女子力とは。
緩やかに瞼を開けると、目の前には明るい陽の光が満ちていた。
澄んだ水底にいるように景色がボヤけている。けれど全身は羽毛に包まれているように、柔らかな午後の陽射しを受けているように、心地よい温かさの中にある。
ここは天国だろうか。幸福感の中へ沈み込んでいくような気分でそう感じていると、ふと目元に何かが伝う感触を感じて、続けて、
「目が、醒めましたか?」
という、憂いを含んだような女性の声が聞こえてきた。
そのほうを向き、ぼんやりと滲んだ希司の顔を見つめて、それからぼーっと辺りを見回す。
「は、はい……。でも、ここは……?」
白いカーテン、白い天井、白い壁。そして広い部屋にズラリと並ぶたくさんのベッド。ああ、自分は病院に運ばれたのだろうか。そう思いながらアオイが尋ねると、その様子でアオイが落ち着いていることを確認して安堵したように、希司はベッド脇のパイプ椅子に腰を落ち着けながらにこりと微笑んだ。
「保健室ですよ、学校の」
「保健室……?」
それにしては広すぎる。ベッドが五十は並んでるじゃないか。と半身を起こしながら驚くと、希司が、持っていた白いハンカチを胸の前でぎゅっと握りながら言った。
「それより、具合は……?」
「え? ああ、はい、大丈夫です。すみません。心配をかけてしまって……」
「い、いえ、そんな。むしろわたしのほうがご迷惑をかけて……」
「でも、よく憶えてないですけど、ここまで連れてきてくれたのは希司さんなんですよね? それに、こうしてわざわざついていてくれて――あ、ついていていただきまして、本当にありがとうでございますわ」
「いえ、わたしはただ……」
シノは困惑しきったようにこちらから目を逸らして、何やら居心地悪そうにそわそわとし始める。と思うと、その円らな目がじわりと潤んだ。
「え? ど、どうしたんでございますの、希司さん?」
「な、なんでもありません。あの……先生方を呼んできますね」
希司は目に涙を湛えたまま明らかに無理に笑みを作り、それから逃げるように椅子から立って小走りにベッドの傍を離れていった。
教室を四つか五つ並べたくらいはある広い部屋、その窓際にあるこのベッドからはちょうど反対側に、保健室の入り口らしき扉がある。そのすぐ脇にはナースセンターのような場所があり、希司はそこにいた白衣の女性と何か話すと、そのまま保健室を出て行ってしまった。
何かマズいことでも言ったか? そう不安になって、すぐに希司を追うべきか否かと悩んでいると、程なく、入り口の扉を開けて二人の女性が保健室へと入ってきた。
その女性らは白衣の女性と軽く言葉を交わしてから、真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてくる。濃いグレーのレディーススーツを着こなしている女性と、まるで水着のように布面積の少ない、迷彩柄の上着とショートパンツを身につけた女性である。
前を歩く、きっちりと頭の後ろで髪を束ねたスーツ姿の女性は、アオイの顔を見ながらどこか嬉しそうに微笑んでいる。
その顔や姿には、なんだか見覚えがあるような気がした。でも、どこで会ったんだっけ?
とアオイがぼんやり思い耽っていると、やがてその二人はアオイのベッドを囲むようにして立った。
年はアオイの母と同じくらいだろうか、スーツ姿の女性が唐突、噴き出すように笑った。
「ふふっ。どうやら来て早々、災難に遭ったみたいね」
はあ、とアオイが曖昧に頷くと、やはり顔に見覚えがあるような気のするその女性は、砕けた笑顔のまま言う。
「でも、大丈夫そうで安心したわ。まあ、希司さんがついていれば大丈夫よね」
「希司さん? って、ああ、そういえば、あの人、さっき急に……い、いやそれより、あの人は一体……?」
希司はなぜ先程急に泣き出したのか。いやそれよりも、あのまるで魔法を使ったような戦いはなんなのか。というか、あなた達は何者なのか。混乱する程頭が疑問で溢れ返り、上手く言葉が選べない。
すると、スポーツブラとホットパンツのような迷彩服を、外国人セクシーモデルばりのその身に纏った女性が一歩進み出た。赤に近い茶色の、ウェーブがかった長髪がふわりと揺れる。
「落ち着け、百合園。そう焦らずとも、我々はお前の問いに可能な限り答えてやる。そのためにも神原理事長がこうして来てくださっているのだからな。だから、そう情けない女のように取り乱すな。男だろう、お前は」
おそらく二十代後半と思しき迷彩服の女性は命令的な口調でそう言い、厳然とした眼差しでアオイを見下ろす。
その目は鋭いが、瞳の奥にある輝きは穏やかな湖面のように深く優しい。アオイはその厳しくも温かな目に見つめられて自らの焦りに気づくと、一つ静かに息を吐いてから、当然だが自分の正体を知っているらしい大人達に尋ねた。
