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湖畔にて  作者:
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湖畔にて 2


 曲が作れない時はいつも湖に行きます。

 初めて音楽について悩んだ時、ふらふらとこの湖まで来て水面を眺めていました。そしたら何故か上手いこと一曲書けたことがあります。

 それが私の中で変なジンクスになって、悩んだらいつもここまで来るのです。でもだからと言ってそれ以来特別何かが浮かんできたことはないのですが。

 湖は私の下宿から歩いて十分くらいの公園の中にあります。

 都会の中にしては大きな湖で、近隣の老人達が外周を散歩したり、夏になったら天気の良い日に小学生が水着になって泳ぎに来たりします。でも今みたいな平日の昼間は高い確率で誰もいません。

 私はそのほとりに座って、水面に石を投げたり(この前はついつい缶コーヒーを投げてしまいましたが。ごめんなさい)、自分の作った歌を口ずさんだり、大好きな作家の本を読んだりして過ごします。

 大きめの石を手探りで選び、湖に投げてみます。それは別に水を切るでもなく、ぼしゃん、と水面を弾いた後、すぐに沈んで消えていきました。

 結局今日も曲は書けませんでした。



 スタジオに入ると富永さんと石渡君はもうすでに楽器を用意していました。

「遅くなりました」

 湖で考え事をしていたら乗ろうと思っていたバスに乗り遅れてしまったのです。私は慌ててギターケースからお馴染みのギブソンSGを取り出します。

「次のライブが決まったよ」

 富永さんがパパンとスネアを叩きながら言いました。

「あ、いつですか?」

「来月の末。三バンドでの対バンになるよ」

「そうですか。三バンドって他は誰が来るんですか?」

 富永さんが残り二バンドの名前を言います。両方とも何回か対バンしたことのあるバンドでした。残念ながら長岡さんのバンドではありませんでした。

「綾倉さん、それまでに新しい曲書けるの?」

 石渡君が少し刺々しい言い方をしました。

「う……そうですよね。何とか頑張ってみます」

「そんなこと言ってもうだいぶ新しい曲書けてないじゃないですか。同じ曲ばかりやってたらお客さんにも飽きられますよ」

「ごめんなさい」

 もちろん私だってそれは分かっています。

 だから焦って湖に向かって何個も何個も石を投げたりしているのです。でも石渡君はなんだか怒っているようなので素直に謝りました。

 すると富永さんが、

「石渡君、そんな言い方はないだろ? 綾倉さんが頑張って曲を書いてくれるからうちのバンドは成り立ってるんだろ」

「もちろんそれは分かってますよ。でもそろそろうちのバンドも新しい曲がないと辛い時期に来てることは富永さんにだって分かるでしょ?」

「分かってるけどそれは仕方ないことだろ。我慢の時期なんだよ」

 だんだん富永さんも語気が強まってきました。スタジオの空気がピリついているのが分かります。

「俺は真剣なんですよ。このバンドでもっと上に行きたい」

「俺だってそうだよ」

「富永さんは春が来たら就職するんでしょ?」

