第三十三話 薬剤師の震災話・その二・医療ボランティア編
赤十字からは即日応援要請があった。
行く人はすぐに決まった。当然泊りがけだ。医薬品や医療道具を積み込んで行く。第一陣は何が起こるか手探りの状況で行くので責任重大だし、被害の大きさがわかっている中心部に、しかも余震が続いているのにそこに拠点を置くというのである意味命がけだった。
いろいろあった第一陣が無事に帰院し、彼らから話を伺う。次の人にバトンタッチをしないといけないので、帰宅せず疲労をものともせず報告会をしたのだ。そして私を含めて皆順番に現地へ行くことになったからだ。現地で余震が続き診察がときには中断した。医師はもう一発大きいのが来たら無事に帰れないかもしれないなーと思ったそうだ。大きなけがをしている人はかたっぱしからドクターヘリで搬送する。トリアージは当時はあまり広まっていなくて、緊急処置が必要な患者はカードか何かで印をつけた。細かな余震があるたびに万一のことを考えて診察や治療が中断される。現地はJRはいまだ動かない。車もダメ。
私が行ったときは震災後も落ち着いた頃で月も変わっている。医療職は全員水上警察の巡視船で神戸に行った。それとヘリも。港に着くと待ってくれていたパトカーが送ってくれた。看護師さんたちは何人かに分乗してどこかへ行った。私もどこへ配属されるかおまかせだった。災害派遣はその場その場で状況が変わるものなので私的な希望や配慮などという甘い言葉は存在しない。
パトカー内で三宮駅前近くに行くとわかった。
車道はところどころ道が分断されていて危ないということで歩道が車道になっていた。道の真ん中に地割れが起きて盛り上がっている。車は通れない。
車は自衛隊と消防車、公用車しかなかった。民間の車や社用車皆無。異様だったがすぐに慣れた。
つぶれたビルが散逸している。三ノ宮駅前の百貨店のそごうがテレビで見たとおりにペタンコになっていた。何度も行っていたアーケード街も焼野原。これが当たり前な感覚になってくるというのが我ながら怖い。
私がいたチームは医師、看護師、薬剤師、臨検技師混合で十人ほど。職場はさまざまで混成チームでみなが初対面である。看護師は全員主任や婦長クラスの大ベテランだった。みな頼もしそうだった。看護師一筋で長い人生を過ごしている人は顔つきにもプロの風格が出る。(と思う。)
震災後の日がたっていたので緊急手術が必要な人はいず、季節的に風邪をひいたとか家をなくしてこれからを思うと眠れないという訴えがほとんどだった。いきおい、外科分野より内科分野の診療がほとんどだった。心理的なケアはまだこれからという段階。行政も混乱はしていたが、みな分担してがんばっておられた。
あちこちから医療物資が送られてきていて、当方が持ってきた医療品ははっきりいって不要だった。医薬品はたくさんあった。また市場に流通している医薬品も(たとえば熱さまシートや改源とかトローチ、うがい薬などドラッグストアで簡単に入手できるもの) 前任のチームから伝言があった不足気味の物資もどういうわけかたくさんある。きっと伝言系統も混乱していたのではないか。
医薬品は鍵のかからない、防御もへったくれもない部屋にまとめて保管してあった。別室には薬の大箱が段ボールのまま開封せずに置いてあった。全然知らない人がふらっとやってきて熱さまシートとかを箱ごとごっそりもっていく。白衣を着ていないので「どなたですか」と聞くと○○町の保健師です。といってそのまま出ていく。あちら側にしても私がどこの誰かはわからない。顔も見知らぬ同士なので危ない。
睡眠薬やある種の劇薬などは鍵のかかる引き出しをみつけて保管を決める。どういうわけかハルシオンが異常にたくさんあってしかも一錠ずつばらばらにされている。はっきりいってぐちゃぐちゃだった。
なお通常なら名札ぐらいは、とは思うが現場ではそこまで気のまわる人もコーディネーターもいなかった。その時の経験も生きて、東日本震災以降の医療救援隊ではその人の職種やどこの都道府県から来たのか一目でわかるジャケットを着る。
現場へ行って申し送りを聞く。きちんとした定期的な処置が必要な患者は搬送、きちんとした薬品の服用がないと病状にかかわる患者、たとえば糖尿病とか腎機能、肝障害の患者もひところを思えば落ち着いた。医薬品の供給も落ち着いている。ただし私が配属された場所は三宮の中心地だったので地方の状況は不明。
季節柄、被災者の風邪が大流行。前任者から風邪の人ばっかりですよ、と。それと眠れないという訴えがメインだと聞く。
こういった混乱の経験を生かして東日本の震災ではDMAT(ディーマット=災害派遣医療チーム)がすぐ活動できたと思う。当時はそういった訓練もなかったから。少なくとも私は研修を受けていなかった。
……続きます。




