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湖畔にて  作者:
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湖畔にて 1

メロディに生きる。


 だだっ広く広がる湖に向かって、思いっきりコーヒーの缶を投げました。

 しゅるるると飛んでいくブルーの缶。

 すぐに小さくなって。

 その中にはまだ半分くらいコーヒーが残っていたので、液体は空中で飲み口から溢れて茶色く甘い放物線を描き、やがてそのまま風に揺れる水面の中へ音を立てて消えて行きました。

 私は最後までじっとそれを見つめ、思ったより遠くまで飛んだなぁ、なんて思いました。

 こんなこと、もちろん悪いことなのは分かっています。

 飲みさしのコーヒーを清潔な湖に投げるなんて、相当な不良行為です。今時、タチの悪いヤンキーさん達でもしないでしょう。誰も見ていなかったのか少し不安になりました。

 耳につけたイヤホンからは春風のような長岡さんの声が今もします。

 彼の弾くエレキギターも、その友達が鳴らすベースとドラムも、同じように耳から順に私の中に入ってきます。

 私はずっとそれに嫉妬していました。

 Aメロ、Bメロと我慢をしていたのですが、とうとう我慢できずにサビの中盤くらいで手に持っていたコーヒーを放り投げてしまったのです。

 夏前、雨が降りそうな湖のほとりにて。



 三番目のバンドのステージが終わったあたりで、ライブハウスの熱気はピークに達したようでした。

 私のバンドの出番は五番目。

 徐々に緊張が私の身体を支配します。まるで悪い魔法使いに不思議な力でだんだんと石にされていくように身体の先から順に冷たくなっていって。

 半年に一度の大きなライブイベント。

 今回は全部で十組のバンドが出場します。ほとんどが私達と同じくらいの年齢で、どこかの大学の軽音サークルに属しているバンド達なのです。観客は多分、五十人くらい。もしかしたらもう少しいるかもしれません。

 長岡さんのバンドは九組目。所謂トリ前というやつでした。

「綾倉さん、リラックス。リラックス」

 そう声をかけてくれたのはドラムの富永さん。大学の二つ上の先輩です。

 声を掛けられて初めて、私は緊張で自分のギターを力いっぱい握りしめていたことに気がつきました。開くと指に弦の食い込んだ跡が残っています。

「あ、大丈夫です。うん。リラックス。リラックス」

 そう言い聞かせて笑ってはみたのですが、上手く笑えていなかったのか今度はベースの石渡君が、

「またいつもの綾倉さんの緊張癖が始まったよ! 大丈夫ですよ。なるようにしかなりません。たくさん練習したんでしょ?」

「うん、そうよね」

 今度こそ、と思い上手に笑ってみます。

 まったく。後輩にまで励まされていたんじゃ仕方がありません。ましてや石渡君はまだ一回生。つい半年前までは高校生だったのに。

 でも大人です。私よりずっと。

 そして情けないです。私。とても。

 そうこうしているうちに前のバンドのステージが終わりました。割れんばかりの歓声。良いステージだったようです。五分挟んで、すぐに私達の出番です。

「さ、行こうか!」

 時間がくると、富永さんの声に弾かれて私達はステージに出ました。すると歓声。私は緊張しながらもちょっとだけ手を振ってみます。

 そっとマイクの高さを調節して、大学に入った時から使っているギブソンSGを肩からかけてちょっとだけ弾いてみます。

 ギブソンSGの形は何だかツノが生えているみたいで、鬼みたいで、華奢で小柄な私には全然似合わない強そうな顔つきで、でもそのアンバランスさを何故か気に入って選んで買ったのです。

 後ろを振り向くと富永さんと石渡君がにまにまと笑っていました。それを見ると私も何だか笑ってしまいました。

 富永さんが大声でカウントをします。それに合わせて私と石渡君が演奏へ入る。

 音の洪水。

 なんて言うとものすごくカッコよく聞こえますが、本当にそんな感じ。少なくとも私はそう思っています。

 ギターをかき鳴らします。がちゃがちゃと。この音が大好きです。本当に大好きなんです。

 そして精一杯歌う。授業中、アルバイトの休憩中、電車の中、笑った後、泣いた後、怒った後、私がひっそりと書き上げた歌を、みんなの前で。

 歓声が上がる。手を挙げている人もちらほら見えました。

 とても気持ちが良かった。

 叫んだりもしました。叫んでる時の私の顔、不細工だろうなぁ、とも思うのですが、そんなこと気にしていられません。横目で見た石渡君はもう汗だくでした。

 確かにすごい熱気でした。

 あれれ、気づいたら私も汗ばんでる。

 富永さんも石渡君も楽器が上手です。

 富永さんは小学生の時からドラムを叩いていたようで、今年二十二歳になるのでキャリア十年以上のベテランです。石渡君はまだ若いですが、高校の時から軽音部に入っていたのでしっかりと基礎ができていてミスも少ないです。

