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長編?

その小指に約束が

作者: すもも

01


土砂降りの雨が男の体を打ち付けていた。安物の合羽は意味をなさずTシャツに染み、ぬかるんだ地面に靴が沈み長年愛用しているスニーカーは泥まみれになっている。それでも男は一心不乱に穴を掘り続けている。誰もいない林のなかスコップを地面に突き立てる。夜中にこんな場所に人が来るはずがないと思いながらも、もしかしたら誰かが来てしまうかもしれないという気持ちが余計に男を急き立てる。男の傍には女が横たわっていた。シートも何も敷かれず泥まみれになっている、目は見開かれ口も大きく開きその口の中へ雨が容赦なく入り込み口元から溢れている。そんな女には目もくれず男は穴を掘る、掘って、掘って、掘り続ける。満足いくまで掘り進めるとようやく女の存在を見とめてその細く冷え切った腕を掴みずりずりと引きって穴の中に突き落とす。泥が跳ねるのを男はわずらわしそうに顔を顰める。仰向けになった女の顔は恐ろしく怨嗟の声を上げているようにみえた。それから目を離しどろどろした泥をかけていく。早く、早く、早く、腕はすでに悲鳴を上げていた、痛くてたまらなかった。だけれど、そんなことを気にしていられない、早く、早く、早く。女の姿が見えなくなってもまだ泥をかけた。暫くして男は満足したのかスコップを握り締めてばしゃばしゃと音を立てて泥を飛ばしながら足早にここを去っていった。女が埋まった場所は他の場所ともう見分けがつかなくなっていた。地面には指輪がひとつ、いくつもの雨を受けて水滴が何度も零れ落ちていた。


「もうこれで全部か?」

季節は梅雨、それに相応しく雨が降っている。男は両手でダンボールを積み上げて持ち、紙袋を持っている隣に居る女性に声をかけた。男の持つダンボールは萎びていて、中に入っているものも濡れてしまっているかもしれない。実際、女の持っている紙袋の中身である洋品は水を吸って変色していた。

「うん、それで終わり!」

両手が塞がっている男の代わりに玄関を開けてやり、ふたりして部屋に入る。男が手に持っていたダンボールをどかりと玄関に降ろし、女は紙袋をその側に置いてしゃがみこむ。

「ああー全部洗濯しないとかも」

一番上に乗っていたアウターを捲れば下に入っている別のTシャツも雨で色濃くなっていた。

「ったく、何でこんな時期に引っ越してきたんだ?せめて晴れてる時にすればよかったのに」

ぐっしょりと靴下まで濡れてしまった足が気持ち悪く、足から靴下を引き抜き用意しておいたタオルで足を拭く。

「しょうがないでしょ?休みの日の度に雨なんだから。て、剛君、何で足から拭いちゃうかな!先に髪を拭かせてよ!」

「足のほうが気持ち悪いだろ。もうひとつ持ってきてやるから、カリカリするな」

剛は足の水気を取ってから、部屋へと上がり裸足のままペタペタと歩き風呂場からタオルを持ってきてやる。女に渡すとお礼を言って受け取り長い髪を丁寧に拭いている。

「なんで髪伸ばしたんだ?ショートカットのほうが似合ってたのに」

「前にも言ったでしょ、願掛けしてるの」

そうは言うものの彼女はその願いを教えてくれない。叶う前に人に言ったら叶わなくなるって聞いた。という。女というのは占いが大好きというイメージがあるが剛には全く理解出来ない。あんなもの誰でも当てはまるように作られているに決まっている。彼女がいうのはこれはとは少し違うものかもしれないが。丁寧に拭き終わった彼女は漸く部屋に足を踏み入れた。

「おかえり、奥さん。新居へようこそ」

「ただいま、旦那さん。これからよろしく」

婚姻届を出してから半年以上経って、漸く木原剛と涼子は一緒に暮らすこととなった。

「シャワー先に使えよ、新生活早々風邪なんて引いたら嫌だろ」

「うん、そうさせてもらう」

「おい、そこは一緒に入る?て聞くところじゃないのか」

結婚する前からこの部屋には何度も来ているため風呂場の位置は分かっている涼子はすたすたと向かってしまう、新婚なのだから当然のようにいちゃつけるものかと思っていた剛は肩透かしを食らった気分だ。

