ふたり
私の住む街の最寄り駅の近くに小さなカフェがある。飲み物とちょっとした食べ物が置いてあるだけの小さなカフェだ。
私は仕事帰りによくこのカフェを利用する。仕事の雰囲気をここで落とし、一息ついて家路につくのだ。
家に帰ると夫が待っている。彼の仕事は家でするため私自身の仕事の雰囲気を持ち込みたくない。彼に気を遣ってしまう。
カフェに入るとカウンターに立つ女性が声を掛けた。
「いらっしゃいませ」
「ブラックを、ホットで……」
「畏まりました」
女性は手早く準備をし私に向き直った。
「四五〇円です」
「ICカードで……」
「はい」
機械の上にカードを翳すとピロリンと音が鳴り、レジが反応した。レシートをとって彼女は私に渡し、後ろを向くと出来上がった珈琲のカップを乗せたトレーを笑顔で渡す。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
何だか自然とお礼を言い、私は席を探した。ありがたい事にこの時間は人が少ない。奥の壁際の席が空いている。私はそこに向かった。
私の向かい側の近いテーブルでは女性が一人、パソコンと格闘していた。顔を上げると彼女の横顔が見える。こちらは一人席だが向こうは二人席だ。珈琲を飲みながらチラリと前を見ると、彼女はモニターを見ながら懸命にキーボードを叩いていた。何を書いているのか、こちらからは全くわからないけど、なかなか大変そうだ。
私が二口目を飲もうとした時、彼女の向かい側にスーツ姿の男性がそっと立った。トレーには珈琲とココアが入っている。
彼は自分の前にトレーを置くとパソコンの向こうの彼女を見た。その目がとても優しくて、私までがドキッとしてしまう。だが彼女はそれに全く気付かない。
それから彼は彼女に声をかける事なく、カバンの中から文庫本を一冊取り出し、横向きになると壁を背に本を読み出した。必然的に彼はこちらを向く形になる。彼は長い足を組み、テーブルに肘を付き、壁にもたれ、静かに本を読み進める。たまに彼女の様子を窺い、自分の珈琲を飲みながら、彼は静かに彼女の前にいる。お互いの時間を大事にするように、でも一緒にいるその空間が何より大切だとでも思っているように。
私は自分の珈琲がなくなってしまっても、そこから動かなかった。この二人を見ていたい。そう思ったのだ。
パソコンのキーボードを叩く彼女の手が止まる。そして目はモニターを見たまま、彼女の手がテーブルの斜め上を探った。そこにあった筈の珈琲のカップは、今は彼のトレーの上にある。
それに気付いた彼が、微笑みながらココアのカップを彼女の手に寄せた。
「あ……」
彼女が目の前の彼にようやく気付いた。
「いつ来たの?」
「うん、ちょっと前」
「ごめん、気付かなかった……」
「集中していたからね、ほらココア」
「ココア? あ、暖かい」
「どうせずっと珈琲ばかり飲んでたんだろう? 少しココアで胃を休ませろよ」
「……ありがとう。今日は? 上手くいったの?」
「あぁ、大丈夫だった。だから、すぐ君に知らせたくて……」
「ふふっ、言ったでしょう? 上手く行くって」
「うん、そうだね」
「でも良かった……本当に……」
彼女が最高の笑顔を彼に向けた。ただそれだけなのに、不思議と私の心も暖かくなった。彼の彼女に対する気遣いが穏やかに優しく、そして彼を大切に思う彼女が柔らかに受け入れている。二人の全ての愛情がそこに見えた。
一口ココアを飲んで彼女は安心したように息をついた。
「ココア美味しい」
「うん」
「あ、これ……もう少しいいかな?」
「良いよ。切りの良い所まで……俺はここに居るから……」
「うん、じゃあ、もう少しだけ……」
何でもない会話の筈なのに、私の心が幸せで満たされて行く。彼女はまたパソコンに向き合い、彼は本に目を落とす。何気ない時間の何気ない会話。二人の醸し出す空気が優しい色を帯びていた。
私は立ち上がった。カップを置いたトレーを返却口に置き、そのまま外へ出る。
カフェの外はもうすっかり暗くなっていた。私はカフェ沿いに歩き出し、暗くなった外から中を覗くと、二人は暖かい灯の中にいた。彼女はパソコンに向かい、彼は本を読む。二人はお互いを待つ時間も愛しいのだろう。
何だか無性に夫に会いたい。
私は空を見上げた。
「明日は天気だな〜」
澄んだ空気が夜空の星をとても綺麗に見せていた。