 だから私はそんな二人に負けないよう必死で練習しました。バンドを組んでちょうど半年くらいになります。私にとって初めてのバンドです。

 ステージはずっときらきらしていて、歌い、はしゃいでいたら、気づいたら転がるように最後の曲。楽しい時間が過ぎるのは本当に早いです。もうすぐライブが終わるのです。

 最後の曲の最後の瞬間、私は思いっきり高く飛びました。それに合わせて三人で一気に鳴らします。ジャーンなんて感じで。

 歓声。見渡すと一面の拍手でした。みんな笑っていました。ヒュー、なんて言って口笛を吹いてくれる人もいました。

 あぁ、ライブが終わったのか。私は最高に幸せな気持ちでした。

 もっと、もっとやりたい気持ちを抑えて、手を振ってゆっくりとステージを下ります。

 ステージ脇へ行くと、他のバンドの仲間達が拍手で迎えてくれました。

「良かったよ」とか、

「最高だね」とか、

 そういうの、本当に嬉しいです。

 その時、拍手をするバンド仲間達に紛れて長岡さんが腕を組んで立っているのが見えました。細っそりした長身に天然パーマの長髪、今日も肌着なしで白シャツを着ています。そして丸眼鏡。やっぱりちょっと目立ちます。

 長岡さんは大学の一つ上の先輩で、名目上、一応私の彼氏です。

 長岡さんが片手を挙げて挨拶をしてきたので、私は近くまで行って話しかけました。

「観ててくれてたんですか?」

「あぁ、観てた。途中からだけどもね」

「どうでした?」

「まぁ、良いんじゃないのかな。うん、そうだな。悪くないな、という感じかな」

 なんて悪気もなくしれっと言います。

 私の中にぴしっと稲妻が走りました。

「じゃ、僕はちょっとコンビニでお茶でも買ってくるよ」

 それだけ言うと、そそくさと何処かへ消えて行ってしまいました。

 私は悔しくて、何だか泣いてしまいそうでした。さっきまではあんなに幸せだったのに。長岡さんの馬鹿。本当、馬鹿。

「何ですか、あいつ。感じ悪いですね」

 そう言って石渡君は口を開けた缶ビールを私に一つ渡してくれました。おそらく、さっきの長岡さんの言ったことを聞いていたのでしょう。少し怒っているように見えました。

「綾倉さん、あんな奴の言うこと気にしなくてもいいですよ。ちょっと人気があるからって調子に乗っちゃって」

「ありがとう」

 石渡君の言う通りです。

 あんな奴の言うこと、気にしないで生きられたらどんなに楽でしょう。でも残念ながら今の私にそんな生き方はできない。どうしても。

 長岡さんのバンドのステージが始まる時、私はライブハウスの一番後ろの壁にもたれていました。富永さんと石渡君はまだ楽屋でみんなと打ち上げをしています。私だけこっそりと抜けてきたのです。

 まずステージに現れたのは長岡さんでした。続いてベースの人、ドラムの人が出てきました。二人とも違う大学で、確か長岡さんの高校の同級生だと聞いたことがあります。私達と同じスリーピースバンドです。

「こんにちは。よろしく」

 長岡さんがぼそっと言います。

 時間はもう十九時です。それを言うならこんばんはでしょうが。なんて思いました。でもギターの音が鳴り出したら、そんなことはもうどうでもよくなってしまいました。

 長岡さんのギターの音は綺麗です。華麗と言うか、上品と言うか、私みたいにがちゃがちゃと弾きません。

 ゆったりとしたリズムに乗って長岡さんが歌い出します。何度もイヤホンで聴いたあの春風の声です。

 一番後ろからステージを観ると、長岡さん達の音楽に合わせて観客達が左右に揺れたり手を挙げたりしているシルエットがよく見えます。それはまるであの湖の、風に揺れる水面のようで、すごく一体感のある完成された光景のように思えました。