「ダンボールをそのままにしておきたくないの。床シミになるよ。賃貸でしょう。ここ」

「いや、ま、そりゃあそうだが」

がくりと肩を落とす、しっかりとした嫁になるとは思っていったけれど。少しくらいご褒美くれたっていいだろうに。雨の中重たい荷物運んだんだぜ。剛の思いとは裏腹に涼子の姿はバスルームに消えた。


「それで?何で直ぐに引っ越してくれなかったんだよ」

涼子が風呂を出た後剛もしっかりと体を温めて、引越しの片付けも大体目処がついた頃、インスタントコーヒーを入れてくれた涼子に聞く、彼女は立ったままカウンターキッチン近くの壁によそりかかっている。

「私は結婚式をしたい。て言ったのに、金がかかるーとか文句言って無しになったから」

「いや、それは言ったけど。金が貯まって、子供もできて生活が安定してからでもいいだろって。別にやるなとは言ってない」

「はーっ!生活が安定?そんなの何時になるか分からないじゃない。60、70歳になってからウェディングドレス着たくないんだからね!20代のうちに着たいの」

振ってはいけない話題を振った。剛は何とか軌道修正を図ろうと頭を働かせる。

「だから結婚式のOK出るまで別居してやる。って思ったんだけど、新婚で別居してても仕方がないし、私が折れてあげたわけ」

その言葉にほっと息を吐く、新婚早々喧嘩して同居しはじめてまた喧嘩だなんて嫌だ。仲睦まじくやっていきたい。コーヒーを口に含む、いつも飲んでいる安物のインスタントコーヒーだが涼子が淹れると美味しくなるのが不思議だ。

「涼子が来てくれて嬉しいよ」

「うん、未来の結婚式楽しみにしとく」

なんとしてでもリストラなんかに合わないようにしないとならない。笑顔の圧を感じ剛は引きつった笑みを浮かべた。そんな剛の視線の先で涼子が首を傾げた、何事かと見守っていると彼女は床にしゃがむ。彼女が立ち上がった時にはその手に何か持っていた。

「随分と小さな指輪ね、ピンキーリング?」

人差し指と小指でそれを摘んでいてこちらへ見せてきた。

「お前のじゃないの?」

持ってきた荷物の中から落ちたんじゃないだろうかとコーヒーを飲んでから聞くと涼子の首が左右に振られた。

「私の小指には小さいもの」

ふたりして首をかしげる。涼子がしげしげとそれを眺めている。自分の記憶を探っているのか、この指輪の謎を探っているのか、剛には考えが読めない。

「名前が彫ってある、T&A?ブランド、じゃなさそうだし。Tって剛のT?これもしかして、浮気相手のとか!」

掘られた文字を涼子が読み上げてからその後の言葉が耳に入らなかった。あまりにも身に覚えのありすぎるそれ。耳鳴りがする。顔から血の気が引いていく。

「って、大丈夫?顔真っ青!」

持っていたコーヒーカップをカウンターテーブルに置いて涼子が近づいてくる、気分悪いの?大丈夫?と話しかけてくる彼女を他所に、涼子がテーブルの上に置いた指輪に視線が釘付けになっていた。涼子には風邪をひいたかもしれないと伝えて寝室に引っ込んだ。折角妻が同居し始めた記念の日だというのにあんまりだった。涼子はおかゆ作ろうか?とか聞いてきてくれたが、暫く寝ていれば治ると突っぱねた。布団の中に篭り指輪を思い出す。ありえる筈がないと何度も心の中で反芻する、指輪はあの女と一緒に地中に埋めた。あの女が生きていてこの家に忍び込んだ?馬鹿げた妄想に首を振るう。あの女は確かに死んでいた。あの土の中から這い出るなんてゾンビでしかあり得ない、ゾンビなんてこの世にいない。けれども、生きているのかもしれないという思考が頭にこびりつく、枕元にあったスマートフォンを開く、暗い中でのブルーライトがやけに明るい。検索エンジンから、ひとりの名前を打ち込む。 左上の円がくるくると回り直ぐに求めていた情報が映し出される、警視庁のホームページ。行方不明者を探しています。平成28年6月18日発生 氏名 倉田彩奈 当時 26歳 身長 158㎝ 体型 細身 頭髪 黒髪ストレート長髪 服装の項目は空白になっている。写真と特徴を見ても、倉田彩奈そのままだ。まだ死体は発見されていないと喜ぶべきか、生きていたのかもしれないと疑うべきか。ありえない。剛はスマートフォンを切り首を振るう。嫌な考えが湧いて出る、彩奈は死んだ、死んだのだ。体の震えを止めようと自分を抱きしめた。