「そうだよ。でもバンドは続けるよ」

「そんな中途半端でいいんですか?」

「何が中途半端だよ? こっちだって真剣なんだ。大学に入りたてのお前には分からないよ」

 二人ともほとんど怒鳴りあっていました。怖かったです。でも怖かったのはその怒号じゃなくて、バンドが捻じ曲がってしまうことが怖かったのです。

「あの」

 私が弱々しく声を出すと二人がじろっとこっちを見ました。

「私、曲作りますから。次のライブに間に合うように。だから、大丈夫ですから。ね?」

 必死で笑ってみました。

 上手く笑えていたかどうかは分かりませんが、女の私にそう言われて二人とも少し冷静になりました。

 その日のセッションは最後までしっくりきませんでした。やはり今、私達のバンドには新しい曲が必要なようです。



 それから二週間が経ちました。

 でも曲はまったく書けていません。

 メロディーも詩も、まったく。断片の一つすら浮かんできません。私は毎日毎日あの湖まで足を運び、数え切れないくらいの石を投げ込みました。

 でもダメでした。日に日に闇が深くなっている気がして、視界がどんどん悪くなります。先行きが見えません。

 そうしている間にも時間は刻々と先を急ぎ、期日がだんだんと近づいてきています。私は頭を抱えました。

 そんなある日の夜、長岡さんから電話がかかってきました。

 私はその時、家にいて、白紙の原稿用紙の前に座ってすでに五時間経過、という状態でした。気づいたらあたりは真っ暗でした。

 暗がりで携帯電話の画面が光っています。そこには「長岡さん」の文字。バイブレーションが畳をじんじん言わせています。

「やぁ。何してる?」

「家で曲を書いています」

「そうか。そうか。どうだ? 駅前の喫茶店にでも行かないか?」

「あ、はい。いいですよ」

「じゃ三十分後に現地で」

 それで電話は切れました。

 私は自転車に乗って駅前の喫茶店へ向かいました。時刻はもう夜の十九時。長岡さんたら、なんてったってこんな時間に喫茶店なのでしょう? どう考えてもお茶を飲んで休憩するような時間ではありません。

 喫茶店でご飯を食べる気かしら、とも思いましたが、あそこの喫茶店のフードメニューはサンドイッチセットのみで、高い割に美味しくないともっぱらの評判でした。長岡さんも大嫌いだったはずです。だからその線はなさそうです。

 駅前の喫茶店の前にはすでに長岡さんの自転車が停まっていました。今日はママチャリではなく、あのオシャレな、ロードバイクというやつです。煤けた窓越しに、店の中に一人水を飲む長岡さんが見えました。

「綾倉君、こっちこっち」

 私が店に入ると長岡さんはすぐに気づいて手招きしてきました。少し暑いのか扇子でお顔を扇いでいます。

「こんばんは」

「あぁ、こんばんは。暑いねぇ。何飲む? たまには奢りますよ」

「じゃサイダーでお願いします」

「サイダーね、了解。僕は……アイスコーヒーにしようかな」

 運ばれてきたサイダーをストローで飲むと、身体の中が冷んやりしました。お昼から何も食べていませんでしたが、不思議とお腹は空いていません。長岡さんは慣れた手つきでガムシロップとミルクをブラックのコーヒーに入れてかき混ぜています。

