時間以上も時が経っていた。
腕っぷしの弱い人間でも時間をかければ人は殴り殺せる。人によってはもっと簡単にそれをやってのけるだろう。結論、非効率すぎる。わたしは血で汚れた手をタオルで拭って実験結果をノートに記した。
ベッドの上にうずくまった状態で動かなくなった女を見据える。醜い姿となった女。人を騙した人間の末路としてはこんなものだろう。
でもまだ終わりじゃない。ここからは偽装工作の時間。
わたしは女の拘束を解いて身体を仰向けにした。それから着ている服に手をかけて引き裂いてビリビリにする。あらわになった下着を無理やり引っ張ってずらして肌を露出させる。次にカバンの中から試験管型のプラスチック容器を取り出した。保冷剤と一緒に持ち歩いていたため容器の中の白い液体はまだ若干凍っていた。半解凍状のそれをスポイトで吸い取る。本来ならもっと粘ついているはずのものは水っぽい頼りない液体と化していた。精子は冷凍保存できるという話だが、それは単純に冷凍庫に入れればよいというものではないのかも知れない。
スポイトで吸い取ったそれを女の股ぐらの穴に差し込んだ。球を押すと中身の液体は勢いよく女の体内へ吸い込まれていった。
これでこの女は強姦されたあとなぶり殺しにされた、あるいは殺したあとで死姦されたように見えるはずだ。体液は宮下君のものだが彼が捕まることはないはず。DNA鑑定はあくまで警察の持っているデータベースと照合するために使われるだけなので、宮下君に前科がなければ彼は捕まらない。仮に捕まったとしてもそれはそれで彼と別れるための口実になるだけだ。
わたしは軽くシャワーを浴びて脱いだ服を着た。証拠隠滅のため時間が許す限り部屋を徹底的に掃除した。ゴミはすべてビニール袋に入れてから自分のカバンにしまった。女の財布から騙し取られたお金とこの計画に要した経費を拝借し、カバンから家の鍵を抜き取った。
念には念を入れ最後にもう一度軽く部屋の掃除をして、髭を付けて伊達メガネを装着してトレンチコートを羽織る。最後に冷房をつけて温度を限界まで下げて外に出た。鍵を締めたあとそれを乾いた布できれいに拭いてドアポストに入れた。
外はまだ暗かった。過去二回と違って今回は街中での犯行だ。人の目がそこかしこにあって誰に見られるかわからない状況。変装はしている。証拠も残ってない。あるのは女の体内に残した宮下君の体液だけ。誰もわたしが犯人だとはわからないはずだ。幸い外の廊下に人はいなかったから女の部屋から出てくるところは誰にも見られていない。あとはマンションの外に出るだけ。その時、キーンというベルの音が響いた。エレベーターが到着した時に鳴る音だ。最初は外階段から下りるつもりだったけど、思い直してしてわたしはエレベータの方に向かって歩いた。ここでエレベーターに背を向ければ明らかに怪しく見えると判断したからだ。
ゆっくっりと扉が開くと一人の女性の姿が見えた。彼女はエレベータから出てきてこちらに向かって歩いてくる。大丈夫だ。問題ない。平静を装って歩みを進める。内心では心臓が早鐘を打っていた。女とすれ違う。すれ違いざまにわたしの緊張が伝わるのではないかと懸念したが女は何事もなく通り過ぎていく。よしよしと心のなかでガッツポーズを決める。
エレベターに乗り一階のボタンを押して前を見据える。――と、心臓が飛び出るかと思った。扉が閉まるその向こうでさっきの女が立ち止まってこちらを振り返っていたのだ。しかも違和感を感じ取ったのか首を傾げているではないか。
大丈夫。落ち着け――
女がこちらに来る気配はない。そのまま扉が閉まってエレベーターは下降を始めた。一階に到着。マンションを出てわたしはダッシュでその場を立ち去った。いくら平静を装っていてもこんな時間帯に外を出歩いている事そのものが怪しい。警察に見つかれば有無を言わさず職質コースだ。この状況でそれだけはなんとしても回避しなければならない。なぜなら今わたしが持っているカバンには、あの女を縛っていたテープや、嘔吐物を拭き取ったタオルなどのゴミが入っているのだから。一刻も早くこの場を去らなければならない。
…………
