第三十二話 薬剤師の震災話・その一・兵庫県南部大震災当日の話
平成七年一月十七日、午前五時四十六分。兵庫県南部地震があった朝を私はよく覚えている。当時独身で両親と一緒に暮らしていた。木造の家の二階で私は一人で寝ていた。
ゴーという地鳴りの音で目が覚めた。
部屋にある本棚がゆれ、本が数冊落ちた。長崎で買ったお気に入りのポッペンというガラス細工が割れていた。部屋はまだ揺れている。これはまずいと思いとっさに机の下に隠れる。
なぜかペンギンの布人形を握りしめていた。落ち着いた頃、階下にいる両親の安否を確認。テレビはどのチャンネルも地震速報だった。この時は被害の大きさはまだよくわかっていない。だけど淡路島がひどいようだと報道されている。
電車がダイヤ通りにいかないかもしれないと定刻より早く出勤の準備をした。駅まで向かう自転車越しに何度か揺れを感じそのたびに止まって空を見上げた。道行く人も不安げでよく目があった。でもみんな駅へ向かう人で方向は一緒。
駅のホームはすでに満員。電光掲示板も動いてはいるが駅の放送でひっきりなしに「乗客の皆さん、白線の内側におさがりください。危ないので白線の内側におさがりください」 「電車が遅れて到着します、遅れて到着します」 を連呼。
やっと電車が到着したら車内はすでに満員。地震があったのは確かだが、こちらは大きな被害がなかったしとりあえずは仕事に行こうというわけだ。私も通勤が義務、行くのは当然だった。しかしダイヤの乱れがあり、遅れに遅れた電車はどれも超満員で乗れやしない。
何車目かにやっと乗れて遅刻は逃れたなとほっとする。
ぎゅうぎゅう詰めの私鉄からJRに乗り換えるときに初めてJRが全面的にストップしているのが判明。いつ動くかもわからない状況だった。皆静かにホームで待っている。
ただ一人だけいつ動くのですかと駅員に向かってヒステリックに問い詰めている女性がいて、皆遠巻きに見守っていた。対応している駅員さんは困った様子で「私たちにもわかりません。動く時間がわかり次第放送しますので待っていてください」 と繰り返し説得していた。
私の勤務先まではこの駅からJRで二駅だ。それぐらいなら歩いてでも行けるだろう。私は駅から降りて道を歩いていくことにした。同じようなことを考えている人たちと一緒に会話皆無でぞろぞろ歩いた。
当時は勤務先や学校から家まで徒歩で帰らないといけないための帰宅マップなどはなかった。この時の経験で公的にも作成されたのはいいことだ思う。
私の職場はこの界隈では誰でも知っている病院だったので聞けばああ、あれはあっちのほうじゃないかと教えてくれた。他のひともてくてくてくと歩く。無言でもくもくと。ホント、テロでなくてよかったなと思う。
こういう状況だったので病院に着いたときは午前十時をすでにまわってた。乗り換えがあっても四十分でいけるのに三時間以上かかっている。大遅刻だった。無遅刻無欠席が私の取り柄だったのになんてことだろう。
私は大慌てでロッカーにいって着替えて薬局へ。
ドアを開けるなり「あっ、一人きたっ、おはよう、よく来れたねえ」 と拍手がきた。
私が出勤してあんなに喜んでもらえたのは後にも先にもこれ一度きりです。ちょっとうれしかったりした……が、拍手をしてくれたのが三人。つまり局内には三人しかいなかった。半分以下の出勤だ。そのため仕事がたまりにたまっていた。JRだけ利用している同僚は全員出勤不可な状況で休み。特に被災地側から通勤している人は連絡がつかない。皆で心配しつつフル稼働しながら仕事仕事仕事仕事仕事。昼過ぎには職員のほぼ半数がそろった。あとはまだ。
神戸が震源地らしいですよ、と外来看護師さんが薬局にきたついでに教えてくれた。外来には待合室にテレビがあるのでニュースが聞けるのだ。JR神戸駅や三ノ宮駅を通過する路線の人はしばらく出勤不可だった。電車が動かないと仕事ができないのだ。家のドアが壊れて開かず家の庭すら出れないという連絡も。
きわめつけの死亡、怪我の報告はその日の夜からぼちぼちと入った。本棚や家具が倒れて頭をうったというのが多かった。
病院自体の被害は意外と少なく高層階のナースセンターの備品や給湯器が倒れたぐらい。早朝でまだ寝ている時間帯だったので入院患者さんが怪我をしたとかいうのはなくてこれは幸いだったと思う。時間が時間で外来はしていないし、当然オペもなし。本当に不幸中の幸いと言うかなんというか。
予約制の診療科にはいつもどおり一見元気そうに見える患者が七時にはもう来て(予約してても早い人は本当に早く来院する、そして顔見知りの人と世間話をする)早く玄関を開けろと警備員さんに文句を言ったそうだ。恐るべし患者パワー。
でも目の前のJRが動かないので患者はいつもの外来より少なかった。三分の一ぐらいではなかったか。職員のマンパワーも不足し各種検査や手術は延期になった。
でも私を含めて皆能天気で意外と大丈夫なもんね~といってた。
ただ時間がたつにつれて控室のテレビで神戸あたりの悲惨な状況がわかるにつれて皆無言になった。伊丹駅や六甲の駅の倒壊画像に絶句した。死亡者や行方不明者の数が報道されるたびに増えていく。その日のうちに赤十字から緊急連絡が入り現地へ行く人選が開始されすぐに決定となった。震源地の被災者にとって一刻を争う事態だった。だから第一陣は医師と看護師で構成されドクターヘリで行っている。
」」」」」」」」」」」」」」」」」
私は外来が落ち着いたあと、受け持ちの病棟に上がる。
入院中の患者さんでその日退院予定だったが神戸の人で帰れないとか、入院先の夕方のテレビを見て私の家が今燃えている! 今画面で出た! ほら、先生見て! あのあたり、家の近所全部が燃えている! と言っている人がリアルでいてほんまに大きな地震だったんだーという現実感が出てきた。
長田あたりの上空を報道ヘリが旋回しながら生放送していた。初老の男性患者さんが座ったまま私に向かい、ほらあの辺が俺の家、今、燃えとるわ。家に電話かけてもつながらんし、ここで何いうてもどうにもならんからいい子にしてじっと座ってるがね、はははっと豪快に笑っていた。
彼の心情これいかに……家族や親戚の安否も気になるだろうし、家の中も気になるだろう。ペットもいるかもしれない。とても気の毒で声のかけようがなかったのを覚えている。
 




