第2話 冬山
ここは新雪が積もる冬山の奥深く。辺りには凍てつく風が吹き抜ける音だけが響き渡る。
木々の間から降り注ぐ月明かりは新雪を照らし、幻想的な光景が広がっていた。
そんな冬山に一人の青年が迷い込んでしまった。
青年の名は「ユータ・グリーン」23歳。
濃い緑色の短髪にエメラルド色の瞳が特徴的。身長は175cmでスタイルも良い。ただし、鼻の周りにできたそばかすが残念である。
ユータは視界に映り込む光景に呆然と立ち尽くす。それもそのはず。先程まで職場に居たはずの自分が、目を覚ましたら突然銀世界の中に居るのだから。
「そうだ。これは夢だ! 悪い夢に違いない!」
ユータは自分にそう言い聞かす。と言うよりも夢であってほしいと願っていた。そんな彼の淡い期待もすぐに打ち砕かれる。
「さ、寒っ!」
尋常じゃない寒さがユータを襲う。この寒さが夢ではなく現実であると気付かされる。
今ユータが着ている服は、会社から支給された薄手の作業着である。
ユータが勤務する工場内にはエアコンが完備されている。しかし、工場内は機械などから発せられる熱気がこもり、季節が冬であろうとこの薄手の作業着だけで十分である。だが冬山となると訳が違う。こんな格好でこの場所に居続けたら、間違えなく凍え死んでしまう。
ユータは身体の震えが止まらなくなり手足の感覚も鈍ってきた。
「このままじゃ、まずい……」
尋常じゃない寒さが、ユータの体力を一気に奪っていく。ユータは生まれて初めて身の危険というものを感じた。
刻々と迫りつつある死の恐怖。
パニックになりそうになるがユータは気を落ち着かせた。
その時、上司のある言葉がユータの頭を過る。
『こんな時こそ冷静になれ……』
ユータは上司の台詞を思い出す。
『操作ミスをしたら作業を中断しろ。人はパニックすると予測不能な行動をとる』
「そういえば、課長が言っていたな……」
ユータの勤務する工場では大きな機械を多く扱っている。操作自体は簡単であり、操作ミスをするのは希なことだ。しかし、いざ操作ミスをしてしまった時には凄く焦る。
大きい機械だけあって、操作ミスをした状態で動かし続けると、その先で作業する仲間に危険が及ぶ。
パニックした状態で動作を修正するのは非常に難しい。そこで操作ミスをしたら、直ちに機械を停止させ、作業を中断するというのが鉄則である。
『作業を中断したら次に原因究明だ。自分が操作した手順を辿れ』
機械の動作をリセットするためには、自分が操作した手順を辿る必要がある。手順を辿って行くとミスした原因を究明することができる。原因を特定し、危険を取り除けば大事にはならない。だがパニック状態で操作を続けると更なるミスを誘発してしまう。
話は少し逸れてしまったが、常日頃から上司から言われていた言葉が今この状況で頭をよぎった。
「こんな時は、まず動くのを止めよう……」
まずは作業の中断である。
「何故こんな所に来てしまったのか……思い返すんだ……!」
次に原因の究明である。
ユータは自分の記憶を辿る。自分の行動に何か原因があったのかもしれない。
直近の記憶。食堂に来たときのことを思い返す。
「俺はさっきまで会社にいて、昼休みが始まったと同時に先輩と一緒に食堂に駆け込んだはずだ……」
ユータは会社で一番楽しみにしているお昼休みを、一秒たりとも無駄にはしたくない。
ユータは、食堂が他の社員で混雑する前に先輩と共に駆け込んだ。これはいつものお決まりの行動であり、特段問題はないだろう。自分がこの冬山に迷い込んだ原因とは到底考えれない。
よし、次に行こう!
「あの時は、いつもの唐揚げ定食を注文して食べていたよな?」
ユータは余程の事がない限り唐揚げ定食を食べるのが定例なのだ。これも普段と特段変わりのない行動である。
異常なし。さて次は……?
「むむ? あの時先輩はざるそばを注文していたぞ!? ま、まさか……!」
普段の先輩であれば、日替わり定食を注文している筈。しかし今回に限って言えばざるそばを注文していた。これはいつもと違う行動である! 違うのであるが……
果たして、先輩のざるそばがここへ迷い込んでしまう原因に繋がるだろうか? 一応、原因の可能性があるものとして保留にしておこう。
よし、次!