その事件が世間に報じられたのは四日後のことだった。三度目の殺人を経ても警察は依然わたしに容疑を向けることはなかった。そもそも報道されているニュースを見る限りでは警察は三つの事件が同一人物によるものだとは毛ほども思っていないようだ。それぞれの被害者に関係性はないし、間隔が空いているからそこまでたどり着けていないのかもしれない。
翌日の昼。昼食のカップ麺にお湯を注いでいると、テレビではマンションの一室で女性の遺体が見つかったというニュースが取り上げられていた。いきなり耳に入ってきたその言葉に動揺してしまったわたしは誤ってテーブルにお湯をこぼしてしまった。台所から布巾を持ってきてテーブルの上を片付ける。
番組は全国ネット。わたしの犯した殺人が三度目にしてついに全国区となった。番組では今回の事件について三人のコメンテーターが己の意見を述べていた。
「犯人は頭のいかれた男に違いない」
「過激なプレイの最中に誤って殺してしまったのではないか?」
「同じ男として許せないですね」
などなど、MCを務める男性が止めるまで三人は持論を展開し続けていた。わたしはそれらの意見に耳を傾けていてあることに気づいた。彼らはみんな犯人が男であることを前提に意見を述べていた。そのニュースでは死んだ女の体内から男性の体液が検出されたこという情報が出ていない。ただ、背の低い髭の男を見たという目撃情報はすでに判明しているようだった。
それは間違いなく変装していたわたしのことだろう。そしてその証言をしたのはあの時すれ違った女だ。
髭を生やしていれば男……まさに固定概念だ。
わたしはふと昔読んだ小説のことを思い出していた。それは一九〇〇年代初頭に海外で発売されたものの翻訳版で、遺産争いの最中に起こる殺人事件とその謎に挑む探偵を描いた小説。結論から言うと事件を起こしていたのはその家に住む最年少の住人、十歳ほどの少女というオチだった。探偵も家の住人たちも子どもが犯人なわけがないという前提で話が進むので物語内ではほとんど犯人である少女の行動にスポットが当たらない。ただ捜査を進めていくうちに探偵は家に住む大人たちには絶対に犯行が不可能なことだけがわかっていく。消去法によって容疑者の数が減っていき最終的に探偵がまさかな――と少女に疑いを向けるのだが、実際にそのとおりだったのである。
この小説が発売された国では、その内容が世間を震撼させ、相当話題になったらしい。一方でわたしはそれの何が面白いのかまったく理解できなかった。でもそれはわたしが今の時代に生まれた人間だから理解できなかっただけなのだ。
時代や国、環境よって価値観は変わる。この小説が発行された当時、その国では子どもが重罪を犯すはずがないという固定概念のようなものが蔓延していたのだろう。小説に登場する大人たちのように読者もまたそう思っていたのだ。だからこそ彼らは衝撃を受けた。今でこそ女性の犯罪者や少年犯罪は当たり前のものになっているが、当時の人間たちにとってそれは予想外の結末だったのだ。
テレビに映るこの男たちもそれと同じで犯罪行為は男の専売特許だと思っているに違いない。コメンテータの中に専門家、あるいは女性がいれば犯人が女である可能性を指摘できたかも知れないが、出演者の三人はろくに知識もない男連中だ。
女にだって凶悪犯罪を起こすことは可能だ。女にだって人を殺す権利はあるはずだ。
たしかに現代日本における凶悪犯罪の加害者は男であることがほとんどだ。でも女だって負けず劣らずである。例えばそう、有名なところで言えば阿部サダだ。彼女が犯した犯罪は常人の及ばぬ奇行に満ちていて、当時だけでなく今なお――
「うっく――!?」
唐突に吐き気がこみ上げてくる。あの忌まわしき記憶が蘇りそうになる。わたしは頭をゆすりなんとかそれを押し除ける。阿部サダ事件に触発されたのだろうか。
創造力はないくせに想像力だけはたくましい。せめて逆だったらと損な頭の作りをしている自分を呪った。しかしそうも言ってはいられない。ミステリ小説を書くために自分の体験したことをネタにすると決めたからには、わたしはどんなに凶悪で恐ろしいことも受け止めていかなければならない。
テレビを消して気持ちを落ち着ける。カップ麺の蓋を開け、箸を突っ込んで麺を持ち上げると、麺は完全に伸び切ってスープがほとんど空になっていた。