「長岡さん、今日は何だったのですか?」

「ん、いや。大したことじゃないんだけど」

「はぁ」

「悩んでるみたいだね、だいぶ」

「曲のことですか?」

「ま、そうだね」

「誰かから何か聞いたんですか?」

「うん。まぁ、それもある。バンドが微妙な感じになっているのだろう?」

「そんなことまでご存知とは」

「ま、狭い大学の狭いコミュニティだからね」

「噂になっているなんて何だか嫌です」

「別に噂になってるいわけではないよ。ちょっと小耳に挟んだだけ。で、曲はどんな状況なんだ?」

「全然ダメです。まだ一生節も書けていません。今日も五時間フリーズしていました」

「いかんなぁ」

 長岡さんはそう言って眉間に皺を寄せました。

「そうです。いかんのです。このままじゃ本当にマズいんですよ」

 私は喫茶店のテーブルに項垂れました。

「うん。で、そんなことではないかと思ってな、これ」

 そう言って長岡さんはズボンのポケットから綺麗に四つ折りにされたA4用紙を取り出し、テーブルの上に置きました。

「なんですか? これ」

「ま、開けてみなよ」

 私は言われた通りに四つ折りの用紙を開きました。するとそこには鉛筆で書かれた丸っこい長岡さんの文字がありました。

「長岡さん、これって……」

「うん、良かったら使ってくれ」

 それは長岡さんの書いた曲でした。

 歌詞の下には丁寧にコードまで書いてあります。

「こんなの、受け取れません」

「君ならそう言うと思ったよ」

「そりゃそうですよ」

 私は少しむすっとした声を出します。だって私は長岡さんの歌に心底惚れていたのです。こんな屈辱はありません。

「お返しします」

「ま、そう言うなよ」

「受け取れません」

「でも曲が必要なんだろう?」

 私は少し怯みました。

 長岡さんの言う通りでした。私には曲が必要です。そしてそれができていない。

 あと一週間くらいで曲が書けないと、バンドがマズくなります。富永さんと石渡君の顔が浮かびました。それだけはどうしても避けたかった。

「持っていきなよ」

 長岡さんはそう言ってアイスコーヒーを飲み干しました。私はもう何も言いませんでした。言えなかったという方が正しいかもしれません。涙が溢れてきました。

「後悔しますよ。いつか」

 ほぼ睨むような涙目で長岡さんを見ます。向こうもこちらを見て、私と長岡さんという点と点が結ばれて線になったような感覚でした。

 サイダーはまだ半分くらい残って、グラスの中で魔法を唱えています。私達の周りだけ真空が取り巻いたように空気が薄くなりました。

「ま、それも悪くないよなぁ」

 長岡さんは水滴で濡れた手で二人分の伝票を掴んで立ち上がりました。



 それから一週間後、私は富永さんと石渡君をスタジオに呼びました。

 先日のスタジオ以来、二人はどこか距離があるみたいで、スタジオにいつものような笑顔はありませんでした。

「綾倉さん、曲できたの?」

 石渡君がベースを肩に掛けながら言います。富永さんは既にドラムセットの前に着席していました。

「一応できました」

 罪悪感がチクリと心を刺します。

 私はそれを打ち消すかのようにSGを爪引きます。

 そしてそのまま歌い出しました。この一週間、何度も練習した曲。

 長岡さんがくれた曲はやはり素敵な曲で、歌う度に私はそれを好きになりました。長岡さんがこの歌を歌っているところは見たことありませんが、だいたい想像はつきます。だってずっと目指していたから。私は。長岡さんの歌を。音楽を。

 SGが信じられないようなメロウなフレーズを奏でます。

 私は、春風のように歌えませんが、頑張ってそれらしく歌いました。なぜなら曲がそれを求めていたから。長岡さんが作った曲なのですから、長岡さんのことを好きなのは当たり前です。

