菫山の撫子たち。不穏な空気。1
――オシャレな学校だなぁ……。
教室棟は、木目の温かさが活かされた、レトロチックな雰囲気の内装になっている。
外から見たぶんには、荘厳な程厳めしい石造りの建物に見えたが、中は意外にも優しく穏やかな装いである。それも作り上げられたレトロさではなく、年月が積み重なって自然と生まれたような味わいが、窓枠、階段の手すり、廊下の電灯、扉の取っ手などなど、そこかしこに宿っていて、どこを見ても絵になる美しさなのだった。
一階の東端あたりにあったらしい保健室を出て、そのすぐ左手にあった階段を四階まで上った。四階に着くと、廊下を西のほうへと進み、その最も奥にあった『一年A組』の前に立つ。
「じゃあ、行くぞ」
「え? あ、は、はい!」
ねえ、あの子……。うん、転入生じゃない? ふーん。なんか、すごいスタイルいいね。そうかな? あ、挨拶するみたい、教室に入ろう。
などと、こちらを遠巻きに見ながら囁かれる女の子達のヒソヒソ声が、教室へと近づくにつれて大きくなっていた。またそれと同調して、値踏みするような鋭い視線もビシバシと襲ってくるものだから、アオイはもう気が気でなかった。
が、だからといって泣いて逃げ帰るわけにもいかない。全ては母の命のためだ。アオイは冷や汗の噴き出す背中をビシリと伸ばして、五百雀の後に続いて教室へ入る。
五百雀は教壇に立つや、そのよく通る声を廊下にまで響かせた。
「今朝、皆に連絡した転入生が来たので、これから自己紹介をしてもらう。皆、席に着け」
五百雀は、胸の半分近くが放り出されたような、そのセクシーな軍服で平然と教壇に立ち、生徒のほうもそんな五百雀を気にするふうもなく粛々と席に着く。
どうやら五百雀は今日特別にこの格好をしているわけではなく、つまりこれが彼女のユニフォームのようなものらしい。そんなことをふと考えていたアオイを、五百雀がちらと横目に見る。アオイはハッと再び背を伸ばし、四十名程のクラスメイト達へ真っ直ぐに顔を向ける。
白い上着に、明るい紫色のスカーフとスカート。菫の花のごとく清らかな制服を、少女達は着崩したりすることなく品行方正に身につけている。髪の長さは皆まちまちだが、誰一人としてガサツな髪型をした者はいない。
厳しい規律の中で、自らの知性と美しさを育んでいる大和撫子達。
そんな少女達の凛然とした瞳がひたすらこちらを見つめている。それだけでも緊張するに違いないのに、自分は今何をしているかというと、女装をして女子高に潜入しているのである。
「え……あ、う……」
いちおう数日前から挨拶の文句を考えてはいたのだが、実際にクラスいっぱいの女の子達と向き合うと、気づけば頭は真っ白になっていた。
しかし、いつまでも挙動不審に立ち尽くしているわけにもいかず、
「ゆ、百合園アオイです。今日から、よろしくお願いします!」
と、ほとんど無我夢中に頭を下げた。
「うむ。今日から百合園は皆のクラスメイトだ。何か解らないことがあるようだったら、皆率先して手を貸してやること。百合園、お前の席は窓側から三列目の、一番後ろの席だ。着席して、授業の準備を始めろ」
五百雀は淡々と告げて、淡々と教室を後にしていった。そして生徒達も、淡々と授業の準備を始めるのだった。
『みなさーん! 転校生が来ましたよー! わーわー! パチパチ!』
という熱烈な歓迎を期待していたわけでは、もちろんない。むしろ波風立たないよう簡単に、形式的に済ませてほしいとは確かに思っていたが、これではあまりにも淡泊すぎやしないか。というか、なんだかあまり歓迎されていないような気がしないでもない。
教室を見回しても、誰一人笑顔を浮かべている者はいない。それどころか、睨むような目つきで、ちらちらとこちらの様子を伺っていたりするのだ。
――なんだ、この雰囲気は……?