雨の音が容赦なく地面を叩き付けている。剛は公園の屋根の下で人を待っていた。スマートフォンのデジタル時計は深夜の1:10を指している。どうしても決着させなくてはならない話があった。けれどこんな夜中でなくてもよかったのではないかと冷静な思考も存在していたが今更止めたなどとは言い出せない。ぱしゃりと雨音に別の音が混じった。音の方向を見ると女が傘を差してこちらに向かってきた。ゆっくりとたしかな足取りで。何処かでみた光景だ、たしかにこれをどこかで見ている。剛はぼんやりと女を見つめて、

「―っ」

声にならない悲鳴が盛れた、体が硬直して動かない。知っている、たしかにこの光景を知っている。女が口を開く。ざりざりとノイズが混じった声。

「どうして私を殺したの?」

女の言葉に喉が引きつる、声を出したいのに声が出ない。俺じゃない、お前が勝手に死んだのだ。

「どうして私を殺したたの?」

ざざっと女の姿が消えたかと思えば、それは近くまで迫っていた。声にならない悲鳴をあげて剛は布団から飛び起きた。ここが何処なのかわからずに暗闇のなか目をしばたかせて、何かを見つけるために頭を動かす。ようやくスタンドライトを見つけると明かりをともす。心臓がばくばくと響いて落ち着かない、灯りをつけても落ち着かず視線を彷徨わせて、隣に眠っている涼子を見とめてようやくここが自分の部屋だということを認識する。

「大丈夫?」

いつの間にか眠っていたらしい、涼子は剛を責めることなく心配そうにこちらを伺った。

「気持ち悪い、洗面所行ってくる」

付き添おうとする涼子の申し出を断りふらふらする足取りで洗面所へと向かった。蛇口をひねって水が落ちる、その冷たさが心地よかった。顔を洗って、蛇口を閉めて近くにかかっているタオルを手繰り寄せ顔を拭く。顔を洗ったら少しすっきりしたかもしれない。ふうと一息ついて顔を上げる。暗がりの鏡の中に黒髪の女が写っていた。悲鳴をあげてたたらを踏み尻餅をつく。

「何やってるの?ほんとに大丈夫?」

ぱちりと電気をつけられてそこに居たのは涼子だと気づく。心臓に悪い。

「涼子…やっぱ髪切れよ」

今までも何度かその長い黒髪を見て、あの女を思い出したことがあったが今はその比じゃない。何故か現れたあのピンキーリング。それが剛の心を必要以上に乱していた。

「だーかーらー願掛けしてるんだってば!心配して来てあげたのに」

頬を膨らませてしまった。折角の同居生活初日なのに彼女の機嫌を損ねてばかりだ。けれど涼子のお陰で気持ちは落ち着いた。



02


次の日、朝日が眩しくて剛は瞳を開けた。夜には閉めていたはずのカーテンが開かれている、隣を見ると涼子の姿がない。カーテンを開け広げたのは彼女だろう。あの後もう一度眠ってしまえば気持ちは大分落ち着いていた、夢で再び魘されることもなかったし、何もあの指輪でそんなに怖がる必要はなかったのではないかと思いはじめていた。たかが指輪だ。それが何故家にあるのかなんて知らない。けどきっと何かの拍子で間違って持って帰ってきてしまったのだろう。そうに違いないと剛は自分に言い聞かせた。それにこれから新婚生活が始まるのだ。過去の事に囚われて新婚を楽しめないなんて間違っている。寝室から出て行くと朝の香りが漂っていた。自炊などろくに出来きず、朝食はもっぱら食パンとコーヒーだったが涼子は白米に味噌汁。彼女は祖父母とも一緒に暮らしていたからその影響かもしれないと語っていた。部屋へと足を踏み入れるとテーブルに朝食を並べるエプロン姿の涼子の姿があった。その存在が眩しくて剛は目を細めた。