「あれはなんなんですか? 希司さんや宮首さんが使っていた、あの魔法のような力は。ん?いや、でもあれって、ただの俺の夢……?」
貧血か何かで倒れる直前のことだから、記憶と妄想がごちゃ混ぜになってしまっているのかもしれない。アオイが自信なく言葉を尻すぼみにさせると、神原が確然と言った。
「いえ、夢なんかじゃないわ。あれは、女子力というものよ」
「女子力? 女子力って……あの女子力ですか? 」
キョトン、とアオイが神原を見上げると、神原は子供を見守る母親のような笑みを浮かべながらベッド脇の椅子に腰かけた。
「きっとユキさんにやられたんだと思うけど、叩かれた頬の痛みがもうないでしょう? それはさっき私の力で治したからで、要はそういう、まさに魔法のような力のことよ。だから、最近、一般的に使われ出した女子力とは全く別物ね」
魔法? 聞き間違いかと思いつつ、ユキの拳が掠めた左の頬に手を触れてみると、確かに痛みがない。軽くつねってみても、微かな鈍痛さえないのだった。
神原は続けて言った。
「もう少し詳しく説明すると、この学校はね、古くから山岳の巫女(山ガール)達の修行の場、つまり聖域として扱われてきた場所なの。希司さんや宮首さんが使っていた魔法のような力――女子力は、その加護を受けたことによる力、山岳の巫女(山ガール)が美しさを認めた女子にのみ与える神の力とでも言うべきものなのよ」
「山岳の巫女(山ガール)が美しさを認めた『女子』? じゃあ、なんで理事長も――って、すみません」
少しキツさを感じさせる程に整った顔立ちのためか若く見えるが、たぶん四十代の神原も『女子』なのか? そうアオイは疑問を抱いて、だがすぐ、それが言葉に出してよい疑問ではないと気づいて口に蓋をする。と、神原はムッとした様子もなく苦笑した。
「それって謝るほうが無礼なんじゃないかしら、百合園さん。でも、その通りよ。私も昔は彼女らのような力を持っていたのだけど、もうそれは完全に失っているわ。今私が持っている、この『時の旅人』の能力は、理事長という役職柄、山岳の巫女(山ガール)に特別に使わせてもらっている力であって、普通の女子力ではないの」
「は、はあ……」
「ともかく、希司達が使って戦っていた力はそういうものだということだ。そして、理事長のお話が嘘であると疑うことは、お前にはできないはずだ。何せ、既にそれを目の当たりにしているのだからな」
水着のような迷彩服を着た女性が、ニヤと犬歯を見せて微笑む。
この女性が何者であるかは全く解らない。だが、その言葉に疑問を感じる余地はなかった。確かに、アオイは既に『女子力』を使った戦いを目にしていたのだから。しかし、だとしても、アオイは尋ねずにはいられなかった。
「でも、ここは学校ですよね。学校で戦いなんて、おかしいでしょう。まるで戦いがあるのが当然みたいな話しぶりに聞こえますけど、どうして止めないんですか?」
「私達は生徒の戦いには余程の事がない限り干渉しません。なぜなら、山岳の巫女(山ガール)達がそうあるようにと求めているからです」
意味が解らん。神原の言葉にアオイは唖然とするが、迷彩服の女性は平然と話を継ぐ。
「混乱するのは理解できる。だが、お前は今日からこの学校の生徒だ。つまり、ここで生きていくしかないのだ。辛いだろうが、現実を受け入れろ。そして戦え」
「た、戦えって、そんな……!」
「大丈夫よ。あなたは、あの『深窓の暴れ馬』と畏怖された女の息子なんだから、ちゃんとやっていけるわ。自信を持って、油断だけはしないで頑張りなさい」
と、神原は投げっぱなしにするようなことを言いながら椅子から立ち上がる。
「じゃあ、軍曹。後はよろしく頼むわね」
軍曹? とアオイは、神原が今確かにそう呼んだ迷彩服の女性を見上げる。女性はアオイへと手を差し出す。
「立てるか?」
「は、はい」
アオイは『軍曹』と呼ばれる割にはほっそりとしたその手を掴んでベッドから立ち上がり、それから念のために尋ねた。
「あの、ところで、あなたは……?」
「ん? ああ、すまない。私は五百雀という者だ。これからお前が入るクラスの担任だ」
「困ったことがあったら、軍――ではなくて、五百雀先生を頼りなさい。五百雀先生は、ちゃんとあなたの事情を知っているから」
神原は言って、『軍曹』というニックネームらしい五百雀と目を見合わせ、大人同士のテレパシーで通じたように小さく頷き合う。
「はい。じゃあ、あの……五百雀先生、これからよろしくお願いします」
アオイが五百雀に頭を下げると、うむと五百雀はしかつめらしく頷き、
「では、教室へ行こうか。まずは転入生の紹介と挨拶だな。そつなくやれよ」
そう言って、まだ靴も穿いていないアオイを置いて歩いて行く。
アオイは靴を突っかけ鞄を掴んで、神原に一礼してから慌ててそれを追った。まさか軍隊の訓練所みたいなクラスじゃないだろうな……。そう危惧しながら。