 私はほぼ無意識に唇の柔らかい部分をつねっていました。

 少し血の味がしました。

 悔しい。

 それはとても良いステージだったから。どんなに良いライブをやっても、いつも、どうしても長岡さんに勝てません。



 月が綺麗なある月曜の夜、長岡さんがふらっと私の下宿にやって来ました。

 私はそろそろ寝ようとしていた頃合いで、化粧も落として(元々そんなに濃くはないのですが)歯磨きも済ましていました。

「こんばんは。ラーメンでも食べに行こうよ」

「あ、はい。そうしましょうか」

 売り言葉に買い言葉。私は少しだけ化粧をし直して、外出用のシャツに着替えました。

 外に出ると長岡さんは自転車にまたがって私のことを待っていました。

 長岡さんは自転車が大好きです。普段はオシャレな自転車(ロードバイクというみたいです)に乗って町中をふらふらしているのですが、私を迎えに来る時だけはぼろぼろの格好悪いママチャリに乗ってきます。これは私を後ろの荷台に乗せるためです。

「乗りなよ」

 そう言われて私は長岡さんのママチャリの後ろにちょこんと座りました。自転車が走り出すとぎいぎいと錆びついた車輪が回る音がして、私はそっと長岡さんの細い身体に腕を回します。

「いつものとこでいいかい?」

「ええ」

 そう言ってぎいぎいと、私達は大通りの方へ細道を抜けていきます。その姿はまるでステレオタイプな恋人のようでした。

 そう言えば私は長岡さんのことを「名目上は彼氏」だなんてややこしい言い回しをしていましたね。けれどもこれにはちゃんと訳があります。

 あれは忘れもしない大学一回生の夏の日、私は初めて長岡さんのバンドのライブを見に行きました。

 長岡さんは当時から既に有名人で、駅前のライブハウスをワンマンで満員にするくらい人気がありました。私はこの日もライブハウスの一番後ろにいて、壁にもたれかかって長岡さんの歌を聴いていました。

 当時、私はギターを始めたてで、毎日暇さえあれば練習をして、その合間に曲も作ってというような日々でした。そしてなぜかそれに対して強い自信を持っていました。私の作る歌は最高だと。今思えば恥ずかしいのですか。

 長岡さんの春風は、そんな私の自信を粉々に吹き飛ばしてしまいました。開いた口が塞がらない。って言ったらだいたいの方は悪い意味で取らえますよね。でも私は本当に開いた口が塞がらなかったのです。良い意味で。

「最後までよろしく!」

 その日、長岡さんは大きな声で叫んでいました。今にして思えば珍しいことです。

 私の開いた口は最後まで塞がりませんでした。こんなに格好良い音楽があったのか。心からそう思いました。同じ音楽の世界に身を置く私、その感情は「感激」なんてお熱く、クリーンな、映画みたいなものではなく、素直な「嫉妬」でした。私の中にどろどろとしたチュコレートシェイクみたいな何かが渦を巻いていました。溶岩のように燃え盛って。不安で不安で、早くギターを、早く弾かないと私が私でいられくなるような感覚でした。

 ライブが終わった後、私は半ば放心状態でした。ショックだったのです。自分の音楽が全否定されたみたいでした。

 ふらふらなままコンビニまで行きました。

 気が張っていたのか、何気なく置いてある一泊用の歯ブラシやブルーのテープで封緘された安っぽいエロ本なんかがやたらと気に触りました。それと同じくらい頭の中では行き場のないメロディーが流れていました。もちろん全てボツになってしまうような雑多なものです。

 この感覚を、行き場のない感情をとにかく誰かに話したいと思いました。例えば富永さんとか、もしくは故郷のお母さんとか、もしかするとすごく綺麗な歌詞が浮かぶかもしれない、なんて思っていました。

 そんなことを考えながら、棒付きのアイスキャンデーだけを買ってレジへ行くと、驚くことに、なんとそこに長岡さんが立っていました。緑のパッケージのお茶を買っているではありませんか。

 さっきまでステージに立っていた長岡さん。私が嫉妬した、ショックを受けた長岡さん。チュコレートシェイク。ついつい顔を覗き込むと、緊張していたからなのかやたらと見つめてしまったようで、長岡さんが私に気付きました。

「ライブに来てくれたお客さんかな?」

「はい」

「そうか。そうか。今日はどうもありがとう」

「いえ、こちらこそ」

「気に入ったなら、是非また来てくれよ」

「ええ、はい。あの」

「うん?」

「あの、私と付き合ってください」

 それは私にとって、初めての告白でした。コンビニのレジ前。みんなに聞こえました。店員さんもレジを待って並んでいるお客さんも、きょとんとしていました。もちろん長岡さんも。