「どうですか?」

 歌い終わり二人を見ると、なんだかキョトンとした感じの顔をしています。私は額と首筋に薄っすらと汗をかいていました。

「あ……いいんじゃないかな」

 石渡君がそう言って富永さんの方を見ます。富永さんは神妙な面持ちで小さく頷きました。

「合わせてみようか」

「はい」

 私がもう一度長岡さんの歌を歌い出し、感覚だけで三人、音を合わせます。

 久しぶりのバンドの音でした。

 ここ数週間、私はずっと一人でギターを弾いていたので、そのグルーブをとても懐かしく思いました。

 当たり前のように富永さんがいて、当たり前のように石渡君がいます。

 ライトシンバルの音にベースラインが絡んで、そこに私の歌とギターも混ぜてもらいます。

 今日も、明日も、来週も、来年も、ずっとこんなふうに音楽ができればいいなぁと本気で思いました。

 その時です。

 富永さんが急に演奏を止めました。

 私ははっとして現実に引き戻されました。

「……富永さん?」

「綾倉さん。ダメだよ。この曲はうちでは演奏できない」

 そう言って強い目で私を見つめます。私は何も言えませんでした。

「良い曲なのは分かるけどね。俺は綾倉さんの曲が聴きたいんだ」

 富永さんの目を直視することができませんでした。

 ほとんど無意識のうちに涙が一雫、私の頬を伝っていきました。

 恥ずかしい。泣くなんて卑怯です。そう思いましたが涙は止まりません。

「綾倉さんのせいじゃないですよ。俺達も悪かった。綾倉さん一人に責任を押し付けてしまって」

 石渡君が妙に優しいことを言います。困り顔。彼も薄々これが私の書いた曲じゃないことに気づいていたのでしょう。

「違うんです。私、そんなんじゃないんです」

 私はもうぼろぼろと涙を流していました。

「綾倉さん?」

「ごめんなさい。私……」

 無我夢中でSGを肩から下ろしました。そしてそのまま走ってスタジオを出ました。

 後ろから私の名を呼ぶ声が聞こえた気がします。でも一度も振り返りませんでした。

 最低な気持ちでした。

 行き交う人に肩をぶつけながら、私は必死で走りました。逃げるように走りました。



 名前も知らない鳥が旋回をして、水面のぎりぎりを飛んでいます。その姿は本当にダイナミックで、何だか見惚れてしまいました。

 風が少し強くなってきました。雨が降り出しそうです。

 湖のほとり。一人、足を三角にして座り込みます。私の湖。私の場所なんです。

「おーい。綾倉君」

 名前を呼ばれて振り返るとそこには長岡さんが立っていました。いつの間に髪型を変えたのか、長い髪を頭上で結っていました。

「長岡さん……どうしたんですか、その髪?」

「ん、あぁ。これか。ストレートパーマをあてたんだよ。どうだい?」

「似合う……んじゃないかなと思います」

「なんだ、いやに曖昧な反応だな。まぁ、いいや。な、トマト食べるかい?」

 そう言った長岡さんの両手には大きく真っ赤なトマトが一つずつ握られていました。

「はぁ。どうしたんですか? このトマト」

「そこの角の農家からくすねたんだよ。ほれ」

「またそんなことして。泥棒ですよ、それ。バレたら怒られますよ」

 そう言ってトマトを受け取ります。トマトはきんきんに冷えていて、少し驚きました。

「冷えているだろう?」

「ええ」

「そこの河で十分に冷やしてきたんだ」

「そうですか」

 齧ってみるとトマトはトマトそのものの、甘い、太陽のような味がしました。長岡さんも満足そうに自分の分を食べています。

「美味しいなぁ」

「そうですね」

「トマトを冷やしてる間、退屈でね、笹舟を作って流してたんだよ。そしたら意外と流れが早くてね。一瞬で流れていくんだよ。見送る暇もなく。ははははっ」

 私は何も言わずにトマトを齧っていました。そうすると次第に長岡さんの笑いが乾いていきます。

「すまんかったな」

 長岡さんが珍しく本当にすまなそうな声で言いました。バレンタインの手作りチョコレートを無視しても何も悪びれなかった長岡さんが。

「何がです?」

「曲のことだよ」

「長岡さんが謝ることじゃないですよ」

「君のギターな。今、俺が預かってる」

「長岡さんが?」

 私は少し驚きました。

「この前、君のとこのベースの石橋君? だっけ? 彼が来てね。綾倉君に渡してくれと言うのだよ」

「石渡君ですよ」

「あぁ、そうそう。石渡君。と言うか君、彼に全然連絡を返していないらしいじゃないか」

「だって合わせる顔がありませんもん」

 私がそう言うと長岡さんは少し困ったような顔をしました。

「すごく良い曲でしたよ、あれ」

「ん? あぁ、ありがとう」

「だからバレちゃったんですけどね」

「違うよ。前にも言ったけど、君と僕ではプレイスタイルが違う。結局はそういうとこだよ」

 私は石を一つ拾い、思いっきり湖に向かって投げました。数秒後、遠くでぽちゃん、と情けない音がしました。

 それを合図に、何故だか分かりませんが私は湖に向かって叫びました。まるでステージでのように。ライブの時のように。

 私の声に、長岡さんは少し驚いていました。

「長岡さん。私、負けませんからね。いつか絶対に長岡さんよりも良い曲を書いてみせます」

「うん。そうだな。その時は必ず最初に聴かせてくれよ」

「悔しくて、泣いてしまうかもしれませんよ」

「その時は僕もここに来て石でも投げるさ」

「ギター、今日取りに行ってもいいですか?」

「うん。是非とも」

「やり直しです。ここからまた」

 石渡君に連絡を返そう。

 そしてまた歌う。良い歌をひたすら。長岡さんにも湖に石を投げ入れる悔しさを分からせるためにも。

 その時、雨がしとしとと降り出しました。

 小さく、そして確かに水面を打ちます。よく見るとそれは、何だか水滴が踊っているようで可愛らしかったです。良い曲が生まれそうな、そんな雨降りでした。

 長岡さんは濡れるのが嫌みたいで、早く行こうよぉ、なんて言って私を促しますが、私はそれを無視して、ゆっくりと降り注ぐ愛しい雨降りを見つめていました。

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