「それから……」
ふとユータの脳裏にある中年男の顔が思い浮かぶ。
「そういえば、ヨネさんが隣に……」
ヨネさんとは、ユータが勤務する工場の大先輩「ヨネシゲ・クラフト」のことである。
後輩の面倒見が良い45歳のおじさんである。だが、武勇伝を延々と語り、貴重な昼休みの時間を奪い去っていく為、社員たちから煙たがられている。
思い返してみれば、彼の話を聞いていたら突然の睡魔に襲われ、目を覚ませばこの冬山に迷い込んでいた。
睡魔と格闘していた時の記憶は曖昧であるが、確かヨネシゲが語ってた内容は「冬山へのキノコ狩りに行く」というものだったはず。
実はこの話、ヨネシゲの十八番らしく、過去に何回も聞かされていた。
話の内容はこうだ。
ヨネシゲは姉に頼まれ一人で冬山にキノコ狩りへ向かう。しかし遭難してしまったヨネシゲは力尽きその場に倒れてしまった。
もうダメかと思われたその時!
一匹の犬が現れ、倒れたヨネシゲに寄り添い、体温が下がらないよう一晩中温めてくれたそうだ。
翌朝、総勢200名の捜索隊によって救出され、九死に一生を得たと言う話なのだ。
この話はヨネシゲの実体験らしいのだが、信憑性はかなり低い。確実に作り話だろう。
何故なら、彼にはこのような壮大な体験談が山ほどあるからである。
こんな奇跡的な体験に何度も遭遇する人が、いったいどこに居るのであろうか? まあヨネシゲの話の信憑性についてはひとまず置いておこう。
皮肉にも、ヨネシゲの信じられない体験談を聞かされた後、自分自身が信じられない体験をしている。
何の予告もなしに突然こんな場所に連れてこられ必死に寒さを堪えている。おまけに己の生命の危機が迫っているのだ。
自分は何か悪いことをしたか?
理不尽すぎるだろ!?
ユータは誰かのせいにしないと気が済まなかった。ユータから冷静さが欠けていく。
「ヨネさんのせいだ……!」
ユータは、この冬山に迷い込んだ原因はヨネシゲにあると決めつける。そうしないと気が済まなかった。
「ヨネさんの奴! どこまで迷惑な奴だ!」
ユータの怒りの矛先は完全にヨネシゲに向いていた。
常日頃から貴重な昼休みを妨害してくるヨネシゲに不満が溜まっていたのも原因の一つかもしれない。それに加え、ヨネシゲに冬山での体験談を聞かされた直後、自分が冬山に居るのだから、彼のせいにしたくなるのは当然のことだ。
「ヨネさん、どうしてくれるんだよ!? ヨネさんがあんな話をしなきゃ俺はこんな目にあわなかったんだぞ! 早く元に戻してくれよっ!!」
ユータは怒りに身を任せて怒鳴り声を上げる。まるで目の前にヨネシゲが居るかのように。しかしユータの怒鳴り声は冬山の深い闇に飲み込まれていった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
渾身の怒鳴り声を上げたユータは息を切らす。今度は先程までと違い、弱々しい声で言葉を漏らした。
「どうしてなんだよ、俺は何か悪いことでもしたか? 頼むから……元居た場所に戻してくれ……」
ユータは突然脱力感に襲われ、その場に座り込んでしまう。手足の感覚がなくなり、寒さというものも感じなくなってきている。
ユータの意識は徐々に遠のき、気が付くと地面に横たわっていた。
「もう……ダメかもしれない……」
諦めかけたその時だった。
「だ、誰か……!」
突然、ユータの耳に野太い男の声が届いてきた。声を耳にしたユータは飛び起きる。それは今にも力尽きそうな人とは思えない程の勢いだった。
「誰か居る!?」
冬山に自分以外の誰かが居る。ユータは淡い期待を抱いた。
「た、助かるかもしれない……!」
ユータは声を張り上げる。
「お~い! 誰か居ますか!?」
そう叫んだ直後、ユータの耳に返事が届く。だがそれは、ユータの期待を裏切るものだった。
「助けてくれぇ……!」
「!? 助けを求めている……?」
助けてもらいたいのはこちらの方だ。しかし声の主も助けを必要としている模様だ。
今の自分には誰かを助ける余裕などない。だが助けを必要とする者同士が協力をすれば……!