 私はしまった、と思い収穫時のトマトみたいに真っ赤になってしまいました。でもそんな私を見て長岡さんは、

「そうか。じゃ君は今日から俺の彼女だ。うん、そうしよう」

 なんて言って私の肩をぽんぽんと叩いて笑ったのです。

 意外な返事に今度は私がきょとんとしてしまいました。

 そうして私達は彼氏彼女になったのです。

 でもそれだからと言ってそこから大学生らしい麗しの恋愛ストーリーが始まるわけでもなく、と言うより、私達の関係は普通の大学生の彼氏彼女とは大きく違っていました。

 あれからもう一年くらい経ちますが、デートらしいデートなんて実は一度もしたことがありません。

 水族館とか美味しいイタリアンとか、私だってたまには行ってみたいと思います。でも長岡さんはいつもラーメン屋さんとか古本屋さんとか楽器屋さんとかにしか連れていってくれません。嫌ではないのですが、やっぱり少し寂しいです。

 もちろん記念日なんてものもありません。クリスマスも交際記念日も関係なしです。

 今年のバレンタインなんて最悪でした。

 私はちゃんとチョコレートを手作りしていたのに、長岡さんは終ぞ連絡がつきませんでした。悔しいので手作りのチョコレートは全部自分で食べました。

 と、まぁこれが「名目上は彼氏」なんてややこしい言い方をする理由です。

「長岡さん、またギター教えてくださいよ」

 国道沿いのラーメン屋さん。私達の行きつけです。私は隣でラーメンを待ち、水を飲む長岡さんに話しかけます。

「嫌だよ、もう」

「どうしてですか?」

「だって君、どんなに言ってもがちゃがちゃ弾くじゃないか」

「それはそうですけど」

「君と僕とではプレイスタイルが違うんだから無理に合わせる必要はないよ」

 そこでラーメンが運ばれてきました。

 長岡さんはコーンのたくさん乗ったコーンラーメン、私は普通のラーメン。長岡さんはコーンが大好きなのです。同じようにネギも大好きで、ネギをセルフで好きなだけ入れられるこのラーメン屋さんではいつもたくさん取って入れるのですが、今日はさすがに入れ過ぎたみたいで、入れすぎた分をれんげで私のラーメンに移していました。すまない、すまない、なんて言いながら。

「何の話だっけ?」

「だから、ギターを教えてくださいって話ですよ」

「あぁ、そうか。ダメダメそれは」

「いいじゃないですか。ケチんぼですね」

「やっ、ケチんぼなんて女の子が言うもんじゃないよ」

 そう言って長岡さんはすくい上げた麺をふぅふぅしながら食べています。本当ケチんぼ。口に出すと叱られてしまうので、心の中でもう一度言ってやります。

「次はいつライブするんですか?」

「さぁ、まだ決まってないなぁ。君は?」

「決まってないです。新しい曲も最近はできてません」

「そうか。なんだ? 難産なのか?」

「難産ですねぇ。と言うかアイデアもまとまっていません」

「あぁ、それはダメだ。ほら、これをお食べ」

 そう言って長岡さんは私のラーメンにれんげで掬ったコーンを入れてくれました。

 お気持ちはありがたいですが、私はコーンが、嫌い!

 ラーメン屋さんを後にして自転車で来た道を引き返します。道行く野良猫も眠りこけているくらいの真夜中です。

「こんな時間にて悪いんだけど、君の下宿でコーヒーを一杯だけいただけないかなぁ?」

「いいですよ。一杯だけなら」

 なんてやり取りをするのですが、これは長岡さんが盛り立ってる時に必ず言うセリフで、結局下宿に上がり込んで、私のお乳に触ったりパンツを脱がしたりと、エッチなことをしてくるのです。

 せっかく淹れたコーヒーは冷たいまま、十中八九誰にも飲まれないまま放置プレイなのです。

 で、長岡さんが帰った後、私は一人で二人分のコーヒーをシンクに流します。ごめんなさいなんて思いながら。

 上半身だけ何かを羽織って、下半身は裸のまままです。その後ろ姿は多分どうしようもなく猥褻。破廉恥とも言うべきか。何だかエロ本の一生節のようです。一人きりだとどうしようもなく悲しくもなります。

 結局、長岡さんとは私にとって何なのでしょうか。もちろんその逆も然り。床に落ちている破れたアルミ製の小さな袋を拾いながらそんなことを考えます。


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