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女子ノ聖域  作者: 茅原
シノ物語
79/81

死の物語。

 髪に覆われている首の後ろが蒸れて、気が遠くなるほど頭がボンヤリとする。

 

 顔や首筋から粒になって滴り落ちていく汗で襟元は不快に湿り、焼けるように熱い喪服の中、ブラジャーのワイヤー部分にはむず痒くなるほど汗が溜まっている。


 たった数秒、こうして地蔵の前で立っていただけだったが、このごく短い間でも見る見る気温が上がったかのように、暑さは苛立たしいまでになっている。


「母さんから聞いたが、学校で色々あったみたいだな、シノ」

「……うん」

「こんなことを最期に言うのもなんだが……最期だからこそ、俺の人生観――というほどのものでもないが、俺がずっと思ってきたことをお前に伝えておこうと思う」

「思ってきたこと?」

「ああ……。いいか、シノ。この世を正気で生き続けられる人間は、よっぽど器用な人間か、神様に愛されたような幸せ者だけだ。

 でも、そういう恵まれた人間はごく稀だ。だから、それ以外の人間はみんな天使か、悪魔か、もしくは地蔵の役になりきって、それで生きていくしかないんだ。そうしなければ、とてもじゃないが生きていけないから」

「それで、お父さんは……地蔵を選んだの?」

「……そうだ」


 父と病室で交わした言葉が、鼓膜を掻きむしるような蝉の鳴き声の中でもなお、静まり返った洞窟に反響する水滴の音のように、深く冷たく頭に鳴り響く。

 

 父は自らを『地蔵』と言い、そしてそんな父の目が水越と似ていると自分は感じていた。しかし、彼女たちから遠く離れたこの場所へやって来てから思う。水越は果たして『地蔵』だったのだろうか。


 父の言葉が気になって、地蔵のことを色々と調べてみると、地蔵というのは悩む民衆を救うために心を尽くした優しい存在だと解った。確かに、見ざる聞かざる言わざるという存在の象徴としての意味の地蔵ならば、水越もまた地蔵だったかもしれない。


 だが、果たして父はただそれだけの意味で自らを『地蔵』に例えたのだろうか。

 

 入院する前日、父は自分に病気のことを説明しようとして、珍しく感情を露わにした。それだけでなく、死の数日前には、その胸に秘めていた思いを伝えてくれた。

 

 自分は父という人間をよく知らない。しかし、大学教授という職業柄、人よりも知識が豊富だったに違いない父は、きっと地蔵がどのような存在であるかも知っていたはずだ。 


 だとすると、それはつまり、父はそういう人間だったということなのではないだろうか。何も見ず、何も聞かず、何も言わなくとも、密かにこちらのことを大切に思い続けてくれていたということなのではないだろうか。それともこれは、自分を慰めるための都合のいい解釈に過ぎないのだろうか。

 

 ――お父さん……本当は、どんな人だったのかな。

 

 いなくなってしまってからこんなことを思うなんて、自分は本当に救いようのない馬鹿だ。


 もっと、父という人間に歩み寄ってみればよかった。父を理解しようとしてみればよかった。理解されようとしてみればよかった。自分にとって世界でたった一人しかいない父という特別な存在について、もっとよく考えておけばよかった。

 

 突然、自分ではどうしようもないほどの勢いで後悔が胸を衝き上げてきて、シノはその衝動に身を任せて駆け出した。息を切らしながら父の眠る墓の前へと戻り、


「ごめんなさい、お父さん……!」

 

 と、生まれて初めて父に頭を下げた。

 

 最後に自宅で見た娘の顔が、自分を睨みつけるものだった。そんな悲しいことがあっていいはずがない。ずっとそう後悔し続けてきたが、あの日からは毎日がバタバタと忙しくて落ち着かず、結局、父に謝ることができないまま、今になってしまっていた。

 

 何もかもが情けない。シノの中で燻っていた気怠いような苛立たしさは、真っ赤に燃え上がる明らかな怒りへと変わり、シノは奥歯が割れそうなほどに歯を噛み締める。

 

 友人を傷つけ、さらには父を傷つけ――自分は一体、なんなのだ。

 

 このままではダメだ。このまま考えることを放棄して流されていけば、自分はきっと母をも深く傷つける人間になってしまうだろう。同じ過ちを死ぬまで繰り返す人間になってしまうだろう。


「お前は……どんな大人になるんだろうな」

 

 そう寂しく笑った父の顔が、強烈な光に打たれ真っ白に光っている世界の中で、唯一、確かな現実感をもってシノの目には映っていた。


 ――お父さん……わたし、天使になるから。

 

 その父の目を見つめながら、シノは誓った。


 わたしは決して器用な人間じゃないし、神様に愛されたような人間でもない。そして、もう二度と人の悪口は口にしたくないし、人が傷つくのを見て見ぬ振りもしたくない。だから、わたしは『天使』になる。

 

 母が言っていた。『悪口ばかり言っていると、それしか言えないような人間になる』と。それはつまり、『天使』の役になりきって生活をしていたならば、いつかはそこへと近づいていけるということのはずだ。

 

 ――これまでのわたしは、今日、ここで死んだ。わたしはここから、わたしという人間をもう一度やり直すんだ。

 

 自分は、今日この時という瞬間を逃してはいけない。逃してしまえば、自分はきっと悪魔になるか、もしくは何者にもなれずに行き場を失い、やがて正気を失ってしまうに違いない。

 

 おそらくはそんな自分の将来を案じて、父が自らの思いを伝えてくれたことを無意味にしてはいけない。そのためにも、自分は一度ここで死に、生まれ変わらなければならない。


 この場限りの感傷的な誓いではなく、自分はこの思いを胸に刻みつけて生きていかねばならない。

 

 そう決意すると、まるで粘液のように胸に纏わりついていた息苦しさが、心なしか軽くなったような気がした。

 

 けれど、代わりに口が重くなって、シノはその日の晩まで、誰とも一度も口を利かなかった。何か少しでも余計なことを言えば、この決意が呆気なく胸から抜け出て行ってしまう。なんとなくそう感じたためだったが、母も祖父母も、じっと黙り込むこちらを気遣うように何も尋ねはしなかった。


「シノ、明日、制服受け取りに行きなさいね」

 

 その晩、祖父母の家の二階にある一室――昔は母の部屋だったという一室に、自分と母の布団を並べていると、その真っ黒なセミロングの髪にヘアブラシをかけていた母が、古びた鏡台の鏡越しにこちらを見て言った。


「制服……どこに?」

「駅に行く通りにある、野田(のだ)さんっていう、昔からある小っちゃい服屋さん」

「わたし一人で行くの?」

「お母さんは明日も少しやることがあるの。大丈夫よ。街を憶えるがてらに、ぶらぶら歩いてきなさい。いい気分転換になるわよ」

 

 明日もかなり暑くなるらしく、正直気分は乗らなかったが、盆と正月にたまに来るだけでほとんど知らなかったこの街を改めて見物してみるというのは、少し面白いかもしれないとも思った。

 

 解った、とシノは頷き、それから、しばらくぶりに母となんの変哲もない日常の会話ができたこの機会を逃さずに、少しの勇気をもって尋ねたのだった。


「ねえ、お母さん。お父さんがどういう人だったのか……これから少しずつでいいから、教えてもらっても、いいかな?」

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