ユータは声がする方向へ歩みを進める。
「お~い! 誰か居るんですか!?」
ユータは声を張り上げ呼びかけるが応答がない。
ユータは、雪を被った草木を掻き分けながら、声が聞こえた方向へと歩き続けると、視界が開けた場所に辿り着く。
そこは広場のようになっており、月明かりが辺りを照らす。その場所の中央付近に一人の男が仰向けになって倒れていた。
その人物を目撃したユータは驚愕する。
「ヨ、ヨネさんだっ!」
そこに倒れていたのはヨネさんこと「ヨネシゲ・クラフト」だった。
助けを求める声の主はヨネシゲだったのだ。
ヨネシゲは、自分がこの冬山に迷い込んでしまった原因を作ったかもしれない男。ユータは先程まで彼に怒りの矛先を向けていた。だが今のユータには、ヨネシゲに対する怒りはもう無かった。
「た、助けないと……!」
今のユータには誰かを助ける余力などない。
無我夢中で歩みを進めていたので本人は気付いていないが、ここへ辿り着く間に足がよろけて何度も転んでしまった。その度に怪我を負い、一人で歩くのもやっとの状態である。
そんなユータであったが、ヨネシゲを助けずにはいられなかった。なんだかんだ言っても、ヨネシゲは同じ職場で働く仲間。放ってはおけない。いや、人として目の前で助けを求めている人間を見捨てることなどできなかった。
「ヨネさん……! 今、助けますよ……!」
ユータはヨネシゲの方へ向かって歩き出すが……
ドサッ!
ユータはその場に倒れてしまった。既にユータの体力は限界を迎えていたのだ。
「くっ……体が……動かない……」
それでもユータはヨネシゲの元に向かうため、体を動かそうとするも、前には進まなかった。
「俺も……ヨネさんも……こんな所で……終わる訳には……!」
ユータは悔しさを滲ませた表情で言葉を漏らす。
諦めたくはない!
だけど体が言うことを聞かない。ユータは歯を食いしばりながら、倒れているヨネシゲを見つめる。
「本当に……ここまでなのか……?」
ユータの視界が徐々に薄れかかってきたその時だった。
「バウッ!」
「い、犬か?」
そこに突然、一匹の灰色のブルドッグが現れた。ブルドッグの首には赤い首輪が嵌められており、恐らく誰かに飼われている犬なのであろう。
ブルドッグは尻尾を振りながら小走りでヨネシゲの元へ駆け寄っていく。
ヨネシゲにまだ意識があったのか、ブルドッグの存在に気付いた様子だ。
「な、なんだ……お前は?」
「バウッ!」
ヨネシゲが問い掛けると、ブルドッグは軽く吠える。そして彼に寄り添い始めた。
「お、俺を……温めて……くれるのか?」
ブルドッグはヨネシゲを温めるようにして、ピタっとくっつき離れなかった。
「あ、ありがとう……」
ヨネシゲは声を振り絞りながら、ブルドッグに礼を言う。
「お前の事を……一生……忘れ……な……」
ヨネシゲは意識を失ってしまった。
「ヨ、ヨネさんっ!」
ユータはヨネシゲの名を叫ぶ。だが、ヨネシゲから反応はない。やがてユータの身体にも異変が起こる。
目の前が突然フラッシュしたかのように、チカチカと白い光に包まれる。ユータの視界は真っ白になり何も見えなくなってしまった。
(まだ……死にたくない……)
ユータの思いとは裏腹に真っ白だった視界が徐々に暗黒へと飲み込まれていく。
それはまるで死の世界へと誘うかのように。
――長い夜が明けた冬山には、男たちの慌ただしい声が響き渡っていた。
「居たぞ! こっちだ!」
「すぐに救出するのだ!」
「もう一人誰か倒れているぞ!」
「よし!その坊やも連れて帰るぞ!」
――昼が過ぎた頃だった。
小鳥のさえずりと暖かな日差しが、青年を目覚めさせる。
「ん……うぅ……」
目を開くと見慣れない天井がそこにはあった。
「い、痛っ……」
起き上がろうとしたが身体全身に筋肉痛のような鈍い痛みが走る。
「こ、ここは? 俺は……生きているのか……?」
冬山で力尽きたと思われた青年「ユータ・グリーン」は、とある一室のベッドの上に横たわっていた。
つづく……