「おはよう」

「おはよう、体調はよさそう?もし具合が悪いようだったらお粥にするよ?」

「一晩寝たらよくなった、会社も行ける」

「よかった、よかった。急に顔色悪くなるんだもん、心配したよー」

剛が元気なのを涼子はほっとした様子で笑って、じゃあ朝ごはんにしよ、とテーブルに着く。剛の部屋にはダイニングテーブルというものがないので座卓にソファの前の床に座っての食事。手をあわせていただきます。ひとりの時にはやっていなかったことも涼子がいると一緒になってやってしまう。というかやらないと怒られる。どこの家にもある普通の朝食のはずなのに剛には感動するほど美味しく感じた。涼子よりも剛のほうが仕事に行く時間が早いので彼女が作ってくれた弁当にまた感動しながらも可燃ごみの日のためゴミ袋を持って鼻歌を歌いながら外に出る。今日は特別いい天気に感じる、ゴミ捨て場にゴミ袋を捨てて、ポケットの中を手をつっ込む。出したのは例の指輪。こんなものを見つけたら気分が悪くなった。もうこれは必要ない、棄てたものだ。剛は無感動に指輪を投げ捨てた。


けれど、それでは収まらなかった、指輪のことなど頭の片隅程度にしか認識しなくなった頃、仕事から帰宅するとごみ捨て場にまで持っていったはずの指輪が我が物顔で自宅のテーブルに置かれていた。背筋がぞっとして家の中にいるはずの涼子を呼ぶ。いくら大声で呼んでもうんともすんとも返ってこない、買い物にでも行っているのか、スマートフォンを右手に握りしめ暗証番号を入力し終えたところで、買った時から設定し直していない着信音が響いた。名前を見た瞬間手から滑り落ちる。かつんと音を立てて床に落ちる。落とした時にスピーカーを押してしまったのか、音が外に漏れる。

「留守番電話サービスに移行します」


ぴーーー


ざりざりとしたノイズ音、聞き取りにくい声、何を言っているのか分からない、直ぐに切らなければ。早く、早く、早く!なのに体は動かず床に落ちているスマートフォンに釘付けになる。ざざざと音がなっている。ノイズ音が鳴っている。ふと、ざざざという音が消えた。切れたのかとほっとしてスマートフォンに手を伸ばす。


「どうして私を殺したの」


屈んだ姿勢で体が硬直する。


「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」「どうして私を殺したの」


その言葉は何度も何度もリフレインする。剛の体は震え、瞳孔が開く、顔は青白く息も荒い、これを止めなくてはと震える足を、なんとか一歩踏み出した、その後足が動くのは簡単だった。走って向かった先は何を思ったかキッチン。引き出しを開けて金属音をガチャガチャ鳴らしながら目的のものを探す。肉たたきを見つけるとそれを握りしめて音の発信源にかけていく。唸り声をあげて何度も何度も振り下ろす。だん!だん!と強く床を叩く音がする。スマートフォンが砕ける、床が凹んでいく、スマートフォンの内容物が弾け飛ぶ。リフレインしていた音が止んでも剛はしばらく続けていた、振り下ろす腕を止めてじっとそれを見つめる。まだ心臓が嫌な音を立てている、耳鳴りがして煩いはずの雨の音が聞こえない。

「お肉がねセール中だったの!ステーキにしようと思うんだけど………………なんで肉たたき持ってぼんやりしてるの?それにスマホもぐちゃぐちゃ」

声が突然聞こえて剛の肩がびくりと震える。振り返るとビニール袋を持ったまま驚いたというよりは恐怖した表情でこちらを見つめる涼子の姿があった

「あ、あぁ。大丈夫だ」

剛は自分が何に対して答えているのか分からないままに返事をした。涼子は顔を青くしているが剛は説明する気は起きなかった。なんと説明すればいいのかも分からないし、あの女について話したくない。