思い描いていた女子高とはあまりにも違う現実の光景に、アオイはまさかもう正体がバレたんじゃないかと勘ぐってしまいながら、五百雀に指示された席に座った。
しかし、それからはなんということもない、学習の内容もスピードも平凡な、極めて普通の英語と生物の授業を受けて、続けて五百雀担任の帰りのホームルームがあると、呆気なく放課後がやってきた。
――まあ、こんなもんか?
安心したような拍子抜けしたような、とりあえず無事に放課後を迎えられてよかったと安堵しながら、やれやれとアオイは鞄の中に教科書をしまう。と、だしぬけに視界がすっと影に覆われた。顔を上げると、
「え……?」
冷たい目つきでこちらを睥睨する三人、否、その後ろにも数名の生徒が、いつの間にか壁のようにアオイの机を取り囲んでいるのだった。
そのうちの一人、なかなか恰幅のよい生徒が言った。
「アンタ、もうどこかに入ったの?」
「へ? は、『入った』? って……な、何に、でございますの?」
まるで巨大な氷壁のように自分を高く取り囲み圧迫してくる生徒達を、アオイは思わず怯えながら見上げる。
だが、少女達はアオイの問いに答えない。少女達は、少女達の中ですら威嚇しあっているように剣呑な目で互いを睨み合い、心理戦でも繰り広げているかのように誰一人口を開かない。
そのただならぬ雰囲気に、アオイはぞくりと身の危険を感じた。『逃げたほうがいい』。本能がそう叫んだ。
アオイは咄嗟に逃げようとしたがしかし、椅子を後ろから押さえつけられて立ち上がることができない。息を呑みながら背後を振り返ると、既に背後までもが氷壁に塞がれている。
――これは……!
どうやら危険を察知するのが遅すぎたらしい。既に状況は四面楚歌。鼠が逃げる隙間もない。
「ねぇ、あなた、もうどこのクラブに入るのかは決めているの?」
唐突、アオイのすぐ左に立っていた、メガネをかけた生徒がアオイの肩に手を乗せた。
「ク、クラブ?」
アオイは突然の問いに首を捻る。すると、それと同時、
「ちょっとアンタ!」
その生徒の左隣に立っていた、縦に長い、黒いバッグを背負っている少女が、メガネ少女の腕を掴み上げた。
「何アタシら無視して、勝手に手つけようとしてるのよ! 勉強しか脳のない学習クラブごときが、デカい顔してんじゃないわよ!」
「それはお前も同じようなものだろう。和楽器クラブ」
アオイの真正面を陣取っていた、鼻の頭になぜか墨をつけている生徒が、傲然と腕を組みながら黒いバッグを背負っている少女を睨む。
「フン。そう言うキミもね、書道クラブ」
鼻に墨のついた少女の後ろに立っていた、何を撮っているのか、ずっと八ミリカメラを覗いていた少女が言った。
「いや、あんたもでしょ」
「いやいや、お前だって」
「あなたも」
「あんたも」
「君だって」
「あなた達全員そうでしょう」
「何を一人だけ違うような言いかたをしているの? あなたが一番そうでしょう」
「一番はお前だろう!」
「いやお前だ」
「アンタだよ! どう考えてもアンタだ!」
――な、なんだなんだ……!?
どうやらクラブの勧誘で先を争っているらしいことは解ったが、周囲は既に『お前だ』『あなただ』という、何について争っているかも解らない、当てこすり合いの嵐になっている。が、書道クラブの少女が、ふとアオイに尋ねてきた。
「ところで君、寮は誰と同室なんだ? 既に知っているのなら、教えてくれないか」
「え? ああ、うん、知ってる――じゃなくて、知ってるでございますわよ。希司シノさんでございます」
えっ、と誰かが驚きの声を上げて、それきり周囲の喧噪はピタリと止んだ。希司の名を口にした途端、まるで深夜の雪原のような静寂が教室を覆った。
「『絶対聖域』(サンクチユアリィ)……」
「可哀想……」
やがて小さく聞こえてきたのは、そんな声だった。さっと潮が引いていくように、一人また一人とアオイを取り囲む者が消えていき、気づけばアオイはぽつんと一人きりになっていた。