第三十四話 薬剤師の震災話・その三・続医療ボランティア編
被災地に行ったというか行かされたというか、他の職種の人たちから話を聞いてみる機会があった。もちろん配属先と行った時期によって相当仕事の内容は違っていた。
第一陣というか、先にも書いたが震災がおこって翌日に行くことが決定した人はドクターヘリで行った。(その人は外科医師)とりあえず重症の人から順番に診ていったがひどい余震が何度かくるたびに診察中断せざるをえず(揺れると処置ができない)また自分自身がちゃんと家まで生きて帰れるかどうかと死ぬことも覚悟したという。だが患者は置いていけない、自分から志願して来たのだ、時間も忘れてかたっぱしから診療したという。
私が配属された現場はひとまず落ち着いた、いや全然落ち着いてはいないけど大混乱状態からやや抜けた頃だった。正確な日は覚えていないが三月上旬だった。それでもまだJRは動いていない。ドクターヘリではなく水上警察の船でいった。
配属先は三宮駅前の建物の六階だった。その建物は壁にひびが入って水が出ない以外は人があがれる。電気は通っていたがエレベーターは使えない。だから毎日毎日一階から六階まで荷物を持って自分の足で上がったり下がったり。
すぐ近くの百貨店は「そごう」だったが、ぺしゃんこになっていて見る影もない。初めて見た時だけびっくりしたが、すぐに慣れた。他の倒壊現場、例えば真ん中から倒壊して五階建てぐらいのビルがこんにちは、と頭を下げているようなのを見かけてもすぐに慣れた。これ、誰が直すの? 建て直すのにお金がかかるだろうな? つぶれた自動車を見ても保険金出るのかな、とか。考えつつ歩く。
おそらくこういう現場で亡くなられた方や大怪我をされた方々がいたはず。だが人影がなく廃墟になっていると単なる光景になってしまう。本来ならご冥福を祈るべきだと怒られるかもしれないが、目の前の現実に感覚がマヒしてしまった。お花を供えたりも全くないし廃墟あるのみ。三ノ宮で靴屋さんがずらっと並んでいて買いに行ったあたりも焼野原で人間が暮らせない。逃げられる人は皆近くの大阪はじめどこかのホテルや家に避難していったので、そこで暮らしている人は誰もいない。
私が思うに人間は緊急時において神経を自動的に麻痺というか摩耗させて日常生活たとえばトイレや食事どうしようとかそう思う方向にもっていくような気がする。根本的な生理現象に考えが向いていってしまうのだ。
転じて非日常が続く戦地、戦場には精神疾患や自殺が少ないというのはこのせいではないか、と感じる。息をすってはいて食事をして排泄するだけで精いっぱい。つまり生きていくのに精いっぱいで。
実際私は被災地の今後の行く末より自分が行くトイレが毎回憂鬱だった。生理現象は誰にでもある。水の確保は水洗トイレには大切なことだ。
口から入れる水はペットボトルのミネラルウォーターがあり、飲み放題だったのでそれは大丈夫。
だけどどこへ行ってもトイレには水がなかった。水洗トイレの水が流れないということは大問題なのだ。こういう災害でライフラインが壊滅した場合、汲み取り式のトイレの方がいいのだろうか。
実際、トイレはバケツの中でするのだ……。大きなものは便器のすみに用意されている新聞紙に包んで所定の場所に廃棄しにいく……。だから被災者さんの大変さをこういう身近なことで実感した。
看護師さんたちはチームを組んであちこちにちらばっていった。彼女たちとは医薬品を届けるときに会った。私の担当場所は薬剤師は私を入れて二人だけ。私は届け物があって臨時診療所に出向いたが(運転や運搬は県職員さん、車は公用車で綺麗だったが感覚がマヒして何も思わなかった)もう一人の薬務の人は留守番だった。この人は他にも職務があり、私が帰阪するときも残っていた。
私たちはあちこちから医療援助物質が届いたのはいいけれど、管理が行き届かず困っていると言われていた。外出をしないときはその中でずっと整理をしていた。
私の相方の薬務の人にちょっと触れる。
この人は当時二十代の私よりずっと年上の男性で同じく薬剤師だが、所属は本庁の薬務課の人だった。しかも臨床の経験がなし。
初顔あわせをして、私は笑顔で挨拶したものの、正直この人と数日ここで一緒に仕事をするのかと暗い気分になった。気を遣うし大丈夫かと心配だった。が、気さくでやさしい人だった。私は小さい時から威張る人が大嫌いだったし行政職の人は何でも上から目線で臨床現場では融通がきかないという印象を持っていたが、とても腰の低い人だった。後から聞けば行政でも評判の良い人望厚い人だった。