「大丈夫って…剛君、どう考えてもおかしいよ?何かあった?」

「大丈夫だって!言ってるだろ!」

追求されたくなくて怒鳴る同時に肉たたきを床に向けて強く振り落とした。大きな音と涼子の肩がびくりと震えるのを見て我に返る。

「あ、…ちがう、悪い。涼子、ごめん」

「う、うんん。大丈夫」

気まずい雰囲気が流れる。

「あ、あー、私、ステーキソース買ってくるの忘れてた。ちょっと行って買ってくるね」

財布を引っつかんで諒子は出て行ってしまった、何もする気が起きずにどかりとその場に座り込む、愛用していたスマホがぐちゃぐちゃになってしまった。涼子との思い出も入っていたのに、バックアップなんてとってない。何をやっているんだと剛は頭をかかえた。


カチカチカチカチ


ざあざあざあざあ


時計の音と、雨の音がやけに煩い。時計を見ると22:00を示していた。涼子はまだ帰って来ない。道草でも食っているのか、それとも、あの女が関係しているのか。ありえない考えだったが剛はそれを否定することはできなくなっていた。剛は立ち上がると玄関へと駆けていく、ドアを開いたところでひらりと隙間に挟まっていた紙がおちたことに気づいた。レシートだ。近くのスーパーのレシート。ステーキ肉、ステーキのたれ、じゃがいも、にんじん、…などが並んでいるただのレシート、今日買い物に行った涼子のものであることはすぐに気づいた。それを裏返しにして目を見開く。涼子の字だ。

「私と一緒に暮らすことで剛君がなんらかのストレスになっているのだとおもいます、しばらく距離をおきましょう?」

違う、涼子のせいじゃない、剛は玄関を開けてエレベーターを降りて外に出る、雨が降っている。剛の肩を雨が濡らしていく、視線を彷徨わせても涼子の姿は見えない。当然だ、あれから何時間か経過したと思っている。涼子のせいじゃない、それを伝えたいのに、スマートフォンは自分で砕いてしまった。誰のせいだ、あの女だ、あの女がすべて悪いのだ。恐怖が怒りに変わってきた、けれどぶつけるべき相手はこの世にはいない、いない、いないのか、本当に?生きていることを否定してきたが、指輪が戻ってくることといい、電話といい、やっぱり彼女は生きているんじゃないか。剛はいてもたってもいられなくなり、スコップと車の鍵だけつかむとあの林へと向かった。雨は強く降っていてワイパーを懸命に動かしても前が見づらいほどだった。あの日と同じように車を停め、ぬかるんだ地面を踏みしめる、気持ち悪いがこれは必要なことなのだ。林の中を回ってそれらしき場所に目星をつけてみたが、あの日はとにかく必死で場所など覚えているはずもなく。この辺りだったと掘り起こしてみてもただ土をいたずらに掘っているだけだ。なにを馬鹿なことをやっているのだろうと自傷的な笑みまで漏れてきた。たしかに目の前で死んで死体をこの手で埋めた女をまた掘り起こそうなんて。しかももしかしたら生きているかもしれないなんて。

めた女をまた掘り起こそうなんて。しかももしかしたら生きているかもしれないなんて。


「はは、あははは」


たまらず笑い声が漏れた、自分がどうにかなってしまったのではないかとただひたすら笑い続けた。もし誰かが通りがかったらあまりにも異様な光景に恐怖で凍りつくだろう。それでも剛は掘り進めた、まだ笑い声は続く。


ああ、雨がわずらわしい



03


2年前 6月

剛には付き合っている彼女がいた、熊谷涼子。ともうひとり、倉田綾奈。涼子とは付き合ってかれこれ3年と経つ。綾奈とは相席カフェで出会った。剛は見知らぬ人と話をしてみたい気分だっただけで別に浮気をしてやろうとかそういうことを考えていたわけではない。綾奈自身も友人を探しに来たと言っていた。綾奈はとても綺麗な顔立ちをしていた、10人に聞いて誰もが美人というだろう。友人から恋人へと至るには時間はかからなかった。いや、剛は友人の気分でいたのかもしれない。気軽に会えて、誘いに乗ってくれる女友達。それでもこれが浮気であることは剛は承知していた、涼子と結婚したら彼女一筋になるのだから結婚する前に少し遊びたいという気持ちもあったのだが、回数を重ねていくうちに彼女がとても面倒くさい女だということに気づいた。友達を募集としていたとは思えないほど彼女は結婚というものに積極的だった。断るのも面倒で、結婚してくれる?という言葉に適当に頷いていたように思う。せがまれれば指輪だって買ってあげた。(ピンキーリングだったが)けれどその時だってこの綺麗な女性を自分の浮気相手としていることへの優越感もあって、結婚したら綾奈とは簡単に縁を切ろうと思っていたたこともあり、面倒くさいとは思いながらもあまり重く受け止めてはいなかった。涼子がプロポーズを受けてくれたので、綾奈との関係を切ろうと夜遅くに公園へと呼び出した。梅雨時ということもあり雨が煩いくらいに降っている。深夜に至ったのはこの日涼子がプロポーズを受けてくれたからだ。彼女が自分のものになるのなら、もう不誠実なことはできないと、早々に綾奈を呼び出した。呼び出してからなかなか来なくてスマートフォンのデジタル時計を見ると深夜1:10を指していた。なにもこんな夜中でなくてもよかったのではないかと思い初めたが今以上のタイミングはないだろう。ぱしゃりと雨音が混じって別の音が聞こえた、音のほうへ顔を向けると傘をさした女がそこにいた。ゆっくりとした確かな足取りでこちらへ向かっくる。

「こんな時間に大切な話がある。だなんてびっくりしたよ」

可愛らしく小首を傾げて綾奈は笑った。屋根の下にはいると傘をたたむ。街頭がぼんやりと照らす。

「悪かったな、こんな時間に」

「うんん、いいの。大切な話なんでしょう」

綾奈はそわそわと落ち着かない様子を見せた。これから別れ話をもちかけられるなど心の片隅にも思っていない様子に剛は苦笑しそうになる。

「別れて欲しい」

まどろっこしいことは好きではない。そのままの意味を伝えると綾奈の体が固まった。

「……冗談、だよね」

ぎゅっと傘を握り締めた左手の小指には指輪がひとつ。街頭の明かりの下とても安っぽいもののように剛の目には映った。

「嘘じゃない。もうお前とは付き合えない。別れて欲しい」

「嘘。結婚してくれるって言ったじゃない。指輪もきちんとくれた」

静かに綾奈が震えている。

「ねだったからだろ?結婚のことだってあまりにも煩いから頷いただけで、本気じゃない」

「嘘だよ!!そんなこといって、私が本当に別れるかどうか試しているんでしょう?そんな嘘信じない!信じないよ」

全身でいやいやと訴えてくる目の前の女に剛は面倒になってきた。

「別の人と結婚が決まった。これ以上は続けるつもりはない」

「そんな冗談、全然面白くない!」

「そういうことだから、もう連絡してくるな」

綾奈と向き合って口論するつもりは毛頭なく、剛は綾奈に背中を向けて傘を広げる。雨は一向に止む気配がない。

「木原君!!」

階段に差し掛かったところで大声で呼び止められたが無視して早足で雨の中へと進む綾奈が傘もささずに追いかけて来た。

「別れたくない!!別れるなんていうなら、わたし死んでやるから!!本気だよ!私、本気なんだから!!」

追いついた綾奈に腕を捕まれた。

「だったら死ね!!俺の知らないところで勝手に死ねばいいだろ!!」

腕を強引に振り払う、それからの光景はスローモーションだった。綾奈の足が階段を踏み外し、後ろに倒れた拍子で頭を打つ。ごっと嫌な音がして彼女は動かなくなった。剛は顔を青くして屈めると綾奈の頬を叩く、綾奈は何も反応を返さない。足元に液体が流れてきて足を一歩どかす。雨に混じって流れてくるものは鈍い街頭の明かりを受けて。黒々としていた。それが血液であるということは綾奈の状況からすぐに分かった。