「ぼくは医療職ではないけれど、一応資格は持っている。あなたが指示してくれたらぼくはその通り動くから」
と開口一番におっしゃられ、ほっとしたことを今でも覚えている。
年下の私に気を使い、私をたて、病院勤務のあなたの方がぼくより薬の使い方を知っているからと、いちいちこれはどうだろうか、こうするほうがいいかな? と聞いてくれた。
私は恐縮しつつ、ばらけた薬の保管場所や向精神薬の置き場所を決めさせてもらった。あとから来る人たちのために置き場所を書いた見取り図や出庫伝票も会った方がよいだろうと有り合わせのノートをつかって作成した。
電気だけついている状況だったのでパソコンやプリンターなどはない。全部手書きでノートに線を引いて原始的手書き出庫表を作った。あれ、どうなったのかな? またその人自身は私のことをどう思っていたかはわからない。
前任者から申し送りというものがあって以下の通りだった。
「向精神薬関係に乱用者が出ている。カルテがない状態で仕方がないが医師もほいほい渡すものだからそれを何とかしたい、実態が把握できたらなおよし」 というもの。
確かに不眠症薬で基本的なハルシオン、レンドルミンはどこの病院でも援助物質で送ってきてくれてはいる。が、一錠ずつばらばらの状態でかろうじて一か所にかたまって机の引き出しにほうりこまれている。数も多すぎて把握できないぐらいあった。それとデパス錠、次いでリーゼ錠も多かった。
机の上にはそれぞれのPLや胃腸薬などが箱ごともしくはビニールごとにどーんと置いたまま。一錠ずつばらけた状態でビニール袋の中でかたまりになっているのもある。援助を送付した方が気をきかせたつもりで最初からシートを一錠ずつばらしたのだろう。
いろいろな医療関係者が入り乱れて入室した状態だったのだろう。とりあえずこちらの部屋を薬物倉庫として一室にかためました、という状況だった。
三宮は壊滅状態だったので処方箋なんか来るはずないし、散薬調剤や製剤、滅菌業務なし、注射薬の混注もない。はっきりいって援助物質の医薬品の「管理に来た」 ようなもの。
とりあえず超基本の鎮痛解熱剤や胃腸薬などはある。繁用される降圧剤も数種ある。それはよいけどそれもよく見て見れば規格もメーカーもばらばら。ジェネリック薬品もぱらぱらと混じっていて困惑。
たとえば降圧剤のアダラートならカプセル他、徐放剤にも数種の規格があるのだがそれがごっちゃになっている。通常の薬局ならまずありえない。つまりそれだけ混乱していたのだ。
やることが多すぎてとりあえず使用目的ごとに引き出しに入れときましたという状態。それで精一杯だった。
トローチとPLや異様に多い。トローチはのどの炎症に使う。PLは、塩野義製薬の医療向け風邪薬のこと。季節は暦は春でもまだまだ寒い。避難場所の診療所は風邪の患者がメインという情報があったからそればかりたくさん来たのだろう。
眠剤はとりあえず鍵のある引き出しか金庫をくださいという要請を三宮の職員に伝えるも「こんな状態で新しい備品なんかないそっちでなんとかしてくれ」 という返事。一蹴だ。そりゃまあそうだろな、と思いつつ先ほども書いた手作りの簡易な出庫伝票作成。つまり今後は常習性のある睡眠薬は勝手に持ち出せないように、どこの誰が何をどれだけ持ちだしたかを書くように仕向けた。
午後からは診察現場をあちこちみていって不足のものを補充してくれという。
車は兵庫県とドアに書いてある公用車で。そこに医薬品を詰め込んでGO.運転手さんは危ない道や通ってはいけない道をよく知っていた。
風邪薬と睡眠薬はこれ以上は不要ですと業務連絡で言ってもらった。
(まだ続く)
著者追記::当時はとにかく混乱していて、誰がいつ何をしにきたという基本すら誰もわからなかった。私の派遣先は三ノ宮図書館の六階という場所。そこに各病院から提供された医薬品を管理していた。外部からはそこに薬局があると誰も知らなかったことで変な人間が入り込むことはなかったのは幸い。鍵もかかっていなかったから。ハルシオンなど大量にあったが、あれはどうなったのだろうと今でも思う。
現在は緊急の場でも所属と職業(医師や看護師、薬剤師、保健師)などすぐにわかるように、かつ大きく県名を書いたジャージやタスキができて着用するようになっている。D-MAT(ディーマット・災害派遣医療チーム)の概念もそれこそ神戸震災の反省から大前進しました。そういう意味では大きな教訓を得たと思っています。