「嘘だろ」

知れず声が漏れた、慌てて左右、前後、頭を振り視線を彷徨わせる。幸いなことに人影らしきものは見当たらなかった。剛は立ったままそれを見下ろす。驚きに目を見開いたまま、口を開けたまま死んでいる。自分のせいなのか、という思考を自身で打ち消す。

「俺じゃない、俺がやったんじゃない、こいつが勝手に追いかけて、勝手に転んで、死んだんだ」

ぶつぶつと小さな声で呟く、目は完全に据わって目の前のそれを見つめている。自分ではないと何度も反芻して、けれどしかし、この状態を他人が見たらどう思われるのかと考えたら体が震えた。目の前で人が死んだとなれば、たとえ事故であろうと警察に話を聞かれる羽目になるのだろう。その時、どうしてこんな時間に彼女と会っていたのか聞かれることは確実。別の女性と結婚が決まったから浮気相手のこの女とは別れようと思って呼び出した。などといえば、誰もが、口論になり殺害してしまったのではないかと考えるはずだ。そんなことになれば、もちろん涼子にだって隠しておけるわけがない、浮気を知られ婚約破棄にだってなる可能性もある。思考をめぐらせて剛はたったひとつのことしか思い浮かばなかった。隠すしかない。

誰も気づくことがなければ失踪扱いにされる。成人の行方不明など警察は本腰で捜査などしてくれない。綾奈の友人の話は聞いたことはあるがその友人を紹介されたこともない、剛は大方友達の話は嘘で彼女には友達と呼べる人はいないんじゃないかと思っている。週末に遊びに行く友人がいないとなれば死体を隠してしまうのはとてもいい考えのような気がしてきた。抱え乗ってきた車へと向かう、涼子に少しでも感づかれないように遠めの公園にして正解だった。力の入っていない人間というのはここまで重かったかと舌打ちをしながらもこれも未来の生活のためだと力を振り絞った。


剛が向かったのは林だった、ワイパーの力をフルに回していてもいくつもの水滴が押し寄せて前が見にくい、適当に見つけた林の前に車を停めた。車には偶然購入したまま乗せっぱなしになっていたスコップがあった。出来過ぎた偶然に苦笑する、アウトドア好きの為他にもロープやら寝袋やらテントやら色々入りっぱなし。車を降りてバックドアを開き女を抱えてぬかるんだ道無き道を歩き出す、打ち付ける雨が煩わしく、一歩一歩が重くなる。それでも気合で登り続けた、随分と歩いたように思う。此処までこれば見つかることはないと当たりをつけて、女をそのまま地面に転がした。足場がぬかるむ中、何度もスコップを地面を突き立てる。雨が打ち付けてせて掘った側から泥が入り込みなかなか進んでいかない。焦る気持ちも相まって余計に苛立つ。それでも何とか掘り終えると女の腕を掴みずりずりと穴まで引きずって放り込む。偶然にも上を向いたその顔は怨嗟の声を上げているようで、それから目を離し雨でどろどろになった土をかけた。



04


気づくと随分と深く掘っていた、あの日のように全身ずぶ濡れで靴から水が染みて気持ちが悪い。遺体は見つからなかった。別の場所も掘ることを一瞬思考したがすぐに掻き消す。これ以上は時間の無駄だ。スコップを手に山を下る。風も出てきた、後方で鳴り響く雨と風が女の叫び声に聞こえてならなかった。帰宅した頃には0:00を回っていた。体が重い、玄関にタオルなど用意しておらずフラフラとした足取りで洗面所へと向かう。洋服ごと風呂に浸かってしまいたいぐらいだったが、風呂は溜まってない。泥にまみれた手を洗うべく洗面所の蛇口をひねる。水の流れる音はいつものもの、なのに、異様なそれに剛の体は固まった。赤い、蛇口から赤い液体が流れている。喉が引きつり声が出ない、硬直した体をなんとか動かすと洗面台の横に置かれたタオルに手が触れてばさばさと床に落ちる、同時に散らばる黒く長い髪。

「あ、あ、あ、あ」

がたがたと体が震えて一歩一歩と後ずさる。神経が高ぶり心臓がばくばく脈打っている。剛の耳に何か音が入ってきた。ざざざざ、ノイズ音。やめればいいのについ耳をそばだてしまう、ざりざりと耳障りなノイズ音の中に声が混じっていた。知っている、この声を知っている。


「どうして私を殺したの?」


喉から絶叫が溢れた、足跡を残しながら玄関へと向かう、扉に飛びつくとガチャガチャと乱暴にドアノブを回す。何時もなら思考せずとも簡単に開く玄関が開かない。

「なんっでだよ!!どうして!!」

声が震える、ドアノブの音がする、焦りで部屋を振り返る。雷が光った。瞬間に目にしたのは捨てた筈のあの指輪。近くで雷鳴が鳴り響く。逃げなくては、彼女から、ここから、逃げなくては、頭の中で逃亡という言葉しか思い浮かばなかった。ドアが開くと足がもつれるようにして外へと飛び出した。ただ足が勝手に動いた、雨の中、靴も履かずにただ走った、雨の音も、冷たさも何も感じない。甲高いブレーキの音で我に返える、剛の目の前には大型のトラックが迫っていた、気づいた時にはもう既に体は宙を浮いていた。



明るい日差しを感じて剛はゆっくりと目を開けた。白いカーテンが靡いて、窓から青空が広がっているのが見えた。緩やかな時間が流れていた。病院だ。体を起こそうとしたところでうまく動けないことに気づいた。足にギプスが嵌められていて、どうしてこんなことになっているのだろうとぼんやりと考えて目を見開いた。自分は霊である綾奈に襲われて交通事故に遭ったのだ。雨の音も雷鳴も鮮明に思い出し体を震わせた。

「目が覚めたの?」

白い扉が開いて涼子が入ってきた、長かった髪は出会った当時のようにショートカットになっている、涼子には長い髪よりもショートカットが似合っているな。とぼんやりと思い。彼女に会えたことで剛の恐怖もゆっくりと溶けていった。

「良かった、良かった」

言葉が漏れる、雨が止んだこともあってかもうこれ以上は悲劇が起こらないようなそんな安堵感が剛を包んだ。

「トラックの目の前に飛び出したんだって?」

「あぁ」

「生きているのは奇跡だって先生が言ってたよ」

「そうか」

剛は一息ついて再び涼子に会えたことを噛み締めた。

「なぁ、やっぱり一緒に住んで欲しいんだ。あの時はどうかしてたんだ、許してほしい」

剛は涼子が頷くだろうと確信を持って話しかけた。けれど涼子は沈黙する、剛は焦った。あの時怒鳴ったのがそんなに心を傷つけていたのかと。

「……」

ぼそりと呟く声。

「え?なんて?」

「死んでしまえば良かったのに」

涼子の言葉に硬直する。彼女が何を言ったのか理解出来ない、したくない。そのまま沈黙してしまった彼女のぎゅっと膝のうえで握られた右手には見覚えのある指輪が収まっていて剛は戦慄した。



05


優しい陽だまりのなか小さな女の子がふたり公園でシロツメグサを編んでいた。近くの教会の鐘が鳴り響きふたりは視線を向けたあと顔を見合わせて音のした方へと駆けていく。幸せな光景がそこにはあった。白いドレスに身を包んでいる花嫁と幸せいっぱいに微笑んでいる新郎。それを祝福するものも皆笑顔だった。女の子はそれに目を奪われてしばし惚けて、ふたりで綺麗だね!と笑いあう。

「あたしが結婚式する時はお祝いしてくれる?」

「当然!でも、相手の男の人が綾奈ちゃんを泣かせたらこてんぱんにしてやるんだから!」

「こてんぱん? ふふっ、じゃあ私も、涼子ちゃんを泣かせたらこてんぱんにする!約束よ!」

「うん。約束」

女の子はお互いの小指を絡めて笑いあった。



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